ロシア史雑話22

復元像で会いましょう


 歴史上の人物は、果たしてどんな容貌をしていたのか。

 いわゆる歴史マニアでなくとも、このような問いを発した人は決して少なくないだろう。実際のところ、「偉人」たちがどんな顔をしていようと、歴史を理解する上で本質的な問題ではないかもしれない。だがしかし、人間のイメージと「顔」とは切っても切り離せない関係にある。誰か歴史上の人物の名を聞いて、何よりもまずその人の顔(実物であれ想像上のものであれ)を思い浮かべる人も多いはずだ。
 ただ、実際にどんな顔をしていたのか、はっきり分かっていない人物は多い。写真が残されていれば、まず問題はないだろう。近代的な肖像画でもOK、ということにしておく。しかし、長い長い歴史の中には、写真も肖像画も残さずに死んでしまった人が数え切れないほどいるのだ。まして、これら人間の容姿を記録する技術が発明されるより前の時代であれば尚更のこと。精巧な彫像を残した古代ローマのような例外はあるが、それにしたって像が残っているのはほんの一握りの人々だろう。

 もちろん、ロシアでも事情は変わらない。この国でリアルな肖像画芸術が芽生えたのはやっと17世紀末、本格的な発展はピョートル大帝時代以降である。それ以前の肖像画は、モデルの特徴をとらえたとはとても言い難い没個性的なものばかり。イメージとしては、聖者を描いたイコンに近い。年代記や物語の挿し絵に至っては、人物がほとんど皆同じ顔をしていて誰が誰やらさっぱり分からない。横山光輝の三国志に出てくる雑兵並みだ。
 一応、テキストによる容姿の描写もあるにはあるのだが、古い時代だとやはり紋切り型なものが多い。例えば「公の身の丈は人並みすぐれ…顔は昔エジプトの王が副王にすえたヨセフの顔のごとくであった」云々と(「アレクサンドル・ネフスキー伝」:中村喜和編訳『ロシア中世物語集』より)。これじゃ何だかさっぱり分かりません。だいたい「ヨセフの顔のごとく」って、あんたそれ見たことあるのかと言いたくなるような。

 こうした史料上の制約は如何ともし難い。当たり前である。ところがソヴィエトの歴史界は、極めてラディカルな手段を用いて、歴史上の人物の顔かたちを再現することに成功した。それは他でもない…本人の顔を復元する、という方法で。
 20世紀半ば、ソ連の著名な人類学者にして考古学者ミハイル・ゲラシモフ(1917~70)は、頭蓋骨をもとに歴史上の人物を塑像で復元する方法を確立した。ロシアでは、身分の高い人であれば遺体を石棺に入れて安置する場合が多く、比較的身元がはっきりした遺骨が少なくない。専門的な知識と同時に芸術的なセンスにも恵まれていたと言われるゲラシモフは、こうして数多くの頭蓋骨を塑像でもって「よみがえらせ」、生前の面影を再現した。彼の手になる作品(?)は、ヤロスラフ賢公やアンドレイ・ボゴリュープスキー、ティムールといった有名人から、クルガン(古墳)に眠る名も知れぬ被葬者に至るまで、極めて多岐にわたっている。まさしく復元バカ一代と言っても過言ではない。まあ、小生が知らないだけで他にもいろんな業績はあるのだろうが。
 サンプルとして示したのはゲラシモフの代表作(?)、有名なイヴァン雷帝の復元像である(写真提供は馬頭氏。多謝)。モスクワ市歴史博物館に鎮座ましますもので、これが雷帝の顔という先入観もあるせいか、存在感は極めて大きい。思わず「このお方の名をいってみろ~~っ!!」とやりたくなる。答えられなかったら、首のこぎり引きどころではない酷い目にあいそうだ。
 この雷帝像はすっかりポピュラーな存在となっており、歴史書や伝記、百科事典の「イヴァン雷帝」の項目などで掲載されることも多い。全体として厳しい表情、眉間に刻まれた異様に深いしわ、特徴的なかぎ鼻など、一般的な雷帝イメージを裏切らない容姿と言っていいだろう。

 こうして、ゲラシモフが確立した復元法は学界に受け入れられ、ソ連科学アカデミー民族学研究所には人類学復元研究室が誕生するに至った。現在も、ゲラシモフの弟子たちが師の方法論を受け継ぎ、様々な人物の復元作業を行っている。ゲラシモフの時に比べ、骨格と顔の造型の関係についての研究は進んでおり、より正確な再現が可能になっているという。

 ただもちろん、復元という手法も万能ではない。まず、頭蓋骨の状況によっては復元に堪えない場合がある。保存状態が悪いため、興味ある人物の骨だと分かっていても、泣く泣く復元を断念するケースがあるらしい。それから、当該人物の年齢の制限。当たり前だが、骨はその人物が亡くなった時の状態に保たれており、それより若くはできない。「これは頼朝公ご幼少の折のしゃれこうべ…」というわけにはいかないのである。厳密には、その人物の生前の姿と言うよりは、デスマスクに近いものしかできないことになる。
 より本質的に、こうした復元という手法自体に疑問を呈する向きもある。確かに、雷帝を復元しましたとか何とか言ったって、誰も本人を見たことがないんじゃ疑いたくなるのも道理。要するに「答えあわせ」ができないのが、最大にしてカバー不可能な欠点なのである。
 実際、いかに科学的な手法を用いようとも、頭蓋骨から生きた人間の顔を導き出すには限界があるらしい。肉の厚さや髪の毛の有無など、人間の容貌を特徴づけるいくつかの要素が、頭蓋骨だけでは判断できないからだ。従って、例えば画像や同時代人の証言など、他の史料が補助的に使用される。しかし、やはりそれだけではすまない。復元を担当する者の主観、というか直感が反映されることになる。犯罪学者にして歴史上の人物の復元にも携わっているセルゲイ・ニキーチン氏(ゲラシモフの孫弟子にあたる)は、「復元作業における客観的な要素と主観的な要素の割り合いは60対40」と率直に語っている。そして、この40%が当該人物の再現にどのような影響を与えているかは、やはり誰にも分からないのだ。

 とは言え、研究が進む中で、復元像の信憑性を判断する材料も少しずつ現れているようだ。例えば1990年代後半、ロシア国立歴史博物館所蔵のイコンの中から、イヴァン雷帝の父にあたるモスクワ大公ヴァシーリー3世の肖像画が発見された(右写真参照)。絵は16世紀のもので、伝統的なスタイルで描かれ、近代以降のリアルタッチな肖像画とは異なっている。にも拘わらず、このヴァシーリー3世がゲラシモフの手になるイヴァン雷帝復元像とそっくりなのだ。すなわち額秀で、眉間には深いしわが刻まれ、厳しい表情、そして大きな鷲鼻と。もちろんゲラシモフはこの絵を見てはおらず、像の作成にあたって参考にできたはずはないので、両者は「偶然」相似していたことになる。つまり、ヴァシーリーとイヴァンという親子を描いた2つの像は、それぞれに本人の特徴をよくとらえていたのではないだろうか?
 もう1つ。かつて、クレムリンのヴォズネセンスキー修道院(※現存せず)には大公家の多くの女性が葬られたのだが、彼女たちの遺骸の研究が進んでおり、何人かは復元されてさえいる。そして、ビザンツ最後の皇帝の姪として有名なソフィヤ・パレオローグもその中に含まれている(復元担当はセルゲイ・ニキーチン)。
 ソフィヤはヴァシーリー3世の生母で、イヴァン雷帝にとっては祖母にあたるわけだが、その復元像は先に述べたような特徴の多くを共有している。すなわち高い額と鷲鼻、そして硬く厳しい表情である(意外に感じられるかもしれないが、表情というやつはある程度まで頭蓋骨から再現可能なのだそうだ)。こうして、祖母・子・孫3代にわたる顔の特徴が見事につながったという事実もまた、復元像のリアリティについて考えるヒントになるだろう。

 もちろん、どれほどこうした「証拠」があろうとも、復元像の信憑性が100%に高まるものではない。結局、最終的に信じる信じないは各人の自由ということになろう。最初にも書いたように、過去の人物の顔かたちを知ったところで歴史理解に役立つわけでもないのである。ただ、歴史に生きた人々の面影を偲ぶ「夢のある話」、ということでいいのではないだろうか。
 ところで、何度かご登場頂いたセルゲイ・ニキーチン氏は、復元技術の持つ限界を謙虚に認めていて好感が持てるのだが、同時に自分の仕事に対する自信と誇りを持っているようだ。自らが手掛けたモスクワ大公妃エレーナ・グリンスカヤ(イヴァン雷帝の母。雷帝は少年時代に死別している)の復元像に関するニキーチン氏のコメントはなかなか味があるものだと思うので、最後にご紹介しておきたい。

「…仮に今ヨアン・ヴァシーリエヴィチ(イヴァン雷帝)がここに入ってきて、母親であるエレーナ・グリンスカヤの復元像を見たとしましょう。請け合ってもいいですが、彼の目はこの像にくぎ付けになりますよ。もしかしたら、すぐには気がつかないかもしれない。それでも、何かは感じるはずです。そしてこう考えるでしょう。どこかで私たちは会ったことがあるはずだ、ってね」


※ちなみに、モスクワ・クレムリンのヴォズネセンスキー修道院はロシア革命後の1929年に取り壊されているのだが、クレムリン武器庫の職員たちは修道院の地下墓地を守り抜き、破壊から免れさせた。おかげで今日、この墓地に収められた50以上もの棺を研究する可能性が生じている。この時期に反教会政策がロシア全土を吹き荒れていたことを思うと、彼らの行動は「ちょっといい話」どころではない偉業である。こうしたエピソードをもっと調べてくれる人がいればいいのだが。

(04.07.17)


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