ロシア史雑話12

ロシア史の「女帝の時代」


 世界の君主制史上でも、18世紀のロシアというのはなかなか興味深い時代かもしれません。というのも、この時期は有名なエカテリーナ2世をはじめとする女性の皇帝が相次いで立つ、いわゆる女帝の時代だったからです。女性が君主となる例は世界史全体を見てもそれほど多くはなく、しかもこれほど短期間に集中して女帝が現れるのは極めて珍しいと言えます。
 それに加え、これに先立つ数百年の間ロシアの女性たちはまったく弱い立場に置かれてきました。男性への服従と謹み深さが女性の徳とされ、既婚の女性はもっぱら家の中に縛り付けられていました。と言っても庶民、特に農民の世界では女性の労働力も貴重であり、事情は違っていたのでしょうが、身分の高い婦人になるとあまり外に出ることすらなかったようです。
 状況が変化するのはピョートル大帝(在位1682~1725年)の時代です。彼の改革はそのまま西欧化と言ってもいいもので、その範囲は非常に広く、国家機構から生活習慣にまで及びました。貴族は伝統的な衣装や屋敷を捨て西欧風のそれを受け入れ(と言うより押しつけられ)、その妻や娘たちは、部屋に閉じこもることを止めて社交の場に現れるようになったのです。

 こうして女性の置かれた状況が劇的に変化してからすぐに「女帝の時代」が始まるわけで、この格差は大変なものです。なにしろ変化をもたらした当のピョートル1世が亡くなると、その妻であったエカテリーナ(1世)が皇帝になっているわけですから。
 エカテリーナが2年後に亡くなると大帝の孫・ピョートル2世が皇帝となりますが、彼もまたわずか3年で亡くなり、今度は大帝の姪であるアンナが即位します。彼女の治世は10年間続き、後継者として妹の孫・イヴァン(6世)を指名しました。しかしわずか1年後にクーデタによってイヴァンは廃位され、代わってピョートル大帝の娘・エリザヴェータが皇帝の座につくことになります。エリザヴェータ没後は甥のピョートル(3世)が即位しますが、すぐにクーデタが起き、その妻が有名なエカテリーナ2世(大帝、在位1762~96年)としてロシア帝国の支配権を握ったのでした。
 見ての通り非常に複雑な経緯ですが、まるで計ったように男女が交替で帝位についています。しかしエカテリーナ2世はもちろんですが、全体として女性が帝位にあった期間の方が相対的に長く、また政治的にも安定していたわけで、この時代を「女帝の時代」と呼ぶのもうなずけます。最終的にエカテリーナの死後、母親を嫌悪していた息子のパーヴェル1世は皇位継承のルールを変え、女性が皇帝になることを禁止しました。したがってロシアにおける女帝時代は大エカテリーナの死と共に終焉を迎えたのです。

 さて、ロシアの「女帝の時代」が、それに先立つ女性の無権利状態の時代と対照的であるのは先に述べたとおりですが、しかし彼女たちに先達が全くいなかったというわけではありません。政治に参加する可能性を奪われていた女性の中にも、全ロシアを動かす力を手に入れた人々がいました。それが摂政です。
 すでに10世紀の昔、キエフ公イーゴリの死後に寡婦となった妻オリガが幼いスヴャトスラフの後見となって八面六臂の大活躍をし、ルーシを大いに発展させたことは「キエフ・ルーシ概説」で触れたことがあります。しかし彼女は例外としても、ルーシでは正統的な君主(もちろん男性です)が幼くして政務を執れない場合、親族の女性が後見人として一定の支配権を得ることがありました。
 例えばイヴァン4世(雷帝)の場合、わずか3歳で父ヴァシーリー3世を失ったため、母である大公妃エレーナが摂政として国務を執り行っています。数年後にエレーナもまた亡くなりますが、これは彼女の政敵である大貴族による毒殺とも言われています。
 もう一人の有名な摂政は、ピョートル大帝の異母姉・大公女ソフィアです。父帝アレクセイの死後、後を継いだ長兄フョードル3世もまた若くして亡くなると、ソフィアは残された男性後継者である弟のピョートルとイヴァン(5世)を帝位につけ、幼いツァーリの後見者として実質的に政府を支配していました。最終的にソフィアは成長したピョートルのクーデタで打倒されますが、その間の統治は比較的安定していたと言えます。彼女は自ら確固たる権力への意志を持ち、自らのために戦いそして敗れた、前近代社会ではあまり見られないタイプの女性でした。
 

 また摂政の地位にあらずとも、君主の母親が大きな影響力を持っていたことをうかがわせる記録があります。15世紀末の大公イヴァン3世は、いわゆる「タタールのくびき」に終止符を打ったことで有名な君主ですが、同時にノヴゴロドの併合などを通じてモスクワの権力を絶対的なものにしていきました。
 ニコン年代記の記述によれば、まさにそのノヴゴロド併合について、イヴァンは府主教などと同時に母である大公妃にも助言を求めています。さらにイヴァンがノヴゴロド討伐のために率いていた軍の中には、彼の「母親の司令官」なる人物が含まれていました。どうやら大公妃は、たとえ名目的であれ、その名において軍隊をも保有していたようなのです。これも興味深い記録と言えます。

 18世紀の女帝全盛の時代は、確かにそれ以前の時代と比べ突然変異的なものと言えますが、一方では君主が幼い場合における摂政、あるいは助言者である母親、という機能を受け継いでいるとも考えられます。実際のところ、「女帝の時代」においては男性後継者は全て幼いか、あるいは血統・能力等において疑問を持たれており、女帝はその「代役」的な側面をも持っていたのです。従って女性による統治という現象は、ロシア史上全く孤立した存在ではなく、ある程度はロシア人の観念の中にも織り込まれていたと言えます。
 女性による摂政がロシア独自のものと言えるかどうか、浅学の身ゆえに確信はありません。ただ、君主が若年の場合に男性である外戚が支配権を握っていた日本の摂関時代などと比べると、明らかにロシアの摂政形態は異なっています。日本では逆に古代において女帝が多く、中世以降は皆無であることも考えあわせるとなかなか興味深い比較ができるかもしれません。

 ただし、これをもってロシアでは昔から女性が強い力を持っていたと考えるのは早計だと思われます。確かに摂政となった女性は大きな権力を手中にしたかもしれませんが、それはあくまで幼い子(君主)に対する母親の権力、にすぎませんでした。すなわち「家」に従属した権利であって、その家がたまたま全ルーシの頂点に立つ大公の家であったために、ある意味では偶然、国政に参加する可能性を得たわけです。女性は依然として社会的な活動をする機会を奪われていました。
 しかしピョートルの改革以降、状況は変わりました。ロシアの女性たちは(例え形式的であるにせよ)西欧の女性と同じ権利を得、それまでに比較して家の外へ、社会へと歩み出ていきます。そして宮廷では、ついに全ロシアを統べる皇帝の座に着く女性が現れ始めました。つまり女帝たちは、国政に携わる能力と意志を持ちながらも日陰の存在に甘んじていた摂政たちの後裔でもあったわけです。

 結局のところ「女帝の時代」は比較的短期間で終わり、革命によって帝政が崩壊するまで女性が帝位につくことはありませんでした。しかしこの時代に集中的に現れた女帝たち、あるいはそれに先立つ摂政たちは、伝統的に男性のものとされてきた政治の世界において堂々と自らの力を発揮した、歴史上まれにみる強い個性の持ち主であったと言うことができます。

(99.10.02)


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