ロシア史雑話21

刷り師フョードロフ物語



 火薬、羅針盤と並んで三大発明の1つに数えられる活版印刷。人類の文化史上、非常に大きな影響を与えた技術であると言っていいでしょう。ご存知のように、活版印刷は15世紀半ばにヨハン・グーテンベルクが完成させたもので、その後ヨーロッパ諸国に広まっていきました。今回は、この重要な技術がどのようにしてロシアに入ってきたか?というお話しです。

 活版印刷のロシア到来には、長い時間が必要でした。当時(モスクワ大公国時代)のロシアの支配者たちは、西ヨーロッパの建築や軍事技術には関心を寄せていたものの、印刷にはあまり目を向けていません。実際問題として、西ヨーロッパとロシアとではアルファベットが異なり、ロシア語の印刷にはキリル文字で新しい活字を作らなくてはならないという障害もあります。西方で活版印刷が実用化された後も、ロシアの人々は依然として筆記係や写字生、あるいは自らの手に頼って文字を書いていました。
 モスクワでようやく印刷が行われるようになったのは16世紀半ば、グーテンベルクの時代から数えると実に1世紀が過ぎていました。最初期のロシアの印刷物としては、宗教関係の書籍がいくつか知られています。これらは作られた日付も製作者の名前もよく分かっていませんが、おそらくはイタリアやバルカン半島からやって来た技術者の仕事であろうと考えられています。

 そして、ロシアの出版にとって重要な拠点となったのは、1563年にモスクワ・ニコリスカヤ通りで開設された印刷局(ペチャートヌイ・ドヴォール)でした。時の皇帝は、「雷帝」の通り名であまりにも有名なイヴァン4世。暴君イメージが強いイヴァン雷帝と、印刷技術普及のような文化事業とは食い合わせが悪いように感じられるかもしれません。しかし実際の雷帝は優れた頭脳の持ち主で、第一級のインテリでした。当時のロシア文化に、雷帝が与えた影響は少なくないと考えられています。
 ただし雷帝も、「文化の普及」などという漠然とした理由だけで印刷所を立ち上げたわけではありません。そこには、活版印刷を必要とする具体的な背景がありました。まず1つは、ロシア正教会において祈祷書を統一する必要性が生じていたこと。当時の祈祷書は手で書き継がれていたため、地方間で異同が多くなっており、ロシア正教会の指導部にとって頭の痛い問題でした。しかしすべての書物を印刷してしまえば、これらをたやすく統一できるわけです。さらに、1552年のカザン汗国征服により、「異教徒」の人口が大幅に増えたことも見逃せません。東方への拡大を始めたモスクワ大公国は、征服地にキリスト教を普及させるため、宗教関係の書物の量産を急務としていました。

 かくして、雷帝の期待を受けた印刷局では、宗教書の印刷作業が進められました。1564年、ここで完成した『使徒行伝』は、作成の日付が知られている印刷物のうちロシア最古という記念すべき作品です。この仕事に携わったのは、(ロシアでは)有名なイヴァン・フョードロフとその協力者ピョートル・ムスチスラヴェツでした。
 今日、イヴァン・フョードロフはロシア初の活版印刷技術者として讃えられ、モスクワのニコリスカヤ通り付近には立派な銅像が建てられているほどです(冒頭写真参照)。もちろん、日本では余程のロシア史マニアでもなければ知らない人物でしょうが、調べてみるとこれがなかなか面白い。フョードロフは1510年頃の生まれとされ、一説によれば、1529年から32年までポーランドの名門・クラクフ大学で学んだと言われています(ちなみにクラクフでは1473年に初の活版印刷が行われている)。その後、モスクワのクレムリ内にあるニコラ教会で書記を務めていたフョードロフは、印刷業に携わっていくわけです。
 それまでロシア語の印刷物はほとんど存在していなかったため、フョードロフは活字を考案する段階から始めなくてはなりませんでした。そして彼は、当時使われていた行書体を参考にして、ロシアの活字のスタンダードを生み出すことに成功します。これは、ロシアの文化史上でも非常に大きな貢献であったと言えるでしょう。

 しかしながら、「ロシアのグーテンベルク」フョードロフは、モスクワで長く活躍することはできませんでした。1566年、フョードロフとムスチスラヴェツは、ロシアの西の隣国リトアニア大公国(当時はポーランドと同君連合の関係にあった)へ移り住みます。
 なぜ彼らはロシアを出たのか?どうやらこの辺りの事情はあまり分かっていないらしく、いろいろな説明がなされています。最も一般的なのが、印刷という新技術を嫌うロシア正教会保守派に睨まれた、あるいは異端の嫌疑をかけられたため、モスクワから逃げ出した(あるいは追放された)というもの。この説のバリエーションとしては、活版印刷に脅威を感じた写字生たちに迫害されたとする、ロシア版ラッダイト運動的な話もあります。一応は肯けそうな理由ですが、しかし他ならぬ雷帝自身が印刷事業を押し進めていたことを考えると、これらの説に疑問がないわけではありません。現に、両名の逐電後もモスクワの印刷局は活動を続けています。
 また、イヴァン雷帝はリトアニア領に含まれていた西ルーシを啓蒙するため、フョードロフとムスチスラヴェツをわざと国外に送り出したという説もあるようです。しかしこれはどうにもおかしな話で、当時のポーランド・リトアニアはモスクワ大公国との戦争の真っ最中でした。さしもの雷帝も、敵国の住民を啓蒙するほどの余裕はなかったでしょう。
 あるいは、フョードロフは単にモスクワに嫌気がさしたのだと、そう考える人もいます。彼は、自ら活字のデザインを考案し、また時分が印刷した書物に序文や後書きをつけていることからも分かるように、優れた才能と教養の持ち主でした。当時のロシアでは稀なタイプの人間と言っていいでしょう。そのフョードロフにとって、保守的な教会と超強権的な皇帝が支配するモスクワの空気はあまりに息苦しく、自由な活動の場を求めて自ら国外へと移り住んだ…というわけです。
 
 いずれの説を採るにしても、ロシアを出たフョードロフが様々な場所で活躍を続けたことは間違いありません。
 フョードロフにとって幸運だったのは、彼の亡命先であるポーランド・リトアニアが、広大な旧キエフ・ルーシ領を含んでいたことでした。つまり、モスクワの人々とほぼ同じ言葉を使う東スラヴ系住民の数が多く、フョードロフの印刷技術も顧客には事欠かなかったわけです。それからまた、皇帝の専制が極度に発達していたロシアと異なり、ポーランド・リトアニアでは貴族が強い力を持っていました。各地に割拠する貴族たちは、有力なパトロンとしてフョードロフを援助し、その活動を支えています。

 モスクワを出たフョードロフとムスチスラヴェツがまず腰を落ち着けたのは、現在のベラルーシ領にある街・ザブルドヴォでした。ここで2人は、ホドケーヴィチ公の庇護の下に印刷所を開き、『教育用福音書』を初めとする複数の書物を印刷しています。
 この後で2人の道は分かれ、ムスチスラヴェツはヴィリニュスへ、そしてフョードロフの方は西ウクライナのリヴィウへと居を移します。現在のリヴィウ市は、西ウクライナを代表する街の1つですが、当時も交易路の中心にある商業都市として繁栄していました。ここでフョードロフは『使徒行伝』と『文字教本』を出版(1574年)、これはウクライナ領内で出版された最初の書物とされています。つまりフョードロフは、ロシアとウクライナ両国における「活版印刷の父」になったというわけです。
 さらにその後、フョードロフはオストログの街へと移り、領主コンスタンチン・オストロシスキー公の後援を受けて印刷活動を続けていきます。なかでも1580年から81年にかけて公刊された聖書は、史上初めての教会スラヴ語による聖書の完全版という価値あるものでした。ちなみに、フョードロフにオストログ行きを勧めたのは、モスクワからの亡命貴族として有名なアンドレイ・クルプスキー公だったとする、興味深い説もあります。クルプスキーは当時のロシアでも有数の知識人で、同じく異才の持ち主だったフョードロフとのつながりというのは、何とも想像力を刺激させられる話です。
 聖書出版後の1582年、フョードロフはオストログを離れ(オストロシスキー公とのケンカ別れが原因とも言われる)、再びリヴィウへと舞い戻ります。ここでフョードロフは武器の製作に熱中したらしく、以後は印刷を行っていません。印刷から武器職人とはずいぶん突飛な話ですが、両方とも鋳造技術が必要という点では共通しており、多才なフョードロフはどちらもこなすだけの腕を持っていたのでしょう。
 1583年1月、フョードロフは、ポーランド王ステファン・バトーリ(当時、旧主イヴァン雷帝との戦争を終結させたばかりでした)のために小型の大砲を鋳造したという記録があります。さらに同年2月から7月にかけてはウィーンを訪れ、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に自作の大砲の売り込みを図っているものの、これは不首尾に終わりました。そして1583年12月5日、フョードロフはその生涯をリヴィウで閉じることになります。

 モスクワを出た後のフョードロフが果たして幸福であったのかどうか?もちろんこれは、本人に聞いてみなければ何とも言えない話です。出版事業にはそれなりの資金や場所が必要で、フョードロフはあちこちで金策に苦労していたようだし、亡くなったときには貧乏のどん底だったという説もあります。華やかな生涯、とまでは言い切れないかもしれません。
 しかしながら、少なくとも後世の我々の目から見ると、自らの腕と知識を頼みとし、各国を股にかけて活躍したフョードロフの生き様は、非常に魅力的なものに映ります。ロシアにとって、フョードロフを失ったのは手痛い頭脳流出であったと言えるでしょうが、しかし彼がモスクワに留まり続けた場合、これほどまでに幅の広い活躍が可能であったかどうか。ロシアは極めて多くの異才を世に送り出すものの、同時にそうした才能の多くを使いこなし得ず、国の外へ逃してしまう…というパターンは、すでにこの頃から現れているように思われます。

 最後に、その後のロシアにおける印刷について簡単に触れておくことにしましょう。雷帝が創設したモスクワ印刷局は、その後もアンドロニク・ネヴェジャなどの優れた職人に支えられ、活動を続けています。フョードロフという先駆者を失ったものの、ロシアの印刷技術そのものが無になることはありませんでした。しかし一方で、ロシアの初期印刷物はいずれも宗教関係の書籍に限られ、広く文化一般に影響を及ぼすことはなかったと言われています。
 最終的に、ロシアの印刷事業を大きく前進させたのはピョートル1世(大帝)でした。あらゆる手段を用いて国の近代化(西欧化)を強行したピョートルは、出版という便利な「道具」にも目をつけたのです。ロシア初の新聞が登場したのはこの時代(1703年)のことで、1708年には新しい綴り字が導入されました。これは従来のアルファベットよりも簡素な形を持ち、印刷に適したスタイルとなっています。新しい時代に必要な知識や技術を広め、また政府の意向を国の隅々まで行き渡らせるため、ピョートルのロシアにとって印刷は欠かせない存在でした。イヴァン・フョードロフがロシアの貧しい土壌に蒔いた印刷技術の種も、その没後120年を経てようやく結実した、と言うことができるでしょうか。
 

(04.04.18)


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