ロシア史雑話8

石のロシア・木のロシア


 いろいろとロシアのことを書いているが、実のところロシアを訪れたのは一度しかない。今からもう5年くらい昔のことで、モスクワに一月程度、それからオプショナルツアーでペテルブルクにも数日と、よくあるロシア滞在パターンである。

 当然のことながら、ロシアの都市の景観は日本のそれとは全く異なっていて強い印象を受けた。一言でいうなら、あらゆる建築物がデカい。年代物の古アパート、大聖堂、図書館、劇場、博物館など、どれもこれもあきれるくらいの大きさのものが多いのである。しかも東京のような近代的なビルというのではなく、19世紀に作られた建築がそのまま残っているものが多く(特にペテル)、異様なくらい重厚壮大な感じを受ける。「ロシア」という国から我々が一般に受けるイメージをそのまま表しているかのようである。
 そのとき思ったのは、やはり「石」は強い、ということだった。日本の都市は歴史的な街並みをあまり保存しようとしないとはよく言われることだが、しかし例えそれに積極的だったとしても、木造建築主体の街並みをそのまま保つことはやはり困難であろう。寺院や城郭のような特別な存在を保護するくらいが関の山で。しかし石造りのロシアの建築物は、現代においてもそのまま「現役」として通用している。教会などは中世に作られたものが今でも使われているくらいである。まさに石の強みと言うべきである。

 と、ここまで書いてきたこととは矛盾するようであるが、実のところ「石のロシア」というのは例外的な存在である。それは基本的に近代以降の産物であり、またモスクワなどの大きな都市に限られていた。
 ロシアの伝統的な建築物は木で作られている。広大な森林を有する森の国・ロシアでは、木材こそが最も簡単に手に入り、利用することのできる材料であった。一方で石材を切り出すべき山の極端に少ない国土では、石の利用はおのずと限られていたのである。もちろん、例えばキエフ・ルーシのような古い時代にあっても石造りの建物が全くなかったわけではない。しかしそれは特別重要な教会、公の館などエリート層のために供されるのが常であった。
 当然の結果と言うべきか、ロシアの都市はしばしば火事に苦しめられてきた。古代・中世のロシア史にとって文献史料の少なさは大きな問題であるが、木造建築が主流であったこともその原因の一つであったと考えられる。どれほど貴重な史料が火事の犠牲となったことか…などというのは「死児の齢を数える」にすぎないのであるが。

 19世紀の高名な歴史家、セルゲイ・ソロヴィヨフはこう書いている。「石のヨーロッパ」、すなわち西欧では、貴族たちは石造りのがっちりとした館で身を守り、自分の支配地に領主として根を下ろしていった。ここに西ヨーロッパ封建社会の基礎ができあがったのである。一方で「木のヨーロッパ」ロシアでは、人々は広大な平原と木の家という条件の中で暮らしていた。それゆえロシア人は一つの土地に根を下ろすことがなく、容易に今までの住みかを見捨て、移動していった。ロシアでは西欧に比べ全てが浮動的・分散的であり、またこれを一つに束ねるための巨大な権力が必要とされた。言うなれば「木の文明」こそがロシア史の特徴である絶えざる植民活動と専制政治とを生み出したのである…
 もちろん歴史を(地理的・気候的環境、「国民性」などの)ある特定の要因だけで説明してしまうことは危険であって、しばしば偏見を生み出す原因となっている。しかしながら、ここで述べられているロシア論が全く根拠のないものとは言えないであろう。歴史においてロシア人の生活の多くが木と共にあり、また非常に大規模な植民活動がロシア史の中で多く見られてきたのは事実である。ソロヴィヨフのロシア史論、とりわけ植民に関する部分がその後多くの歴史家によって受け入れられたのも不思議ではない。
 同時に、ここには「ロシアはヨーロッパとは違う独自の存在である」という、ロシア人に好まれやすい主張が見えかくれして興味深い。「自分たちは他に類を見ないユニークな存在である」とは、(日本人も含めて)多くの民族が内心に抱いている思い込みであろうが、ロシア人にはかなりこの傾向が強いように思われる。しかもその「独自性」は常にヨーロッパと比較して持ち出される。その点をふまえて「木のロシア」論を読むと、また違った面が見えるかもしれない。

 ところで、今でもロシアの伝統的な木造建築は、特に地方において保存されている。有名なところでは北ロシアのオネガ湖に浮かぶキジー島で、ここには釘を一本も使わずに木だけで建てられた教会をはじめ、様々な木造の建物が残されている。そこまで行かなくとも、農村地帯に行けば木で造られた古めかしい農家をいくらでも目にすることができるらしい。一度くらいは現代にまで伝わる「木のロシア」を見てみたいものである。

(99.02.28)



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