ロシア史雑話19
さまよえるクトゥーゾフ
ロシアで出版されている週刊誌の1つに、『ヴラスチ(ВЛАСТЬ)』というものがある。経済紙「コメルサント」が出しているもので、「権力」を意味する誌名の通りに政治ネタが中心となっている。スタンスは「コメルサント」紙と同じでかなりひねくれており、現政権に対してもどこか冷笑的というか、皮肉を効かせたような記事が多い。もっとも本気で政府を批判したらすぐにひねり潰されちまうから、せいぜいおちょくる程度にとどめているのだろうが。
この『ヴラスチ』誌に、「アルヒーフ」と題する歴史関連のコーナーがある。これまであまり知られなかった事件を振り返るものも多く、なかなか面白い。その中から1つ、クトゥーゾフ将軍に関する記事をご紹介しよう。ちなみにこれは2003年9月第一週の号に掲載されている。
ミハイル・クトゥーゾフ。ロシアに関心がなくとも、軍事史に強い方なら聞いたことがある名前かもしれない。ナポレオニック関係者なら確実だろう。ロシアを代表する軍司令官の1人にしてナポレオンの死兆星、片目の老将クトゥーゾフである。
クトゥーゾフは1745年生まれ、対トルコ戦など数々の戦争に従軍した他、外交面でも実績を残している。しかしやはり、クトゥーゾフといえばナポレオン戦争である。1812年、ナポレオン率いる大陸軍がロシアに侵攻したとき、クトゥーゾフは防衛軍の総司令官としてこれを迎え撃った。そしてロシア軍は、モスクワまでも明け渡すという苦しい戦いの末、敵軍をほぼ壊滅させることに成功している。
何しろ常勝ナポレオンを転かしたわけで、大金星どころの話ではない。軍人としてのクトゥーゾフの名は、これで不朽のものとなった。ナポレオンのファンにしてみればいまいましい限りだろうが、それでも一定の評価はなされていることだろう。もちろん当のロシアでは、クトゥーゾフは救国の英雄として讃えられきた。
簡単に言ってしまえば、『ヴラスチ』誌の記事は、こうした従来のクトゥーゾフ評価に真正面から挑戦するものである。偶像破壊、と言い換えることもできるだろう。
『ヴラスチ』誌の特集記事は、主に同時代人の証言を中心としてクトゥーゾフの「功績」を振り返っていくわけだが、その人物像は英雄とはかけ離れている。怠慢・臆病・無能と、まったくいいとこなしのダメ将軍なのである。
例えば、ロシア・オーストリア連合軍がナポレオンに大敗したアウステルリッツの戦いである。通説では、この戦いでは軍事に疎い皇帝アレクサンドル1世が口を挟んだおかげで、司令官であるはずのクトゥーゾフはほとんど何もできなかったとされている。しかし『ヴラスチ』誌によれば、クトゥーゾフは作戦会議の席上でずっと居眠りをしており、拙劣な作戦計画の採用に反対しようとしなかった。そして戦闘本番でも、消極的な行動に終始してみすみす敗北を喫している。
次に、1812年戦役の山場の1つとなったボロジノの戦い。一般的なイメージと異なり、このときのロシア軍は兵力でも砲数でもナポレオン軍を上回っていた。にもかかわらず、敵軍のモスクワへの進撃を阻止できなかったのである。もちろん『ヴラスチ』誌は、総司令官のクトゥーゾフにその責任ありとしている。実際、参考として掲載された両軍の布陣図を見れば、ロシア側が敵の進撃路を読み誤っており、見当違いの方向に兵力を割くというミスを犯したことは明らかである(軍事に詳しい方なら別の見方をするかもしれないが、一応ここでは『ヴラスチ』誌の見方に従っておきたい)。
さらにクトゥーゾフは、軍事的な能力に欠けるばかりか、人間的にも大きな問題があった。例えば1812年戦役において、バルクライ・デ・トーリから軍の指揮権を引き継いだクトゥーゾフは、前任者が選定していた有利な陣地を放棄している。これは、バルクライに対する讒言を真に受けたからである。さらに同じ戦役の後半、追撃に転じたロシア軍は、ベレジナ川のほとりまでナポレオンを追いつめながら、最終的にこれを取り逃がした。原因は、クトゥーゾフが友軍の一翼を担っていたチチャゴフに私怨を抱いており、わざと彼に協力しなかったからだと考えられる。
『ヴラスチ』誌はさらに、こうした見方を裏付けるため、クトゥーゾフと共に戦った同僚たちの証言を引用している:「クトゥーゾフだけど、下手な戦をするってことにかけては天才的やね」(ピョートル・バグラチオン)
「卑しい宮廷役人さ」(ミハイル・ミロラードヴィチ)
「とんでもない陰謀家だよ」(ドミトリー・ドフトゥロフ)
「ボロジノの戦い?あんときゃ、誰も俺たちを指揮なんかしなかったな」(ニコライ・ラエフスキー)
「とても賢明でしたが、同時におそろしく性格の弱い方でしたね。決断力のなさや肉体的・精神的な怠慢さが、数々の美質をうち消してしまっていました」(アレクサンドル・ランジェロン)
「彼は寝てばっかで何もしないし、姿を見かけたことなんかほとんどねえよ」(ニコライ・ムラヴィヨフ)
等々。見ての通りで、くそみそと言ってもいいような評価ばかりである。
それでは何故、こんなぐうたら将軍が英雄だの名将だのとして持ち上げられることになったのだろうか?『ヴラスチ』誌によれば、それは一にも二にもスターリンのおかげなのである。
ご存知の通り、独ソ戦が始まってから半年の間、ソ連軍は敗走につく敗走を余儀なくされた。しかしこの状況はどこかで見たことがないか?そう、1812年だ!あのときだって、敵軍を国土の奥深くまで引っ張り込んでからこてんぱんにのしてやったじゃないか。というわけで、スターリンの政府は敗戦に沈むソ連国民の士気を鼓舞するため、1812年の「英雄」クトゥーゾフを天より高く持ち上げることになった。開戦1年後の1942年には、クトゥーゾフ勲章が制定されている。
そして戦後の1947年、スターリンはとある雑誌に発表した論文で、クトゥーゾフを「天才的な将軍」として誉め称えた。その直後に、2人の歴史家がスターリンによるクトゥーゾフ像を裏付ける(ほぼ同じ内容の)本を出版したというのが、盛期スターリン時代の恐ろしいところ。こうしてスターリン印の名将・クトゥーゾフが誕生するも、『ヴラスチ』誌によれば、それは彼の実像とは断じて一致しないというわけだ。� � � � �
以上、現代ロシアのジャーナリストによる「クトゥーゾフ批判」のあらましを述べてみた。スターリン批判などと比べれば影響ははるかに小さいだろうが、それでもこうした試みには興味深いものがある。
例えば、(皇帝アレクサンドル1世やチチャゴフなど)クトゥーゾフ名将伝説において引き立て役を振られた人物にとっては、新たな評価のきっかけとなるだろう。英雄伝説の陰で「仇役」の人物像が矮小化される傾向については、常に慎重でなくてはならない。それから、無批判にロシア人の「国民性」と結びつけて言及されることの多い焦土作戦についても、もう一度考え直した方がよさそうである。全てクトゥーゾフの計算通りに進んだと解釈するか否かで、1812年戦役の見方は大きく違ってくるはずだ。
実際のところ、歴史はシミュレーションゲームとは違い、全てが人物の能力値によって定められているわけではない。才知ある人間が常に勝つとは限らないのである。『ヴラスチ』誌が行ったクトゥーゾフ像の再検討は、「ナポレオンの如き天才を破るのは同じような天才に限られる筈だ」という思い込みに対する、1つの処方箋になるものかもしれない。
しかし一方で、『ヴラスチ』誌の記事が全て説得的というわけではない。それどころか、よく読んでみると非常に強引な論旨が多く、逆に歴史への誤解を与えかねないのが実情である。
もちろん、わずか5ページの特集記事では、それほど多面的な内容は望むべくもない。しかしながら、これだけクトゥーゾフをこき下ろす一方で、彼にとってプラスになるはずの事実をまったく無視するのはやりすぎだと思う。もしも本当にクトゥーゾフが無能一筋の人間だとしたら、どうして彼は最終的にナポレオンを撃退することができたのか、そもそも何故司令官に任ぜられ、軍内で重きをなすことができたのか。『ヴラスチ』誌はその辺りにほとんど説明を与えていない。
それから、(先に引用したような)同じロシアの将軍たちによる辛辣なクトゥーゾフ評を、「同時代人の証言」として無批判に取り上げている点。もちろん、同時代人だの同僚だのの記録が一級の史料であることは否定できないが、しかしそれらが客観的なクトゥーゾフ像を伝えているかどうかはまた別の問題だろう。妬みの感情、個人的な折り合いの悪さ、それに派閥関係などなど、悪口を書く理由なんていくらでもある。直接面識があるだけに、却って歪んだ人物像を残してしまっているかもしれないのだ。聞くところによれば、ナポレオン麾下の将軍連の多くも非常に仲が悪く、けなし合いがしょっちゅうであった由。同じ軍隊に所属しているからといって、全員が戦友愛に満ち溢れていたとは限らない。まあ、クトゥーゾフにあんまり人望がなかったことは事実かもしれないが…
さらに『ヴラスチ』誌によれば、スターリンの「再評価」まで、クトゥーゾフはまるで評価されていなかったことになる。これは本当だろうか?例えばトルストイの『戦争と平和』でも、クトゥーゾフはロシア精神を体現する偉大な将軍として描き出されている。正直なところ、トルストイ描くところのクトゥーゾフ像もかなり胡散臭く、本人の実像に近いかどうかは疑わしい。しかし、これが一般的なクトゥーゾフ観に影響を与えたことまでは否定できない。クトゥーゾフ神格化の全てをスターリンの所為にするのは、あまりにも強引であろう。
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実際のところ、『ヴラスチ』誌が力点を置いていたのは、「スターリン史観は生きている」ことを訴える部分にあったのではないかと思う。だから、クトゥーゾフ神格化の「共犯者」トルストイは無視され、ただスターリンだけが名指しされているわけだ。「誰がクトゥーゾフを英雄にしたのか?」という目次の記事タイトルからも、本当の狙いをうかがい知ることができる。そもそもこの「アルヒーフ」コーナーでは、ソヴィエト以降の現代史がテーマのほとんどを占めている。この記事においても、1812年ネタは見せかけだけで、実はスターリン時代がメインなのだろう。
言ってみれば、クトゥーゾフはダシに使われたわけだ。ちょっとスターリンに持ち上げられた(これ自体は否定できないだろう)のが身の不運、はるか後代のジャーナリストからこれほどボロカスに言われてしまうとは。あの世でクトゥーゾフがスターリンにあったら、恨み言の一つも言いたくなるかもしれぬ。まあ、そのスターリン自身が毀誉褒貶の定まらない人なんだけどね。
しかしスターリンはともかく、クトゥーゾフが活躍した時代からすでに200年近く、なかなか「棺を覆いて事定まる」どころの話ではないようだ。ソ連崩壊、あるいはペレストロイカ時代からこの方、ロシア/ソ連史の大幅な見直しがあったことはよく知られている通り。結果、それまでの英雄のある者は批判の対象となり、逆に以前の「人民の敵」が英雄として祭り上げられる事態が生じている。
こうした歴史の再検討において対象となったのは、多くは革命やソ連史に直接かかわった人物だという印象がある。これはまあ、分からなくもないだろう。一方でクトゥーゾフは、もちろんソ連の歴史には参加していないし、革命運動に対しても何らの関わりも持たなかったはずだ。一見したところ、ソヴィエト史観の見直しには関係なさそうな人物である。しかし時代とは厳しいもので、クトゥーゾフ将軍も安閑とはしていられなくなったらしい。
歴史の見直しが社会の大変動につきものだとすると、今のロシアはまさにそうした時期にあたっているのだろう。「英雄」にとっては辛い季節である。もちろん、『ヴラスチ』誌によるクトゥーゾフ批判が広くロシア社会で認知されているわけではないが、これから同じようなプロセスが進んでいく可能性は大いにある。クトゥーゾフやその他の英雄たちは、果たして歴史の殿堂から引きずり出されてしまうのか。そうなったとすれば、彼らはこの先どこへ行くのか。現代のロシア社会そのものを見ていく上でも、興味深い現象だと言える。(04.02.15)
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