ロシア史雑話11
ロシア戦艦艦名史
前回海の話が出たので今回はそれに関連して…というわけではあんまりなし。単なる趣味です。面白いと思った方だけどうぞ。
かつて「大艦巨砲」の時代があった。列強と呼ばれる国々は植民地獲得競争に血道を上げ、競って強力な海軍を建設した。戦艦はその基幹となる戦力であって、もちろん戦時に最大限の威力を発揮することを求められたのであるが、同時に平和な時代にあってもその国の国力・威信を象徴するものとして位置づけられていた。冷戦時代に米ソが核ミサイルの本数を競い合ったのと基本的には同じであるが、性能以外の個性に乏しいミサイルと違って戦艦はそれぞれが異なった「顔」を持ち、宣伝の対象としてもより魅力的であった。
従ってこの時代の戦艦の名前を国ごとに比較してみるのはなかなかに面白いと言える。それはまず国民に対しては愛情と信頼を呼び起こし、他国に対しては畏怖と尊敬の対象とならなければならなかった。当然のことながら国ごとに命名の基準も異なっており、これを比較するだけでちょっとした研究にもなるだろう。
例えば日米の場合は地名で統一されているので比較的わかりやすい。日本では旧国名(大和、武蔵、長門)、アメリカでは州名(アイオワ、ミズーリ、ノースカロライナ)である(ただし日本では例外多し)。大体地名というのは短くて言いやすいものが多く、また人口に膾炙していて国民にアピールするには申し分ない。戦艦の名としてはまず妥当なものであろう。
独・仏・伊では、戦艦の数自体少ないが、その中でも人名と地名とにわかれるようである。例えばドイツのビスマルク、グナイゼナウ、バイエルン、フランスのリシュリュー、ダンケルク、イタリアのコンテ・ディ・カヴール、ローマなどである。地名については先に述べたとおりだが、人名というのも戦艦にはよく使われる。まあほとんどが王様の名だったり「国民的英雄」の名だったりするのだが、これも国民の士気を高める上では使いやすい。
よくわからないのがイギリスで、人名(キング・ジョージ5世、ネルソン、クイーン・エリザベス)、称号(プリンス・オブ・ウェールズ、デューク・オブ・ヨーク)、猛獣の名(ライオン、タイガー)、形容詞(インヴィンシブル、インディファティガブル)、その他(ロイヤルオーク、ロイヤルソヴリン、リヴェンジ)などである。明確な基準というものはあまり感じられないが、あるいは何か規則があったのだろうか。
これは蛇足だが、同時代に生きていた人物の名をつけることはあまりないようである。例えばドイツ戦艦ティルピッツが現れたのは第二次大戦になってから、という具合。まあ自分の名がつけられた艦が沈みでもしたら嫌な気分になるのは間違いないだろう。ところがドイツ皇帝ウィルヘルム2世は自らの名を冠した戦艦を就役させている。たとえて言うならデスラー艦みたいなものである。戦艦ヒトラーというのはなかったので、ドイツ最後の皇帝の方がナチスの独裁者よりある意味では勇気があったのかもしれない。
前置きがやたらに長くなったが、以下にロシア及びソヴィエトの戦艦の名について述べてみたい。ちなみに参考文献は『ロシア・ソビエト戦艦史』(世界の艦船・増刊第35集、1992年)ほとんど1冊である。
まずは人名であるが、比較的歴代皇帝の名が多いようである。例えばピョートル・ヴェリーキー(大帝)、インペラートル(皇帝)・アレクサンドル3世などがそれである。インペラートリツァ(皇后)・マリーヤというのもあるが、これは国民に特別親しまれた人であったのかもしれない。同時代の皇帝の名をつける例はやはりないようである。
その他には将軍や提督など「英雄」であるが、有名なバルチック艦隊の旗艦スワロフもその一つである。より原語に近くするならクニャーシ(公爵)・スヴォーロフで、エカテリーナ2世の時代に活躍した高名な将軍である。先の「インペラートル」もそうだが、人名に称号までつけるのはロシア戦艦の癖(?)らしく、古い戦艦でゲネラル(将軍)・アドミラル(提督)・グラーフ(伯爵)・アプラクシンというやつまである。この場合は「アプラクシン」が人名でその他が称号になるわけだが、何とも丁寧なことではある。根拠はないが実戦部隊では単に「アプラクシン」とだけ呼ばれていたと思われる。毎回「ゲネラル・アドミラル・グラーフ・アプラクシンに信号を送れ!」とか言っていたんじゃ戦争にならないもの。
次に地名だが、この基準は定かではない。ボロジノ、ポルタヴァ、ガングート、セヴァストーポリなどはいずれもロシア史上有名な古戦場で、一つの規則となっていた可能性はある。アメリカでも巡洋戦艦レキシントン、サラトガは独立戦争期の有名な戦場を艦名とし、ロシアの例と似通っているかもしれない(ただしこの2艦は空母として完成)。一方でペトロパヴロフスク、ノヴゴロドなど戦場と関係のない地名も採用されている。
ところでソ連時代、スターリンの号令で建造が始められた巨大戦艦はその名もソヴィエツキー・ソユーズ(ソヴィエト連邦)とされるはずであった。ソヴィエト国家の威信を象徴する大艦隊を欲していたスターリンの意志が伝わってくるようなネーミングである。もっとも独ソ戦の勃発により、この艦は結局未完成に終わったのだが。
次に、我々にはちょっと馴染みのない「宗教的なもの」をとりあげたい。ドヴェナッツァチ・アポストロフ(十二使徒)、トリー・スヴャチーチェリャ(三聖人)などがそれである。人名の中でもゲオルギー・ポベドノーセツ(勝利者ゲオルギー、すなわち聖ゲオルギオス)、ヨアン・ズラトウースト(金口ヨアン、ビザンツの聖人ヨアンネス・クリュソストモスのこと)、アンドレイ・ペルヴォズヴァンヌィ(使徒聖アンデレ)はこのカテゴリーに入れてもいいであろう。
ロシア以外でこういうタイプの艦名があるという話は聞いたことがないので、あるいはもっともロシアらしい名付け方なのかもしれない。
また上記の区分に当てはまらない艦も意外と多い。ツェサレーヴィチ(皇太子)、スラーヴァ(栄光)、オリョール(鷲、ただし同名の地名あり)、ポベーダ(勝利)などである。その他シソイ・ヴェリーキー(大シソイ)など固有名詞らしきものもいくつかあるが、不勉強にして意味はよく分からない。こうした命名基準の雑多さはイギリス戦艦にも通じるような気がする。
最後に、これもロシア独自の現象と思われる「改名」について述べておこう。古くはロシア革命の後、最近ではソ連崩壊後に多くの地名が変更されたことは有名であるが、実は戦艦についても同じことが行われていたのである。例えば戦艦ガングートであるが、これは革命後オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤと改名されている。すなわち「十月革命」の意である。同クラスのペトロパヴロフスクはマラート(フランス革命の指導者の一人マラーのことらしい)、セヴァストーポリはパリシスカヤ・コンムーナ(パリコミューン)と改められている。いずれもフランスから名前がとられているのが面白い。改名は1920年代のことで、まだインターナショナルな気運が多分に残っていた時代の産物であろうか。ちなみにこれらは後に再度元の艦名に復している。
この他にも革命によって名を変えられた艦はいくつかあるが、その中でもポチョムキンの改名物語はこの有名な戦艦の複雑な履歴を象徴しているようで興味深い。元来この艦はクニャーシ・ポチョムキン・タヴリーチェスキーという長い名を持っていた。「タヴリーダ(クリミアの古名)公ポチョムキン」の意だが、日露戦争期に起きた有名な反乱事件の後、ポチョムキンはパンテレイモンという新たな名で呼ばれることになった。おそらくは当局が反乱の記憶を抹消するために名を変えたのであろう。ちなみにパンテレイモンというのも聖人の一人である。
しかしその十数年後にロシア革命が起こると、この艦は再びポチョムキンという名を取り戻すことになった(ただし「タヴリーダ公」の称号はなし)。革命政府としては、かの反乱事件を革命の先駆けとして位置づけることが望ましかったのだろう。改名は1917年の3月、革命のすぐ後に行われている。しかしこれでも不十分であったのか、同年の5月、艦にはボレーツ・ザ・スヴァボードゥという新しい名が与えられた。これは「自由の闘士」という、いかにもな感じの名前である。ポチョムキン事件はそれほど宣伝効果があると考えられたのであろうか。これ以降改名は行われず、艦自体も1924年に解体されてしまうが、ポチョムキンの名はエイゼンシュテインの映画によって不朽のものになり、おそらくロシア戦艦の中で最も有名なものになったのは周知の通りである。
現在では戦艦という艦種自体が過去のものとなってしまったため、ソ連崩壊後の戦艦名の移り変わりについて語ることはできない。しかし戦艦以外の軍艦でも同じことであって、共産主義時代の政治家の名を持っていた艦艇のいくつかは改名され、また建造中のもので予定されていた艦名がキャンセルされた例もあるらしい。ロシアでは地名と並んで軍艦の名もまた、政治に大きく振り回されてきたのである。
(99.07.17)
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