ロシア史雑話15

モスクワ創世記(1)



 1997年、つまり今から3年前の話だが、ロシアで「モスクワ建都850周年」が祝われたことをご記憶(というよりご存知)の方はおられるだろうか。向こうではかなり盛大な行事が行われたようだが、日本ではあまり大きく取り上げられなかったので知らない人の方が多いかもしれぬ。
 しかし「850年」とは祝うのに丁度いいようなよくないような、何とも中途半端な数字である。もう150年待てば1000年祭を祝えるのだけど、その頃には今生きている人の中で残っている人などいないだろうし、それどころか900年祭でもあやうい。もともとこの手の催しは祝う側の折り合いがつけば何年だってかまわないわけだ。

 それはさて、「850年祭」と言うからには当然850年前にモスクワが建設されたのでなければならない。1997-850=1147、つまり1147年のことである。時あたかもキエフ公国の衰退・解体期にあたり、ルーシ各地の公たちが内戦を繰り返す群雄割拠の時代に入ろうとしていた。
 具体的な状況は以下の通り。キエフ大公としてルーシ全土に安定をもたらすことのできた最後の君主・ウラジーミル2世モノマフの没(1125年)後、キエフの玉座は諸公による争奪戦の対象となっていた。1147年当時この地位にあったのはモノマフの孫・イジャスラフだが、これに対して叔父(イジャスラフの父ムスチスラフの弟)であるユーリー・ドルゴルーキー(手長公)が宣戦を布告、さらに各地方を治める公たちもいずれかの側について混乱に拍車をかけた。こうしてキエフ大公の権威はなし崩しに低下していく。
 だがここではキエフのことなどどうでもよい。重要なのは上記ユーリー公に関連して初めてモスクワが記録の中に現れたことだ。1147年、ユーリーは同盟者であるノヴゴロド・セーヴェルスキー公スヴャトスラフに使者を送り、こう言わしめた。

「兄弟よ、モスクワなるわがもとに来たれ」

こうしてスヴャトスラフを迎え、豪華なる宴会を催しかつ多くの贈り物をしたという(イパーチー年代記の記事による)。

 …実を言うとこれだけなのである。長々と前置きをしておいてこれだけ、でまことに申し訳ないのだが。この些細な記事から1147年がモスクワの始まりとされ、手長公ユーリーはモスクワ創建者に祭り上げられたのみならず立派な銅像まで建てられるという騒ぎ。いいかげんなものだなあ、という印象を受けた人はたぶん正常な感覚の持ち主だろうね。
 ただ「~記念日」の類には、同じようにはっきりした根拠を持たない場合が多いのも事実だろう。日本人も建国記念日とかを祝ってるわけだし。先にも書いたとおり、この種のイベントは祝う側の折り合いさえつけばそれでいいのである。97年も「モスクワ史料初出850年祭」であればより正確だったのだが、そんな辛気くさいイベント名では祝う気になれなかったのか。

 当時のモスクワがいかなる状況にあったのか、この記事からうかがい知ることはできない。手長公も「モスクワに来い」としか言ってないので、そこに何があったのかは想像するしかないわけだ。当時のルーシの中で、モスクワを含めた北東部は鬱蒼たる森林が広がる「未開の地」であった。それでもユーリー公の下で北東ルーシは徐々に発展していったが、その中心はロストフ、スーズダリ、ウラジーミルなどの大都市であり、例えばウラジーミルの街の華やかさなどは年代記に生き生きと描かれている。それに比べるとモスクワなんぞは「あった」という事実を知るだけで精一杯、せいぜいユーリーの領地にあった一寒村だと考えられても無理はない。
 一方イパーチー年代記によると、ユーリーはモスクワでスヴャトスラフと会見したとき豪奢な酒宴を催し、またスヴャトスラフと彼の子・家臣などに多くの贈り物を与えたという。ここから別の結論を出す者もいる。すなわち「一寒村」ではとてもこれだけの用意ができるはずはなく、モスクワはすでに相当の物資が蓄積された立派な街であった、云々と。結局のところ、史料があまりにも寡黙であるためにいろんなことが言えてしまうのである。

 年代記におけるモスクワ二度目のお目見えは1156年のことで、イパーチーと別系統のある年代記によれば、この年にユーリー・ドルゴルーキーはモスクワの城壁を作らせたという。当時ユーリーは念願かなってキエフ大公の地位を得ていたが、「本貫地」たるロストフなどの北東ルーシも相変わらず確保していた。その中でもモスクワは南西部の境界(対チェルニーゴフ・スモレンスク等)を押さえる要地で、ために要塞化の必要性が感じられたものらしい(ただし当時のことなので、城壁といっても石ではなく土塁と木から造られている)。ちなみにユーリー時代の城壁の跡は、今世紀に入ってモスクワのクレムリン内で発掘されている。
 してみると、それまでモスクワは城壁を持っていなかったことになる。おしなべてルーシの都市は皆城壁で守られているもので、56年以前のモスクワは(寒村であったかどうかはともかく)都市の名に値しない単なる集落であったと考えてよい。またユーリーがモスクワに特に目をかけて発展させた、ましてやこれを「建設した」とはほど遠い状況であったこともこれで分かると思う。彼はただ自己の勢力圏を保持するため、国境守備の拠点としてモスクワに必要なてこ入れを行ったにすぎないのである。ただその後の経過を見るなら、ユーリー時代がモスクワにとっての「はじめの一歩」だったことには変わりないのだが。

 さて、このところ文章がくどくなりがちであることは自分でも分かっているので、今回は二回に分割してみようかと思う。もう少しだけつけ加えることがありますので、よろしければおつきあい下さい。

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(00.08.05)


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