ロシア史雑話17

ロシアの国民的な動物


 「拘兎死して走狗煮らる」というわけか、冷戦終結後の日本で姿を消したものの一つに「ソ連脅威本」があります。かつて政治評論家や国際ジャーナリストなどと称する輩がよく手を出した分野で、強大並ぶものなきソヴィエト帝国の軍事力や諜報力について云々し、我々が防備を怠れば世界は明日にでも征服されるかのような印象を振りまいたものです。今となってはお笑い草で、ソ連に対する過大評価もいいとこだったわけですが。
 あるとき、古本屋でこうした「脅威もの」の一冊を見かけました。内容は想像通り、いろいろとナンセンスなことを並べ立てていたのですが、印象的なのはその表紙イラストでした。巨大な熊が地球儀を食っている図。ソ連の世界征服におびえる著者の妄想が分かりやすいほどストレートに現れていて、思わず感動を覚えたほどでした。そのときに買っておかなかったのが悔やまれるところです。

 こうした悪意あるカリカチュアの世界では、ロシア人=熊と相場が決まっています。大きく・強く・粗暴で貪欲という熊のマイナスイメージが、そのままロシア人になすりつけられているのでしょう。我々日本人も戦時中にはモンキーだったわけで、他国民を動物に例えて中傷するのは別に珍しい話でもありません。
 ただし、ロシア熊と日本猿との間には大きな違いがあります。猿と言われて喜ぶ日本人は一人もいないのに対し、ロシア人はむしろ進んで熊を自分たちのシンボルとして使う傾向があるからです。例えばシドニーで敗北した「人類最強の男」カレリンですが、彼は母国の新聞で「熊」と呼ばれていました。ロシアの政治ブロックにも「メドヴェージ」(ロシア語で「熊」)を愛称に使ったものもあります。古くはモスクワオリンピックのマスコットキャラが「小熊のミーシャ」だったことを考えると、ロシア人はむしろ熊に対して愛着を持っているとすら言えるでしょう。

 何故ロシア人は熊に親近感を抱くのか。もともと北方諸民族には、熊を神聖な動物として崇拝する観念があるようです(日本ではアイヌの熊祭りなどを想起すべし)。確かに、獅子や豹などと接する機会のない北の民にとって熊は唯一の大型肉食獣(純粋な肉食獣ではないのですが)であり、その巨体と怪力には一種畏敬の念を払っても不思議ではありません。一方で熊は前足を器用に使い、後ろ足で立ち上がることもできます。こうした「人間くさい」姿もまた、熊を神聖視する傾向に拍車をかけはずです。
 キリスト教以前、いわゆる異教時代ロシアにおける熊崇拝について詳しいことは分かっていません。しかしそれが存在したことは確かで、以前紹介したヤロスラヴリ伝説を見れば一目瞭然でしょう。考古学上の発見によれば、ある地域では熊の手をお守りのように保持する習慣があったことが判明しています。またロシアでポピュラーな「熊はもともと人間であった」という言い伝えも、彼の地では古くから熊と人間とが特別な関係にあったことを物語っています。
 そもそも熊を表すロシア語「メドヴェージмедведь」ですが、これは元来「蜂蜜(мед)の在処を知っている(ведать)もの」を意味する、いわば仮の名なのです。つまり熊を実名で呼ぶことはタブーとされていたわけで、ロシア人がこの生き物に抱き続けてきた宗教的な畏怖の念をよく表現しているように思われます。


 当然のことながら、教会当局は熊を神として崇めるが如き「野蛮な」風習を嫌悪していました。上記ヤロスラヴリ伝説にもその一端は現れていますが、より時代の下った17世紀に著された『長司祭アヴァクーム自伝』(邦訳は『ロシア中世物語集』に収録)には極めて興味深い記述が見られます。アヴァクームは当時のロシア教会において反主流派であった「古儀式派」というグループのリーダーの一人で、極度の宗教的厳格さによって知られています。自伝によれば、アヴァクームはかつて熊に芸をさせる旅芸人がやってくるのを見つけたとき、一頭の熊を打ち据えて気絶させ、他の一頭を野原に追い払ったのでした。
 これだけを見ると「乱暴な坊さんだなあ」という印象しか受けないかもしれません。しかしロシアの旅芸人は異教時代の伝統を受け継ぐもので、教会によって常に敵視されてきたことを考えると、アヴァクームの憤りも分かるような気がします。彼自身、「キリストの教えを守る者として」これらの芸人たちに襲いかかったと言っています。生真面目なアヴァクームは、飼い慣らされた熊の中に異教的なるもののシンボルを見て取ったわけですが、今までに述べてきた「熊崇拝」の伝統を考えるなら、彼の観察はさすがに鋭かったと言えるのかもしれません。

 ところで、教会人(あるいはロシア人一般)が熊を特別視するにあたっては、もう一つの理由があったように思われます。それは、言うまでもないことですが熊が森に住む生き物であるという事実です。
 森はロシア史の中で複雑な役割を果たしてきました。ある一面では、森は有害な存在だったと言えます。元来農耕民族たるロシア人にとって、土壌の悪い北部の森林はあまり利用価値を持ちませんでした。またロシアの森はその深さによって有名で、迷い込んだが最後二度と出られぬ魔界としても恐れられています(ロシア民話では、森はしばしば妖怪の領分とされる)。一方で森は茸や蜂蜜など様々な恩恵をもたらす存在でもあり、また南方ステップ地域から遊牧民の侵入が激しくなったときには、ロシア人にとってこの上ない隠れ家を提供したのです。
 いわゆる「タタールのくびき」前後、南方草原が遊牧勢力によって制圧されると、ロシア人に残されたフロンティアはこうした北部森林地帯でした。農民たちは鬱蒼たる森林に対して果敢に挑戦し、粗末な道具を用いて少しずつ農地を開いていきました。この過程で熊は人々の前に何度も現れ、森の「主」として認識されていったとしても不思議はありません。ロシア人が森に対して持つ様々な感情(畏敬、恐怖、感謝、愛情その他)は、そのまま熊に投影されたと考えられます。
 こうした開墾・植民事業に際して、先兵的な役割を果たしたのは修道院でした。ロシアでは14世紀頃から人里離れた森の中に庵を構える修道士が増え、やがてその周囲には多くの開拓者が住み着くようになり、結果として集落を形成することが多かったのです。
 ロシアの国民的な聖人であるセルギー・ラドネシスキーもそうした修道士の一人ですが、彼が庵で修行しているとき、森から現れた野生の熊をてなずけたというエピソードは興味深いものです。この熊には、修道士の行く手を阻む森林(あるいは自然)そのもののシンボルという役割が与えられていると見てよいでしょう。それが聖人の前に頭を垂れたことになっているのですから、教会の意図は明らかです。開拓者の先頭に立って森林を征服すべく邁進した修道士たちは、万事につけ保守的と言われるロシア教会の歴史の中でも珍しくアクティヴな姿を見せています。

 しかしながら、結局ロシア人が熊を「人間の活動を妨害する邪悪な獣」と見なすことはなく、むしろ一種の愛着を持ってさえいるのはご存知のとおり。確かに開拓は進みましたが、力強い農民たちも大森林をことごとく滅ぼすには至らず、ロシアの森は、というよりロシアの自然は、かなりの程度まで「征服されざるもの」として残りました。そして、森の主たる熊に対する畏敬の念もまた保たれ続けたのです。
 教会当局の憤懣と威嚇にかかわらずロシアの農民たちが異教的な世界観を捨てようとしなかったのも、以上のような事情と関係しているのではないでしょうか。彼らは圧倒的なロシアの自然を前に人間の無力さを思い知らされており、そのため、あらゆる自然現象の中に神を見出す古い異教的観念をリアルなものと受け止めても不思議ではありません。とりわけ強大な森の力を具現化している熊は、ロシア人に特別視されるだけの理由があったのです。
 もちろん大っぴらな熊崇拝ははるか過去の話で、ロシアにはキリスト教がしっかりと根づいています。しかし同時に、ロシア人の心の奥底にはこうした古い自然観が生き残り、キリスト教信仰と併存していることも事実です。彼らが恐れと親しみとを込めて熊を見るとき、その視線の先にはロシアの自然そのものがあるのではないでしょうか。

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 以前、ロシア語の教材として見せられたビデオの中に、ソヴィエト時代の新年風景が撮影されていました。興味深かったのは、街角の公園で一団の道化師たちが熊を使って芸をしていたことです。日本でいえばさしずめ猿回しに該当するものでしょうが、ともかく何の違和感もなしに熊が町中で人々の喝采を浴びているのです。
 サーカスや動物園のような特別な場でしか熊を見慣れていない我々にとって、これは驚くべき見物です。古くから熊に親しみ、また熊芸の伝統を培ってきたロシアならではの光景と言えるでしょう。ただ、あの厳格なアヴァクームが現代にまで生き残った熊使いたちを目にしたなら、さぞかし悲憤慷慨することでしょうが。

※ただし、言うまでもないことですが、(冒頭で述べたような)外国人がロシア人を中傷するために用いる「熊」は、以上のような文化的背景と別の流れで存在しています。我々が軽々しくロシア人を熊になぞらえるのは、最低限のマナーとしてやはり避けるべきでしょう。こうした、差別的とも言えるカリカチュアライズは、徐々に過去のものとなりつつあるはずです。

(01.02.07)


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