ロシア史雑話9

「焦土戦術」について


 しばらく前のことであるが、かの落合信彦氏がロシアについて書いた本を立ち読みしたことがある。ほんの走り読み程度、ほとんど内容を把握しなかったのであるが、概ねこんな感じだった。現在のロシア経済はマフィアに牛耳られており、こんなものにいくら援助をしてやったところでどうにもならない。日本もつきあう国を選ぶべきで、ロシアとは早く手を切った方が身のためである云々…
 この本の主旨については敢えてなにも言いません。いかにも「後進国」を見下したような筆致は気になるけど、まあ筆者の人間性だと思えば。こちらは経済面の知識など白紙に等しいのだから、この点について文句をつけるのもできない道理である。それに、誰が見ても今のロシアがノーマルと思えないのも事実だし。

 でもね。最後の辺りでナポレオンやヒトラーを引き合いに出して「ロシアに関わるな」説の補強にしているのはどうかと思う。あんまりにも安易であるし、それにこの場合本当に例えとして有効か疑問でもある。何が何でも歴史に学べ!というのはビジネスマン向けの雑誌ではおなじみの心性なのだが。

 御存知の方も多いだろうが、ここで言うナポレオンの例とは1812年戦役のことである。この年までにヨーロッパの大半を勢力圏内に収めたナポレオンは、ロシアに向けて大遠征を行った。ロシア側は後退を続け、一時は古都モスクワすら明け渡すのであるが、あくまで講和には応じず、逆に補給を断たれたナポレオン軍は撤退を始め、兵力の大半を失うに至る。ロシアではこの戦いを「祖国戦争」と読んでいる。
 ヒトラーの場合はもっと有名だろう。1941年、ソ連に攻め込んだドイツ軍は脆弱な赤軍の抵抗を打ち破り、モスクワの前面にまで到達しながらも攻めきることができず、その後徐々に反攻を受け、45年に最終的な敗北を喫することになる。ちなみにこちらの方は「大祖国戦争」の名で(ロシアでは)有名である。
 落合氏に限らず、この二つの戦争がセットで扱われることは多い。どちらも当時ヨーロッパでは敵なしであった強力な軍隊が相手であり、しかもロシアの国土深く敵を呼び込み、その疲弊の後に反撃に転じるという戦術も共通している。
 しばしばこれは「焦土戦術」と呼ばれている。つまりロシア軍は緒戦での決戦を避け、できるだけ敵に物資を残さぬよう(意識的に)退却を続けて、逆襲を開始するしかるべきタイミングを見計らっていたというのである。
 ちなみに落合氏の主張の根幹は、ロシアは偽りの退却が得意だから、今の状況でロシアへの投資・援助を続けることはいたずらにロシア戦線に力を注いで疲弊したナポレオンやヒトラーの愚を繰り返すことになる、ということらしい。いささかこじつけという気もするが、「歴史から学ぶ」場合にありがちなことではある。

 問題は、ロシア軍は古来それほど「焦土戦術」を得意としたのか、あの勝利は本当に計算の上でなされたものなのか、ということである。
 まず1812年であるが、緒戦でロシア軍が決戦を避けたのは計算づくであったかどうか。開戦時にはロシア軍の主力は分散しており、それを集結させるためにも時間が必要で早期の決戦は問題外であった。さらに当時幾多の戦役で無敗という評判をえていたナポレオン軍に対し、幾分の気後れもあったと思われる。
 いずれにせよ撤退を続けたことで司令官バルクライ・デ・トーリへの風当たりは強くなり、有名なクトゥーゾフが新たな指揮官として赴任することになる。クトゥーゾフは兵の期待に応える形で決戦を行い(ボロジノの戦い)、敵味方ともに大きな損害を出している。もし当初からロシア軍が一貫して退却戦術をとっていたなら、この段階で決戦を挑んだことは矛盾以外の何者でもないだろう。
 最終的にナポレオン軍は往路の行軍で荒らされたルートを退却したため「焦土戦術」と同じ効果が得られたのであるが、それは結果論に近い。少なくともクトゥーゾフ司令官就任のいきさつから見れば、なるべく早い段階で決戦を行い敵を叩き出すというありふれた方針をロシア軍はとっていたと考えられる。

 独ソ戦についても同じである。確かに開戦当初ソ連軍の反撃は弱かったが、これは意識してそうしたというよりはしたくてもできなかったのが実状であろう。大粛清の後遺症から当時のソ連軍は正常に機能しておらず、指揮官の質・兵の練度など多くの点でドイツ軍に劣っていた。一方で各方面軍には国土の死守が命じられ、特にキエフではスターリンの無謀な命令によって撤退が遅れたため50万人以上の兵力を失う大損害を受けている。

 このように、ロシア(ソ連)軍の勝利は周到な戦術の所産というよりはむしろ結果オーライの側面が強い。確かにどちらの戦いでも、敵軍への物資を残さぬための破壊工作が行われたことは事実である。しかしそれは敗北が明らかになった時点での「次善の策」として、やむを得ず劣られた方策であった。決して最初から退却作戦を指向していたわけではないのである。
 しかしながらロシアの「焦土戦術」はかなり広く知れ渡っており、落合氏のようにそこから何らかの「教訓」を引き出そうとする人もいる。どうしてこうなったのか。
 一つには、ロシア自体がこのイメージを流布したこともあろう。1812年、1941年のいずれの場合においてもロシア軍は緒戦で後退を続けたが、先にも述べたようにこれはロシア軍自体の弱さに起因していた。特に「大祖国戦争」の場合、ソ連軍は攻め込んできたドイツ軍より圧倒的に数が多く、しかも戦車など一部の兵器はむしろ優れていた。にもかかわらず、開戦以来ソ連軍はドイツ軍にほとんど抵抗することができず、一時は首都モスクワすら脅かされるに至ったのである。
 この事態をどう説明するか。「弱かったから負けました」では話にならない。これがロシア軍は故意に退却を重ねて敵軍を引きずり込み、力を蓄えて反撃に転じたのだ、という説明であればロシア人の体面も傷つかないというわけである。とりわけ支配層にとって、「焦土戦術」という一種の神話が流布することは(緒戦の敗北を招いた)自らの方策の誤りを隠すために好都合だったであろう。

 もう一点、ロシアの大地に「吸い込まれる」軍隊というイメージはすべて西側から見たものであることに注意したい。思うに「焦土戦術」論は西欧のロシア観をある意味体現したものとは言えないだろうか。ヨーロッパ人には計り知れない独特の計算でもって敵軍を疲弊させ、広大な大地に吸い込んでしまうロシアという、異世界への恐怖に満ちた幻想である。大いなる混沌と権力への絶対的服従、気違いじみた自己犠牲など諸々のロシア・イメージに対し、「焦土戦術」は見事なまでに調和していると思われる。
 もしかしたらこれらはヨーロッパから見た東方世界のイメージにも共通するものを持っているのかもしれない。『オリエンタリズム』でも読んでいたらもっと面白いことを書けたのかもしれないが。

◆◆◆◆◆

 ところで、先の二つの戦争の他に同じような経過をたどった戦いがもう一つある。それは北方戦争の間に起きたポルタヴァの戦い(1709年)で、ロシアと戦ったのはカール12世率いるスウェーデン軍であった。
 このときウクライナ地方に侵入したスウェーデン軍に対し、ロシア軍の長であったピョートル1世は徹底した時間稼ぎを行った。すなわち敵の侵入ルートから住民を疎開させ、村や畑を焼き払ったのである。スウェーデン軍は飢えと寒さから大きく戦力を低下させたが、さらにレーヴェンハウプト将軍麾下の支援部隊がロシアの別働隊に襲撃されて補給物資を奪われたことから、その苦しみはさらに大きくなった。結局ポルタヴァでの激戦はロシア軍の勝利に帰し、当初スウェーデン有利であった戦争の流れはロシアに大きく傾いたのであった。

 この戦いは「焦土戦術」と呼びうる要素をより濃く持っていると思われるのだが、落合氏はこれには言及していない。大先生、マイナーな戦いだからわざと外したのか、それとも単に気がつかなかったのか。どうでもいいことですけどね。

(99.04.29)


ロシア史雑話へ戻る

ロシア史のページへ戻る

ホームページへ戻る