ロシア史雑話14

「ゴロド」と「グラード」の微妙な関係


 世界史の教科書にも出てくるノヴゴロドНовгородをはじめ、古代・中世のロシアには「ゴロド」で終わる都市名が意外に多く現れる。例えばベルゴロド、ズヴェニゴロド、イヴァンゴロドなどがそれだが、現代ロシア語で「ゴロド(город)」が「都市」を示す言葉であることさえ分かれば問題はないだろう。ついでに言えば「ノヴ(нов)」の部分は「新しい(новый)」という形容詞から来ており、ノヴゴロドとは「新しい街」の意味に他ならない。ロシア史上で最も古い街の一つであるノヴゴロドが「新しい」とは奇妙に響くかもしれないが。

 ところで、軍事マニアならずともスターリングラードСталинградという名を御存知の方は少なくないだろう。あれを「スターリング」の「ラード」だと思い込んでいる人がいるなら、それは間違いである(かく言う小生も子供の頃は間違ってました)。もちろん「スターリン」の「グラード」が正しい。「スターリン」Сталинとは言うまでもなく例の独裁者スターリンのことだが、後半のグラードградとはなんであろうか。ロシアの都市名としては他にもレニングラード/ペトログラード(現サンクトペテルブルク)、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)などがあるし、上記スターリングラードにしても現在はヴォルゴグラードと呼ばれていて、「グラード」で終わる都市は珍しい存在ではない。
 ゴロドとグラード。よりわかりやすくラテンアルファベットで表記するとgorod/gradとなるが、二つの言葉がよく似ていることに気がつくと思う。実際gorodとgradは同じ起源を持ち、gorodが「街」の意味で一般的に使われるのに対してgradは「スターリングラード」のように地名の一部、またgradostroitel'stvo(「都市建設」)の如く別の単語の構成要素として現れることがある。
 実を言うとロシア語において同じような現象は珍しくない。例えば形容詞dorogoi(「高い」「高価な」)に対しdragotsennyi(「高価な」)があるし、同じく形容詞korotkii(「短い」)と対応するkratkii(ほとんど同じ意味)、また「木」を意味する名詞derevoと形容詞drevesnyi(「木の」)などが見受けられる。詳しく説明すると二つの子音に挟まれた部分がolo、oro、ere等の音になるか、あるいはla、ra、re等となるかの違いであり、意味的には対応していることが多い。これらはほんの一部で、同様の例は枚挙にいとまがない。
 言語学的な用語では前者(olo、oro、ere等)を充音(ポルノグラーシエ)と呼び、ロシア語を含む東スラヴ言語に特有の現象と言われている。例えば「牛乳」は(西スラヴの)ポーランド語mlekoに対しロシア語ではmolokoといい、充音性の有無がよく分かる。ついでに英語のmilkと比べるなら、今ではお互い似ても似つかぬ形にまで分化している印欧諸語の共通性を感じとることができるだろう。

 ここまでくどくどと言語学の話を引っ張ってきたのは、これがロシア史の一断面を表す記念碑となっているからである。先にも述べたように充音はロシア語にもともとから存在した要素であったが、それではなぜゴロド/グラードのように非充音と一セットになっている例が多いのかが問題となろう。実はこの非充音グループは、はるか昔に南スラヴはブルガリアの地から輸入されたと考えられている。
 キエフ史概説でも述べたように、ロシア(ルーシ)がビザンツからキリスト教を導入するにあたってブルガリアは重要な役割を果たしていた。一足先にキリスト教国となっていたブルガリアはロシアにとってキリスト教化の手本であり、聖職者の教育も進んでいたし、教会文献をギリシア語から訳する事業も行われていた。ビザンツのキリスト教文化はブルガリアというフィルターを通してロシアにもたらされた部分が大きかったのである。ちなみに言語を表記する文字(御存知の通りキリル文字である)さえもがブルガリアからの輸入品だった。ブルガリアはロシアのキリスト教化のみならず、文化形成に対しても大きな貢献を行ったと言える。
 この背景には、ロシアとブルガリアの言語がよく似通っていたという事情がある。現代でもスラヴ諸民族の言葉は共通性が高く、国際会議でも通訳が必要ないという話すら聞かれるが、その傾向は古代・中世においてはより高かった。従ってキエフ・ルーシでは、ギリシア語からブルガリア語に訳された福音書などを抵抗なく受け入れることができたし、またブルガリア人僧侶の説教をも容易に理解したであろう。西方カトリック世界では一般民衆に理解不能なラテン語で神の教えが説かれたことを考えると、ロシアのキリスト教会ははるかに有利な前提条件を持っていた。

 ただしどんなによく似た兄弟でもどこかしら違いはあるもので、それが民族や言語といった大げさな話になれば尚更である。東スラヴ語(ルーシ)と南スラヴ語(ブルガリア)との間にはいくつかの差異があり、今まで書いてきた充音性などはまさにその代表例と言える。
 ところが古代ブルガリアの執筆者たちはそんなことにはおかまいなし、特別に東スラヴの言葉に訳すことはせずに自分たちの書いたものをルーシに供給していた。もちろん訳さずにも通じてしまうという事情を考えれば何の不思議もないことで、特にルーシ向けに書かれた書物でなくとも十分に輸出用として役に立っていたのだろう。かくしてルーシでは、自分たちの用いているものとは微妙に違う言葉で書かれた「教科書」をもとにキリスト教化が、或いはより広い文明化が進められていった。
 これはどういうことになるのか?書物の世界と現実世界で使う言葉が違う、すなわち文語口語の分離である。ただしこの違いは、例えば先に例として挙げた西方世界(聖職者のラテン語vs一般民衆の言葉)のように酷いものではない。相互に理解することが全く不可能というわけではなく、それだけに双方が相手に影響を与えやすいとも言える。
 当時の文書を見てみると、そのような影響は一目瞭然である。南スラヴのテキストを手本として出発したはずのロシア文語は、多くの点で口語的な(つまり東スラヴ的な)要素を取り入れ、変化し始めていた。ルーシで筆記された最も古い文書の段階で既にこうした傾向は現れているらしく、文語から口語への歩み寄りの早さには驚くべきものがある。もちろん正書法など確立していなかった当時のこととて、同一のテキストの中にも混乱が見られる例は多い。例えば南スラヴ的な「グラード」は「ゴロド」に変化しつつあったのだが、にもかかわらず「ノヴゴロド」と「ノヴグラード」が並立している場合さえある。ただ全体として口語の影響は強く、徐々に文語の口語化つまり東スラヴ語化が進んでいった。


 しかし話はこれで終わりではない。キエフ・ルーシの解体、更にモンゴルの侵攻を経てモスクワ大公国の時代に入っていた14・5世紀、再び南スラヴとロシアとの文化交流は活発になった。それはこの当時バルカンの聖職者たちが該地を席巻しつつあったオスマン・トルコの支配から逃れ、同じ正教国であるロシアに亡命してきたことによる。
 当時の高位聖職者の常として彼らの多くは社会の教養エリートであり、祖国で培われた文化遺産をロシアに持ち込んでその知的水準を高めることに貢献した。コンスタンティノープル陥落後、イタリア方面に逃れたビザンツ知識人たちが西欧ルネサンスの勃興にかかわったことは比較的よく知られているが、東方ロシアにおいてもまた同じようなことが起こったのである。
 しかしバルカン出身の渡来人たちは、ロシア人の使っている言葉が自分たちのそれとは異なっていることを知って驚いたであろう。自分たちの祖先が伝えたはずの書き言葉でさえ、田舎臭い東スラヴ語の影響を蒙って見苦しいものになってしまっている。一宿一飯の義理もあることだし、ここは一つロシア人どもの「方言」を矯正してやろう。と彼らがいらぬ親切心を発揮したかは定かでないが、とにかくこの時期にロシア語が再び南スラヴの影響を受け始めたことは確かである。あるいはまた、バルカン聖職者たちの高い教養に感化されたロシア人の間に南スラヴ風の言葉が流行したとしてもおかしくはない。これがロシア語史上に名高い「第二次南スラヴの影響」と呼ばれる現象である(不細工な訳だが他に言いようがない)。ちなみに「第一次」は、先に述べた如くキリスト教受け入れと共にブルガリア語が流入したことを指す。

 こうして、ロシア語の中には元からあった東スラヴ語的要素と南スラヴ的要素とが並び立つというややこしい状況が現出する。この現象は多方面で見いだせるが、ここで取り上げている充音性の問題の中に最もよく現れているであろう。
 再びゴロド/グラードの例を思い出してみよう。大本の意味である「街」を示すのは東スラヴ起源(充音つき)のgorodで、また形容詞型(「街の」)も同じくgorodskoiとなっている。一方で南スラヴ・ヴァリアントのgradも複合語の中で生き残っているのは先に見たとおりで、またどういうわけか地名を作るのはgorodではなくgradという規則ができているらしい。それ故、近代以降に築かれた都市は「スターリングラード」のように「グラード」を接尾辞として持つことになっている。一方で「ノヴゴロド」など「ゴロド」のつく地名もあるが、これはおそらく「第二次南スラヴ語の影響」以前に築かれた古い街であることが関係しているのだろう。
 ところで、これまで挙げた例では東スラヴ起源の言葉が常に優勢という誤解を与えかねないので、逆のパターンも示しておきたい。それはロシア史上でも最も重要な人名の一つ・ウラジーミルVladimirである。見ての通りこれは充音を欠く南スラヴ起源の名だが、実を言うと古代ルーシの年代記ではむしろ東スラヴ的なヴォロジーミルVolodimirという形の方が一般的であった。しかしどういう力学が働いたものか、南スラヴからやって来たウラジーミルがヴォロジーミルを駆逐したのである。ただし面白いことに、現在でもウラジーミルの愛称型ヴォロージャVolodyaには再び充音が現れていて、古い形への先祖返りを見ることができる。


 もう一つ、より極端な例を挙げておこう。それは南スラヴ型と東スラヴ型が並行して生き残り、しかもそれぞれ別の意味を持つに至ったパターンである。例えば現代ロシア語stranastorona、ご覧のように充音の有無によって対応するコンビであるが、前者が「国」の意であるのに対し、後者は「方向」「側」「サイド」等の意味を持っている。
 もう一つ、vlast'volost'というのもある。前者は「権力」、後者は「(古代における)領地」「(近代の行政単位としての)郷」を意味している。「権力」が及んだ範囲が「領地」だ、と考えると比較的分かりやすい例ではあろう。ともあれこれらのペアは、昔はともかく現在では全く異なる現象を指す言葉に分化してしまっている。

 以上見てきたごとく、現代ロシア語の中にはもともと外来語であった南スラヴ語系の要素がしっかりと根を下ろしている。我々のように「外国語」としてロシア語を学ぶものにとってこれはなかなか厄介な話で、例えば形容詞molodoi(「若い」)とmladschii(「年少の」)のように意味上でも類似しかつ充音の有無が分かれている場合など、間違えやすい例が多い。とは言え、この程度の困難などロシア語を学ぶ上では序の口にすぎないのだが。
 一方、ロシア語なんぞに関心のない人にとって今回の話は面白くなかったかもしれない。しかしながら、例えば日本語(漢字・仮名)の歴史がそのまま日本と中国との関係史を反映しているように、ロシア語の歴史もこの国の歩んできた道のりの一端を表していると言えよう。まことに、言葉とは歴史を映す鏡のごとき存在なのである。

 ところで、今まで述べてきた古い文語(南スラヴからもたらされた言葉に近い)はある場所で今でもよく保たれている。それはロシア正教の教会である。
 正教会で行われる典礼は基本的に昔つくられた聖歌などをそのまま引き継いでおり、そこで使われているのは当然のことながら古い時代の言葉ということになる(一般には「教会スラヴ語」と呼ばれている)。そのため、現代人たる信徒には必ずしも理解できない場合さえあるらしい。同様の古語尊重の姿勢は、実は日本の正教会にも共通している。すなわち日本正教会の聖歌は全て明治時代に訳されており、日本に正教を伝えた大主教ニコライ時代から変わっていないというのである。例えば

来たりて新しき飲料(のみもの)を飲むべし、生きざる石より奇蹟にていださるるに非ず、我等の固(かため)なるハリストスの不朽の泉を湧かし墓より出(いだ)さるる者。

という具合に、我々にはあまりなじみのない漢文調の翻訳が使われている。信徒以外の人にとって正教会が何となく「とっつきにくい」イメージを与えるのも、一つにはこうした言葉の問題があるのかもしれない。
 しかし正教にとって、意識的に「変えない」ことはきわめて重要なのである。つまり、それぞれの民族には神の教えがもたらされるべき時期があり(日本の場合はそれが明治時代だった)、まさにその時代の言葉で神を讃え続けることが求められる、という考え方が正教にはあるらしい。伝統を重んじ、時代の変化によっても変えられない本質を重んじる正教の性格がよく表れているのではないだろうか。言葉のあり方・言葉に対する人間の関わり方は、歴史を考える上で非常に興味深い教材なのである。

(00.06.16)


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