ロシア史雑話18

エイゼンシュテイン式ネフスキー


 ソヴィエトの映画監督・セルゲイ・エイゼンシュテインについては、今さら詳しく説明するまでもないでしょう。映画史上に燦然と輝く名作「戦艦ポチョムキン」「イワン雷帝」などを(たとえ見たことがなくとも)ご存知の方は多いでしょうし、彼の提唱した「モンタージュ理論」を(たとえその内容が理解できなくとも)耳にする機会も少なくないと思われます。
 で、今回俎上に乗せようとしているのが、彼の代表作の一つ「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)であります。ポチョムキンや雷帝と比べれば、日本での知名度は残念ながらそれほど高くないかと思われます。しかしこの作品は、まず第一に13世紀のロシアを描いたもので、本ページで大きく扱っているキエフ・ルーシに比較的近い時代が舞台となっています。当時の街や服装などをビジュアル面で理解するために、資料的な価値も期待できます。少なくとも日本において、同じようなテーマの映像作品を目にすることは難しいでしょう。
 また第二に、「ネフスキー」が公開された1938年、これはロシアがスターリンの恐怖政治によって締め付けられ、またナチス・ドイツとの大戦争を目前にひかえたきわどい時期でもありました。こうした時代背景が作品にいかなる影響を与えたのか。ちょっと邪道な楽しみ方ではありますが、いわば映画の舞台裏も我々には興味深いものです。

 まず手始めに、映画の主人公になったアレクサンドル・ネフスキーという人物について簡単にまとめてみることにしましょう。

・史実としてのネフスキー

アレクサンドル・ネフスキー(1220/3~1263年) ルーシ(ロシア)を支配した公の一人。彼の生きた13世紀はルーシの地にとって苦難の時代であった。まず、1237年に開始されたモンゴル軍の侵入によってルーシ諸地方は大混乱に陥り、38年には諸公のうち最大の勢力を有していたウラジーミル大公ユーリー2世(ネフスキーの伯父)も戦死した。一方で、西方からはカトリック諸国が勢力を伸ばそうとしていた。
 これに直面したのが当時ノヴゴロド公であったアレクサンドルである。彼は1240年にネヴァ川の畔で侵攻してきたスウェーデン軍を撃破し、その功績により「ネフスキー」(「ネヴァの」を意味する称号)の名で呼ばれるようになった。さらに42年にはドイツ騎士団をチュード湖の戦い(「氷上の戦い」)で撃破し、占領されていたプスコフの街を解放している。一連の勝利によってノヴゴロド方面の国境は安定し、アレクサンドルの名声は不動のものとなった。
 ただし、西方の勇者ネフスキーも東の大敵にはなす術を知らなかった。彼はむしろモンゴルに対して徹底的な服従路線を選択し、幾度もハンのもとに伺候している。足元のノヴゴロドで反モンゴル暴動が起きたときは、これを鎮圧する側に回ったほどであった。
 この事実は、彼に対する評価を難しいものとしている。西方への勝利による「救国の英雄」というイメージ、また教会によって聖人に列せられたことなどから一般的なネフスキー人気は非常に高いのだが、一方でモンゴルに屈服したことを非難し、彼こそがロシアにおけるモンゴル支配(いわゆる「タタールのくびき」)が定着するきっかけを作った張本人、と決めつける見方も存在するからである。いずれの立場をとるにせよ、その後のロシア史の展開に大きな影響を与えた重要な人物であることだけは間違いないであろう。

 …「簡単にまとめる」って難しいものですね。特に文才のない人間にとっては。
 取りあえず、実際のネフスキーというのは(だいたい)こんな人です。それでは、映画の中のネフスキーについて少しづつ見ていくことにしましょう。

・英雄ネフスキー

 主人公だから当たり前かもしれませんが、この映画のネフスキーは非の打ち所のない人間として描かれています。モンゴルへの屈服のような都合の悪い事実は無視され、ドイツ騎士団を打ち破るという最も華々しい場面だけに絞ってあるので、安心して無敵の英雄ぶりが発揮できるというわけです。騎士団に勝ったことは事実だし、別段ウソをついているわけでもないのですが。

・戦いの規模は?

 言うまでもなくハイライトはドイツ騎士団との決戦。映画の中では、ドイツ軍はそれこそ地平線を覆うがごとき大軍で、戦いが終わった後には敵味方の死骸がのを埋め尽くすという描写になっています。すごいものです。
 ところが、敗北したドイツ側の記録によれば、騎士団の戦死者はわずか数十人にすぎず、またノヴゴロド軍は騎士団よりもはるかに人数が多かったとされています。もちろんここには敗者の負け惜しみも含まれていると思われ、かなり割り引いて考える必要があります。一方でロシア人の記した「アレクサンドル・ネフスキー伝」では、刀槍相打つ響きにより凍結した湖の氷も砕けんばかりであったそうで、戦いのすさまじさを強調しています。これは逆に、ネフスキーの功績を讃えるために誇張が行われているはずです。史料によってこれほどの落差があるわけです。
 実際どうであったのか?はよく分かりません。しかし少なくとも、この映画が完全にロシア万歳的な、ナショナリズムを鼓舞する立場に立ったものであることだけは憶えておく必要があります。

・極悪ドイツ人

 ネフスキーの敵役がドイツ軍であるのは史実だから仕方がないのですが、しかし公開当時(1938年)の時代背景を思い浮かべるとなかなかに味わい深いものがあります。当時ドイツで政権の座にあったのはヒトラーでありナチスであって、彼らが共産主義ロシアを敵対視していることは周知の事実でした。この映画が反独プロパガンダの役割を担わされたのも当然と言えます。
 容易に想像できることでしょうが、登場するドイツ人たちは完全な悪玉です。特に前半のプスコフ征服のシーンにおいてしかりで、騎士団長自ら意味もなく赤ん坊を火の中に投げ込むという残虐超人ぶりを見せつけ、ドイツ憎しの感情を否が応でもかき立ててくれます。
 もう一つ、注目すべきは騎士団に属する歩兵の兜。これがドイツ軍のヘルメットにそっくりなのです。もちろん完全に同じというわけではなく、視界を確保するスリットを残して顔の上半部を完全に覆っているため印象はかなり違っています。どちらかと言うとトルメキア軍(「風の谷のナウシカ」)のヘルメットに似ていますし、「北斗の拳」では拳王軍にも同じような輩がいたような。ただし耳の横から後頭部にかけての広がりはドイツ式ヘルメットの特徴を残しており、映画の作り手がナチスの軍隊を意識していることは明らかです。
 容赦ない殺戮を行うドイツ騎士たち、歩兵の頭にはナチ式ヘルメット…露骨ですね。同時代のドイツ人にとっては嫌がらせ以外の何物でもないでしょう(そのつもりで作っているとは思いますが)。

・モンゴル人も出てくるが…

 当時のルーシに大きな災厄をもたらしたモンゴル人。この映画にも、彼らはほんの少しだけ登場します。ネフスキーの領地にハンから使わされた役人がやって来るが、短いやり取りの末に帰っていくという冒頭の場面です。ロシア史ではふつう悪魔のごとき扱いを受けているモンゴル人、その割に大人しい描写という印象を受けるのですが、これには理由があります。
 先にも述べたように、モンゴルとの関わりでいくとネフスキーの立場は非常にあやしいものになります。彼がハンに屈服したことは紛れもない事実だからです。しかし、まさかネフスキーをモンゴル人の前に跪かせるわけにもいかない。さらに映画が作られた当時のモンゴルがソ連の同盟相手であったことを考えると(ノモンハン事件はこれより数年前のことです)、極悪非道なモンゴルのハンは余計に登場し辛くなります。かといってモンゴルをまったく無視してしまうと、時代背景としてちょっと不自然になる。で、苦肉の策としてこのような場面でごまかしたのでしょう。
 しかしこの場面に出てくるモンゴルの役人はなかなか笑えます。中国人そっくりな服を着て牛車のごとき乗り物に乗り、これが草原を駆け回ったモンゴル人か疑わしくなるほど。それにつき従う兵士達の方は、毛皮を着た一種の野蛮人としか描かれていません。当時のロシア人が持っていた「モンゴル」「東方」イメージはこの程度のものだったのでしょう。

・聖職者たち

 当時、ネフスキーの神格化に最も熱心だったのはロシア正教会でした。もし彼が敗北していればドイツのカトリック教会がロシアになだれ込んでいた可能性もあるわけで、ネフスキーは正教にとって讃えるべき恩人だったのです。おそらく、戦いの前にも多くの聖職者がネフスキーを祝福し、「異端」カトリック教徒への呪詛を行ったはずです。
 ところが、映画を見るとネフスキーの陣営にはまったく聖職者たちの姿が見当たりません。ロシア人たちは宗教的動機ではなく、ただ祖国愛のためにドイツと戦ったかのように描かれています。一方でドイツ騎士団にはこれ見よがしにカトリックの坊主がつき従っているのですが、これが黒いローブを全身にまとった魔道師のごとき奇怪な人物で、野営地にわざわざオルガンを持ち込んで陰気な曲を奏でるという役どころ。とても聖職者とは思えないような胡散臭さを漂わせています。
 これは、宗教に対するソ連のネガティヴな姿勢を反映したものと考えられます。英雄ネフスキーを讃えるのに教会までが復権してしまっては困る、というわけなのでしょう。一方ドイツ側の聖職者は故意に目立たせ、「侵略者のイデオローグとなった反動的キリスト教会」のイメージが前面に押し出されています。
 エイゼンシュテインその人が教会に対してどのような感情を抱いていたか、はよく分かりません。しかしいずれにせよ、ソヴィエトにおいて芸術作品が公式イデオロギーの線からはみ出すことは非常に困難であり、この映画もまた例外ではなかったのです。

・裏切り者に死を!

 映画のラストは、大勝利の後でノヴゴロドに帰還したネフスキーを市民が歓呼して迎えるというシーンになっています。何やらソヴィエトが大好きだった軍事パレードを見るようですが、それはいいとして。
 この「パレード」には、囚われの身となったドイツ人も参加しています(参加させられている、と言うべきか)。第二次大戦の時にもやっぱり捕虜の行進をやっていますね、ソ連。で、ネフスキーは彼らの処遇を市民の前で発表します。すなわち騎士団の幹部については身代金を取って捕虜交換、一般兵士はそのまま釈放、ただし希望者は残留も可と。意外なほど寛大な扱いですが、捕虜交換は年代記の記述にも現れています。この場面が珍しくも史料を尊重した結果なのか、あるいは「敗者をも優しく扱うロシア」という宣伝が目的なのか、ちょっと判断に迷うところです。


 しかしながら、ここでただ一人だけ許されなかった者がおります。それは、祖国を裏切ってドイツ人の手引きをしたロシア人でした。ネフスキーの命令が下るや、多数のノヴゴロド市民が彼に飛びかかって血祭りに上げるというまことに陰惨な描写となっています。
 いつの世にも、内応者は敵以上に憎しみの対象となるものです。その意味では珍しい場面でもないのかもしれません。ただ、当時のソヴィエトにおいて数え切れないほどの人々が「スパイ」として処刑された事実を考えると、このエピソードはにわかに深刻な意味を持ち始めるように思われます。
 ソヴィエトを含めた旧共産主義諸国が、国民をお互いに監視させあうことで政権を維持していた事実は今日よく知られています。もちろんスターリン独裁においても、「内なる敵」への恐怖心を煽り立てて反体制派をいぶりだし、彼らへの残虐な刑罰を正当化することは日常茶飯事でした。日本のスパイ、ドイツのスパイ、資本主義諸国から送り込まれた破壊分子、ソヴィエト転覆を狙う旧体制の遺物…このような汚名の下に、数え切れないほどの人々が殺されていったのです。
 従って、映画で「裏切り者」の否定的な役割が必要以上に強調されているのも、ロシア社会を覆っていたスパイ恐怖症が反映されているのかもしれません。

★★★★★

 いかがでしたでしょうか。映画そのものよりもこれが作られた社会的背景に関するコメントが専らになってしまいましたが、寛い心で許してやって下さい。ただ、ソヴィエト時代の芸術について語る場合には、こうした社会的(というより政治的)バックに触れないわけにはいかないのも確かなのです。政治や国家に対する従属度が極端に大きかったという事実は、ソヴィエト芸術の一つの特色であり、また弱点であったとも言えます。


 もしも39年の独ソ宥和体制が永続的なものであったなら、あるいはこの作品が大きく注目されることもなかったかもしれません。事実、独ソ不可侵条約の時代になると、ソ連当局は「アレクサンドル・ネフスキー」というあからさまな反独映画の存在を隠そうとしたようです。しかしその後の経過は皆様ご案内の通り、ソ連は「大祖国戦争」でドイツと血みどろの死闘を演じることになり、ネフスキーの物語も格好の宣伝材料として取り上げられていきます。本作が名匠・エイゼンシュテインによる優れた歴史大作との評価を得るに至ったのも、まず不思議なことではありません。
 無論、政府の戦時プロパガンダとエイゼンシュテインの映画だけがアレクサンドル・ネフスキーという歴史的人物の評価を定めたわけではありません。しかしながらここで提示された「救国の英雄」像が、一般のネフスキー理解に多大な影響を与えたことは確かですし、あるいは歴史研究者でさえこのイメージによってある種の制約を受けた可能性もあります。歴史映画の古典・「アレクサンドル・ネフスキー」には、歴史と政治、そして芸術の、まことに複雑怪奇な関係が圧縮して詰まっているのではないでしょうか。

(01.11.23)


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