ロシア史雑話16
「ピョートルの巣」の巨大な雛鳥
ロシアの歴史上で最も注目に値する人物の一人が皇帝ピョートル1世(大帝、在位1682~1725年)であることは論を待たないであろう。まさに彼の治世、ロシアは「近代」に向かって走り始め、ヨーロッパ世界の仲間に入るべく一大跳躍を試みたのであった。この国の歩みを決定する重要な時代だったのである。
そうした背景を抜きにしても、ピョートルの伝記は掛け値なしに面白い。彼は大改革を貫徹すべく恐るべきエネルギーを発揮し、行政上の指示や軍隊の指揮、新たな都市の建設から学問の振興に至るまで、数多くの分野で文字どおりの陣頭指揮を行った。これには、好奇心が強くて何でも自分で試さずに入られない皇帝自身の性格も預かっていたことだろう。何しろこのピョートル、イングランドの造船技術を学ばせたときには職人たちとともに自らハンマーを振るい、また抜歯術に興味を示して習得し、臣下の虫歯を大喜びで抜いて回ったという逸話さえあるほどだ。世界の帝王の中でもちょっと類を見ない個性ではないだろうか。
しかしながら、いかな豪傑ピョートルと言えども、本当に「誰の力をも借りず」改革を進めたというわけではない。それぞれの分野で自分の手足となるべき助手を見つける必要があったのだが、それが実は大変に難しかった。何しろ当時のロシア人はほとんどがピョートルの改革に反対しており、古き良き生活習慣を捨てて西欧の猿真似をするくらいなら死んだ方がましとさえ考える者もいたのである。
国家の柱石たる大貴族層またしかり。彼らは既存の秩序を破壊するいかなる必要性も認めておらず、それを護持する側に回ったのは当然であろう。もともとツァーリの権力が圧倒的に強かったロシアでは貴族の力が弱く、西欧諸国のように議会を軸に結束して王権に協力・反抗するという事態は考えにくかった。ツァーリは貴族の反対に悩まされなかった代わりに、その助力も得られなかったのである(ロシアの貴族制という問題は改めて論じる価値があるだろう)。
にもかかわらず、ピョートルにはきわめて忠実かつ有能な部下たちがおり、彼の手足となって精力的に働いていた。この側近団、詩人プーシキンによって「ピョートルの巣の雛鳥たち」と呼ばれた彼らこそ、ロシア史を大きく左右した大改革の牽引車となったのである。
「雛鳥」という可愛らしげな名とは裏腹に、彼らの素顔は荒々しい。まず出自がバラバラであった。例えば名門貴族出身でありながらピョートルに歩調を合わせる者もいれば、下級官吏やオルガン奏者を父とする低い身分の者共もいる。ドイツ人やユダヤ人など外国人も登用され、またかつてピョートルの政敵に協力した者でさえこの集団に加わっている──彼らを受け入れる条件はただ一つ、仕事ができることであった。ピョートルの目にとまるには、自分の能力さえ示せばそれで良かったのである(「お前は何ができるか」)。「お前の父は誰か」、つまり家柄を基準としていたそれまでの人事では考えられぬ事態であり、名門貴族から成り立っていたモスクワの上流階級はこの成り上がり者たちを見て困惑したことだろう。
多士済々の「雛鳥」たちの中でも、最も際立っていたのはアレクサンドル・メンシコフであろう。彼はそれこそ「氏素性の知れぬ」者であって、その出自はよく分かっていない。ただ、かつてモスクワの街頭でピローグ(ロシア風の饅頭)の売り子をしていたという根強い噂があった。同様にいつからピョートルに随身したかも不明、かなり若い頃から行動を共にしていたことだけは確からしい。何やら織田信長と木下籐吉郎(豊臣秀吉)を思い出せる主従だが、尾張一国の領主にすぎなかった信長と比べ、ピョートルの方は絶大な権力を持つ大帝国の皇帝である。そのコントラストはいっそう際立っていた。
メンシコフもまた主君の期待によく応えている。彼はピョートルより一歳若いだけで、皇帝の動物的なエネルギーを共有していたと言えるだろう。とりわけ急務であった軍の近代化に果たした役割は大きく、また実戦においては勇猛・練達の指揮官として活躍した。大北方戦争の帰趨を決したポルタヴァの戦いでもメンシコフの部隊は決定的な役割を演じ、スウェーデン軍の撃滅に成功している。ピョートルが心血を注いで築き上げた新都サンクト・ペテルブルクの総督に抜擢されたのもメンシコフで、彼がいかに皇帝の信頼を得ていたかが知れよう。こうしてかつての平民は今や大帝の右腕となり、旧来の名門貴族に代わる新たな支配者として君臨するに至ったのである。
ただし、メンシコフを私心なく皇帝に奉仕する忠実な部下、あるいは祖国の発展のために全てを捧げた高潔な騎士、という姿に描くのは躊躇される。彼はまず傲慢で敵を作りやすい性格であった。とてつもない虚栄心と浪費癖においても第一級で、ペテルブルクの豪奢なメンシコフ邸といえば知らぬ者とてなく、皇帝は重要な公式行事のときにこの大邸宅をレンタルして使っていたくらいである(ピョートル自身は質実剛健を旨とする人物で、私生活が華美に流れることを好まなかった。彼の治世に宮廷の維持費は四分の一に縮小したと言われている)。
しかし最も厄介なのは、メンシコフが自分の欲望を満足させるためあらゆる手段を用いて不正を行っていたことだろう。何しろ帝国第一の実力者であるから、横領によって国庫に与える損害も半端なものではなかった。要するに、彼は国務に励むのと同じ程度の熱心さをもって職権を濫用し、私腹を肥やしていたのである。
このような人間を使いこなせたのはやはり大帝の器量であろう。ただしピョートルも、メンシコフのあまりの横暴さに怒りを感じることはあったようだ。皇帝は彼の功績と罪過とを天秤にかけて、使い道のなくなった寵臣を切り捨てたかもしれない。しかしメンシコフにとって幸運なことに、皇后エカテリーナが常に彼の肩をもち、折にふれてピョートルにとりなしてくれたのである。
このエカテリーナという人物もなかなか興味深い。彼女はリヴォニアの農民の娘にすぎなかったのだが、北方戦争のときに捕虜の一員としてロシアに連行され、メンシコフに愛妾として引き取られた。さらにメンシコフ邸で彼女に目をつけたピョートルは、強引に連れ帰って自分の身の回りの世話をさせ始めたのである。エカテリーナがメンシコフを庇護したのはこうした縁と、さらにはもともと自分と同じ下層民であったことを意識していた可能性もある。ともかく、この三人の関係はちょっとしたドラマとして描けるくらいの面白さを持っているだろう。
ところで、下層民の大胆な抜擢・支配層の刷新などから、ピョートルの政策によってロシア社会の流動性が増し、「民主的な」雰囲気が定着したという印象を受けるかもしれない。しかし大局的に見れば、そのような判断は誤解であることが分かる。
「雛鳥たち」を国家の要職に就けたのは、彼ら自身の高い能力だけではなく「皇帝の知遇」という偶然の要素でもあった。ピョートルの慧眼なくんば、メンシコフも一介のピローグ売りから這い上がることはできなかったであろう。もし皇帝に人を見る目がなければ、どれほど有為な人材であっても野に埋もれてしまう道理である。
ピョートル自身もそんなことは分かっていたはずで、能力によって身分を規定するシステムを作り上げようとした。実際に彼の時代に完成した官僚制は、家柄ではなく(能力に対応した)官職による新たな貴族制と呼べるもので、多少の手直しを受けながらも革命によって廃止されるまで使われ続けた。しかし、この制度によって平民の中から優秀な人材が現れ、「新たなメンシコフ」として政権を支えるような事態はほとんど期待できなかったのである。
何故か?理由は明白で、いくら業績原理が制度として保障されていようと、当時のロシア社会でその恩恵に浴することができたのはほんの一部分にすぎなかったからである。人口の大部分を占める農奴たちは、教育を受ける機会どころか移動の自由さえ持たず、社会的上昇など考えもつかぬ条件下に生きていた。逆に、資力に恵まれた旧貴族層はピョートルの求める「国家への奉仕者」へと容易に転身することができたし、実際に転身していった。ピョートルにしても下層民に上昇志向を植えつけること自体が目的ではなく、貴族層から忠実かつ有能な官僚を確保できればそれでよかったのだろう。
結局、ピョートルのような型破りかつ人を見る目に恵まれた支配者のみが、メンシコフをはじめ身分卑しき者どもを引き上げることができたわけである。彼らの活躍はロシア史の中でも偶発的な、一つのエピソードとして終わる運命にあった。ただ、あまりにも壮大で魅力のあるエピソードであることは確かなのだが。
最後に、その後のメンシコフの運命を簡単に記して終わりにしたい。主君ピョートルが53歳にしてこの世を去ると、メンシコフはかつての愛人であった皇后エカテリーナを登極させるべく暗躍し、わずか2年間ではあったが女帝エカテリーナ1世(在位1725~27年)の下でかつてと変わらぬ権勢を誇った。さらにエカテリーナの後をピョートル2世(1世の孫、在位1727~30年)が継ぐと、メンシコフは自分の娘と幼いピョートルを結婚させようと目論む。皇帝の義父となれば、彼の権力は磐石のものになるはずであった。
しかしメンシコフの幸運もここまでだった。ピョートル大帝没後少しずつ勢力を回復してきた門閥貴族層は遂に反撃に転じ、政変を起こしてメンシコフを裁判にかけ、財産没収の上で追放刑に処したのである。彼は流刑先で昨日の栄華に代わる悲惨な生活を強いられ、数年後に寂しく亡くなった。
結局のところ、メンシコフの力は全てピョートル大帝に与えられたものにすぎず、主人の死後は新たな皇帝の庇護を求めて奔走しなければならなかった。家柄自体が権力を保障する名門貴族ではなかったが故の不幸と言えるであろう。彼はあくまで皇帝の「雛鳥」であって、遂にそこから巣立つことはできなかったのである。(00.11.03)
ロシア史雑話へ戻る
ロシア史のページへ戻る
ホームページへ戻る