ロシア史雑話10

海に至る道


 ロシアと海…いかにも「なんか関係あんの?」と一蹴されそうな取り合わせである。実際ロシアの歴史の大部分が陸上で展開され、「海外」に進出したという話はあまり聞かないし、軍事的にもロシアは典型的な陸軍国で、バルチック艦隊の壊滅など海上ではおよそろくな戦績を残していないこと、などからこのイメージを覆すことは難しい。
 しかし、現実にはロシアの歴史と海とは因縁浅からぬ関係と言っていい。確かにイギリス人のようにそれこそ全世界を駆けめぐることはしなかったものの、ロシア人もまた海を通じて未知の世界に突き進んでいったのである。ここではロシア史と大きな関わりを持ったいくつかの海について簡単に述べてみたい。

・バルト海

 バルト海とロシアとの関わりは非常に古く、しかも重要である。まずキエフ・ルーシの時代、ここから南下してノヴゴロド、続いてキエフに至ったノルマン人(ヴァリャーグ)の存在を考えなくてはならない。以前にも述べたとおりルーシ建設に当たってヴァリャーグがどれほどの役割を果たしたか、については論争の残るところであるが、それでも彼らを全く無視することはできないであろう。
 キエフ時代の中心は言うまでもなく南方の都市キエフであったが、一方でヴォルホフ川のほとりのノヴゴロドもルーシの北方の中心として残り続けた。後背地として広大な森林をかかえるノヴゴロドには当時の高級品であった毛皮製品が集まり、それをバルト海を通じてドイツなど西ヨーロッパに輸出することができたのである。
 13世紀のモンゴル侵入に際してもノヴゴロドは奇跡的にそれを免れ、重要な商業都市として繁栄を享受することができた。まさしくバルト海はノヴゴロドの生命線であり、またルーシの唯一の西方への窓口でもあった。

 しかしやがてモスクワがルーシの新たな中心として台頭すると、ノヴゴロドの自立性は奪われていった。それとともに西隣のポーランド・リトヴァの伸長によって海への出口はふさがれ、ルーシは内陸国に転じていった。イヴァン雷帝(在位1547~1584)はバルト進出を求めてポーランドと長期間の戦争を行ったが、結局所期の目的を果たすことはできなかった。
 最終的にロシアが再度バルトへの窓口を獲得したのはピョートル大帝(在位1682~1725)の時代である。彼は当時バルトの覇者であったスウェーデンと戦ってこれを破り、新たな海港としてペテルブルクを築くと首都をここに移すことまで行っている。
 彼がこれほどバルト海に固執したのは、やはりここが「ヨーロッパへの窓口」だったからであった。彼によるロシア近代化政策とは西欧化に他ならず、西側からの文物を取り入れまた西側に出ていくためには、どうしても海を手に入れる必要があった。この後ロシアは他のヨーロッパ諸国と密接な関わりを持つ「大国」に成長して行くが、すべてはこのバルト海獲得から始まったと言っていい。

・黒海

 バルトに劣らず古くから、また重要な関わりを持っているのは黒海である。上記のヴァリャーグたちがバルトからルーシに入ってきたのも、そこをさらに南下して黒海を目指したからである。最終的な目的地は当時の世界で有数の大都市・コンスタンティノープルで、彼らは交易及び略奪のために黒海を渡ったのであった。
 ルーシ国家が成立しビザンツとの関係が密接になると、黒海の重要性は増していった。ビザンツとの交易、キリスト教受け入れにともなう様々な文物の流入のルートとして、である。キエフの繁栄はまさに黒海と結びついていた、と言うことができるだろう。

 しかしルーシと黒海との結びつきは長くは続かなかった。よく言われるのは十字軍によって東西の直接交易路が開拓され、コンスタンティノープル-黒海経由のルートがさびれてキエフの重要性が低下したことだが、加えて黒海北岸は肥沃な草原地帯で、古来から遊牧諸民族の活躍する舞台であった。南方草原地帯からの圧迫もまたキエフなど南方ルーシと黒海を遠ざける要因となったであろう。最終的には13世紀のモンゴル襲来と西方からのポーランド・リトヴァの拡張によって、ルーシと黒海は切り離されてしまう。

 その後、モスクワによって統合されたルーシは再び南方を目指した。しかしクリミア半島を中心に勢力を伸ばしていたクリム汗国(キプチャク汗国の後継国家の一つ)は強力であり、またその背後にオスマン・トルコがひかえていたことも事態を難しくしていた。
 上述のようにイヴァン雷帝がバルト進出に失敗したのも、対ポーランドと対クリム汗国の二正面作戦を強いられたことがその原因の一つであった。なにしろ雷帝はクリムの軍勢に首都モスクワを焼き払われるという屈辱的な敗北まで喫しており、とてもポーランドとの戦いに専念することはできなかったのである。

 結局この方面に対するロシア帝国の伸長もまたピョートル大帝以降のことであった。ピョートルはトルコから苦戦の末にアゾフ海を奪取し、これが彼の初陣ともなった。最終的にクリミアがロシアに併合されるのはエカテリーナ2世(在位1762~96)の時代になってからである。
 こうして南ロシア平原が帝国に編入されると、黒海の持つ重要性もまた高まっていく。ノヴォロシア(新ロシア)と呼ばれたこの地域は非常に地味の肥えた穀倉地帯であり、積極的な植民が行われて人口が稠密化した結果その生産力は高まっていった。そしてここから西欧に向けて穀物輸出が行われるようになり、そのルートとしては黒海を使用するのが最も有効だったのである。有名なオデッサなどの港湾都市はこうして発展していった。
 ただし黒海から地中海に出るにあたっては、ボスポラスを扼するトルコの存在が最後までネックであった。近代のロシアが数度の露土戦争によって執拗なまでに南下を試みたのもそのためである。結局のところ、「ヨーロッパへの窓口」としての黒海は、封じ込められた海にすぎなかったと言える。

・白海

 あまり知られていないことだが、白海がロシアにとってほとんど唯一の海外への窓口だった時代がある。バルトへの進出を熱望しながらもそれを果たせなかったイヴァン雷帝の治世に、イギリスの商船が白海のドヴィナ湾に漂着したことをきっかけとして英露交易が始められたのである。ほぼ鎖国状態にあった当時のロシアとしてはここが唯一の西側との交流点であった。
 ただし地理的には、白海は全く不便な海であった。西から白海を目指すには長大なスカンディナヴィア半島を迂回せねばならず、途中に待ちかまえているバレンツ海は名だたる航海の難所であった。特に冬季の航海は決死の難事業であったと言える。従って、ピョートル以降バルト海が開けると白海の重要性は低下していった。

 しかし白海はもう一度だけ重要な役割を果たすことになる。それは第2次世界大戦の時で、当時米英はドイツ軍に押しまくられていたソ連を戦争から脱落させないために多くの援助を行っていた。そしてそのルートの一つが白海だったのである。イギリスを発した船団はノルウェーの沖を通ってアルハンゲリスク・ムルマンスクに入港し、援助物資を揚陸した。バルト海が封鎖されているため北を回って白海に至る、という状況はまさに雷帝時代の再来であった。

・太平洋

 ロシアと太平洋との関わりは比較的新しく、もちろんシベリア征服以降のことである。西から東に横断する形でシベリアに進んでいったロシア人は、最後に太平洋に到達した。特に鉄道開設以前はシベリアを横断するのは長く困難な旅であり、そのため極東に港を作って本国と海で連絡する方が早かったのである。


 しかしこのためにロシアはバルト海・黒海と並んで太平洋にも艦隊を保持する必要に迫られた。巨大なユーラシア大陸の東西のはずれにそれぞれ艦隊を持つという不利は明らかで、例えば今世紀初頭のロシアの海軍力は(数字の上では)世界のトップクラスであったが、バルト・黒海・そして太平洋と艦隊を分散配置しており、個々の戦力の低下を招いた。従って日露戦争において太平洋艦隊が早い段階で撃破されると、ロシア海軍はそれを補うためはるかバルト海からバルチック艦隊(正式には第二太平洋艦隊)を回航せねばならなかった。周知の如くバルチック艦隊はあまりにも悲惨な最期を遂げ、ロシアは戦争そのものを失ったのである。
 ロシアにとって太平洋沿岸が広大なシベリアの向こうにある孤立した地方であることは現代でも同じことで、中央からの援助に期待できない極東諸地域が「独立」の動きすら見せたことは御存知の方も多いであろう。いずれにせよ太平洋は極東ロシアが近隣諸国と結び付くことのできる貴重な存在である、と言うことができよう。

 以上見てきたようにロシアと海との関わりは古く、そして多様であった。加えてピョートル大帝の時代に典型的に見られるように、海への出口を追い求めること自体ロシアの歴史に大きな影響を与えたことも見逃せない。彼にとって海はそれ以前の閉ざされたロシアの殻を打ち破り、ヨーロッパ世界に引き入れるためのひとつのシンボルでもあったのである。

◆◆◆◆◆

 蛇足になるかもしれないが、いわゆるロシアの「南下政策」について付言しておきたい。ロシアは海への出口、就中不凍港を求めて歴史的に南への進出を望み続けてきた、と言われることがある。しかし上記の通りロシアと海との関わりは時代及び場所によって様々である。例えば黒海との関わりをみても、古代ルーシではコンスタンティノープルとの貿易、近代ではヨーロッパとの通商ルートの確保という個別の動機を持っているのであって、一貫して南方へ領土を拡張することを望んでいたわけではない。一方バルトに関する限り、ロシアの政策は「西進」であって南下ではないのである。
 ロシア=南下=不凍港という構図は、近代以降の極東ロシアについてはある程度当てはまるだろう。しかしそれはロシアの歴史の中のある部分にすぎないのであって、普遍化させることは危険である。おそらくは日本において「北方からの脅威」が喧伝されていたことと無関係ではないのだろうが、多少誇張されすぎているとは思われる。
 ひどいのになると「ロシア人は古代から本能的に南下を繰り返してきた」などと書いているが…なんだかねえ。まるで渡り鳥扱いである。例えば「日本人は本能的に腹を切る」とかいうのとあまり変わらんようにも思うのだが。

(99.06.12)


ロシア史雑話へ戻る

ロシア史のページへ戻る

ホームページへ戻る