ロシア史雑話13

「ヨーロッパ」は何をもたらすか?


 ソ連解体・冷戦終結直後に世界を覆った楽観的な気分は今や昔の物語、世界の各地では依然としてあらゆる種類の紛争が続き、特に新生ロシアの迷走は出口すら見つからない状態です。
 冷戦体制が崩壊しつつある時期に我々をとらえた希望の一つは、とにかくこれで対立がなくなる、「我々」と「彼ら」を隔てる壁が崩される、というものだったと思います。しかし今日、世界はいまだ一つの価値観を共有するに至ってはいません。特に近年、アメリカを中心とする(旧)西側諸国に対し中国・ロシアなどが異議申し立てをする場面が多くなっています。
 

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 ごく大ざっぱに言えば、彼らの主張は「我々には我々のやり方がある」という点に尽きるかと思います。西ヨーロッパで形成された民主主義、自由・平等、人権、あるいは個人主義などの様々な価値観は今や全世界で共有されているかに見えますが、しかしロシアや中国などは欧米諸国と対立する問題が生じると「固有の文化・価値観」を旗印に掲げて対抗し、ヨーロッパの流儀が必ずしも普遍的なものではない、と主張しています。
 勿論、ロシアにおいても西欧的(=グローバルな、と解釈されている)価値観を肯定する考え方もあります。特にソ連崩壊直後はその傾向が顕著で、西欧のやり方をそのまま取り入れることで国家の建て直しが期待されたほどでした。現在でこそ「ロシア固有の価値観」路線に押され気味であるものの、西欧化への志向もまたロシアにおける思想潮流の一つであると言えます。

 「太陽の下に新しいものなし」と言うべきか、こうした二つの路線の対立は、実はロシアにおいては目新しいものではありません。19世紀の半ば、すなわちいまから150年ほども前にロシアの思想界を賑わした論争がありました。で、それが今回のテーマというわけです。

 言うまでもなく当時のロシア帝国はヨーロッパ諸列強の一角を占め、押しも押されぬ「大国」でありました。ただし軍事面に限っては、の話です。政治的には古いタイプの皇帝専制国家で、また経済面でも中世以来の農奴制がそのまま残されていました。要するに、他の西欧諸国が行ったような「近代化」とはいまだ無縁な体制であったのです。
 この時代は、ナポレオンへの勝利(1812年)で得たロシアの威信が徐々に失われていく時期でした。イギリス・フランスなど早くから産業革命が起こった西欧諸国への立ち遅れは明らかなものとなり、そしてロシアの栄光を保証するはずであった軍事面でも手痛い敗北を喫するときが来ます。クリミア戦争(1853~56)がそれで、旧態依然たるロシア軍は英仏連合軍に比べてあまりにも弱体であることが証明されたのでした。
 これに対し、ロシア国内でも変革を求める声が上がりつつありました。ロシア革命運動の第一歩ともいうべきデカブリスト事件(1825年)は失敗に終わりましたが、農奴制・専制政治の打倒を目指す者の数はこれ以降増えていきます。
 デカブリストたちが実力行使をも含め社会を政治面で変革しようとしたのに対し、思想界でもロシアの進むべき道について模索が始められました。実際、これほど知的活動が活発であったことはかつてなかったと言えます。そしてデカブリストたちに刺激を与えたのがナポレオン戦争の時に彼らが触れた西欧社会であったように、知識人たちの主な関心事もやはり「ヨーロッパ」なのでした。

 いまやロシアは多くの問題をはらみ、変革を必要としている。一刻も早く古い殻を脱ぎ捨て、西欧社会に追いつかなければならない。すなわちロシアがヨーロッパになることが必要なのだ ― ある人々はこう考えました。彼らは「遅れたロシア」と「進んだヨーロッパ」を対比させ、後者を前者の到達目標としてとらえたのです。このグループは通常ザーパドニキ、日本語に訳すと西欧派と呼ばれています。
 西欧主義者たちは自国の歴史に対し非常に厳しい見方をしていました。彼らの考えでは、ロシアは長い間ヨーロッパから孤立し、澱みきった停滞の淵の中にとどまって何物をも受け入れず、また生み出さない存在でした。この状態から抜け出す唯一の道がヨーロッパの中に入ることで、従ってピョートル大帝の近代化(西欧化)政策は大きな意義を持つものとして高く評価されています。
 彼らは西欧で生まれた民主主義を賛美し、君主制の打倒、さらには社会主義の確立までを視野に入れています。当然のことながら当局がこのような考え方を許すはずもなく、彼らの多くは過激派として監視の対象となっていました。


 一方これに対抗するのがスラヴ派(スラヴャノフィールィ)でした。スラヴ主義者たちは一方的な西欧崇拝に反対し、先進的なヨーロッパ文明の中にある様々な問題点を指摘しました。エゴイズムの蔓延、物質的充足とは裏腹の精神的貧困、ブルジョワ的俗物根性、無神論・虚無主義の流行など、彼らのヨーロッパ批判は多岐に渡っています。
 これに対して高く称揚されるのは、ロシアにもともと備わっていた(はずの)価値観、すなわち兄弟愛や隣人愛、自己犠牲の精神、謙虚さ(スミレーニエ)などです。スラヴ主義者たちはこうした美徳が近代化・西欧化の中で失われつつあることを嘆き、ロシアが真の再生を望むなら自らの道徳的特質を取り戻すべきだ、と主張していました。当然のことながら彼らはピョートルの改革を否定するか、少なくとも改革によって生じたヨーロッパかぶれの上流階級を厳しく批判しています。
 こうして見ると彼らの主張は、スラヴ主義と言うより「ロシア主義」と表現する方が適切かもしれません。ただしスラヴ主義者たちは上述の諸美徳を主に正教精神から発するものと考えており、従って他のスラヴ諸民族をも包摂する可能性を持っていたのでした。

 このように西欧派・スラヴ派それぞれの主張は全く異なっていましたが、しかし少なくとも初期においてこの両派はともにロシアの現状を憂慮し、それを打破するための理想主義的な側面を強く持っていました。従って西欧派のみならずスラヴ派もまた政府に警戒され(言論の自由などは一顧だにされぬ時代でもありました)、しばしば弾圧を受けています。
 また、一方の考え方が他方に大きな影響を与えることもありました。例えば著名な革命思想家ゲルツェン、彼は西欧派の代表的な人物とされていますが、その「ロシア社会主義論」は狭い意味での西欧派の枠内に収まらないユニークなものでした。ゲルツェンの考えでは、ロシアは西欧のようにブルジョワ社会を経由することなく社会主義に移行できる、何となればロシアには独自の農村共同体があり、これは社会主義の原理を最もよく体現している、のでした。ゲルツェンは亡命によって西欧社会に直接触れることが可能となったのですが、却ってその堕落に失望し、逆に「西欧に毒されていない」ロシア独自のシステムに期待をかけています。一方でスラヴ派の思想家でも西欧社会の中に肯定的なものを見いだしている場合があり、この両者を完全に区別してしまうのは困難とも言えます。
 しかしゲルツェンのような形で西欧派・スラヴ派の対立を止揚し得た例はやはり多くはありません。時が経つに連れてスラヴ派は当初の理想主義的な側面を失い、ロシアを頂点とする大スラヴ連合を打ち立てて西欧に対抗しようという「汎スラヴ主義」に合流していきます。スラヴ人の連合という構想そのものはロシア以外にもあったので特にロシア・汎スラヴ主義というべきかもしれません。これは極度に右翼的な、超国家主義の表れと言えます。一方西欧派の系譜はますます社会主義へと近づき、中でもマルクス主義の影響力が支配的になっていきました。こうして両思想が溶け合うことのないまま、ロシアは1917年の革命を迎えることになります。

 今では歴史となりつつあるソヴィエト連邦の時代、スラヴ派と西欧派はあいも変わらず論争を続けた…わけではありません。レーニンをはじめソ連の創始者たちはデカブリスト・ゲルツェン以来の革命思想を受け継ぐものとされ、その意味では西欧派の伝統の中に位置づけられています。またスラヴ(ロシア)人の道徳的基盤として「真の」キリスト教、つまり正教を重視していたスラヴ派の思想がソヴィエト政権に受け入れられるはずもありませんでした。
 しかしそれではスラヴ派的な考え方・世界観は完全に消え去ったのか?これについてはもう少し考える必要がありそうです。まずソヴィエト政権発足直後に期待をかけられた「世界革命」は未完に終わり、新生ソヴィエト・ロシアは国際的な孤立の中での船出を余儀なくされました。当時は第二次大戦後のような「共産主義陣営」も成立しておらず、文字どおりの孤立無援状態であったのです。
 このような状況下において、スターリンの「一国社会主義論」が勝利を収めたのは興味深い事実と言えます。発展した資本主義諸国の労働者階級と手を携えて社会主義の建設を試みる、言うなればよりマルクスに近い路線を放棄し、「社会主義の祖国」ロシアの独力での発展を目指したわけで、ここにインターナショナリズムからナショナリズムへの転換を見ることもできるでしょう。
 もちろん、これを指してソヴィエトが西欧派からスラヴ派へ性格を変えたとか、スターリンがスラヴ派的な志向を持っていたとは言えません。しかし西欧諸国(のプロレタリアート)との連携より国内の結集を目指し、社会主義という点にロシアの「独自性」を見いだした点で、現象的にはかつてのスラヴ派に近づいたとも考えられるのではないでしょうか。そして第二次大戦後に東ヨーロッパがソ連の勢力圏に収まり、スラヴ世界とほぼ対応する「共産圏」が西欧諸国とは異なる価値観で統一されたとき、この傾向はより深められたように思われます。

 しかし月日が流れ、ソヴィエトを始め共産諸国の持つ欠陥があまりにも明確になってきたとき、再び西欧的なものを受け入れようとする動きが見られます。ゴルバチョフはそれでもまだ西側との協調に留まっていましたが、ソ連の崩壊後は欧米方式を丸抱えにして市場経済への移行さえ試みられたことは記憶に新しいと思います…そしてそれが無惨に失敗したことも。
 こうして再び、スラヴ派的な思考様式が「ロシアの独自性」を主張するという形で立ち現れることになります。市場原理がロシアに根づかないのはそもそもそれがロシア人の価値観に適合していないからで、ロシアの何たるかを知らず闇雲にアメリカ式のやり方を持ち込んでもうまくいくはずはない等々、様々な批判が現れてきました。これに対し経済改革の支援者たる欧米諸国は、改革が挫折しているのはロシア人にやる気がないからだ、法的基盤などの面でロシアが欧米より低いレベルに留まっているからだ、と反論するでしょう。この種の議論はどこまでいっても平行線なのですが。

 今後、プーチン政権の下でロシアがいかなる方向に向かうのかはまだ分かりません。と言っても共産主義時代の古い秩序に戻ることはなく、特に経済面では西側と同じ方向に進むことを模索していると思われます。しかし同時に、アメリカの一極支配に対抗するという形でロシアの独自性を前面に押し出す姿勢も隠そうとはしていません。これまでにあったようなヨーロッパの全肯定もしくは全否定は最早あり得ませんが、ヨーロッパとの距離感については今後の状況次第でどのようにも変化する可能性があるのです。
 スラヴ派と西欧派、この歴史ある思想潮流は様々な姿に変化をしながら近代ロシアで地下水脈のごとく流れ続けてきました。おそらくこれからも続くのでしょう。

 最後に雑感として、日本における同種の問題について軽く触れておきたいと思います。
 わが国では表立って西欧受容派と否定派が論争を続けることはありませんでした。しかし考えてみれば、近代以降の日本は(ロシアと同じく)西欧との関わりをめぐって動揺を繰り返していると言えます。江戸時代の鎖国、その最末期に吹き荒れた尊皇攘夷思想とそれに続く開国、「文明開化」、列強と肩を並べる努力、そしてまた欧米への軍事的挑戦、「大東亜共栄圏」、敗北と民主化…ことほど左様に西欧への態度の振幅は大きなものでした。
 結局のところ、ロシアも日本もヨーロッパという巨大な存在の前で自意識過剰になっている点では似ているように思われます。僕がロシアの歴史に興味を抱く理由の一つは、この奇妙な共通点でもあるのです。ロシアを考えるとき今まで書いたようなことを念頭に置くと、多少なりとも違ったロシア像が見えてくるのではないでしょうか。

(00.04.13)


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