ロシア史雑話5
ウラジーミル公と酒
『原初年代記』の伝えるところによれば、968年、当時キエフを支配していたウラジーミル公のもとにあるイスラム教徒が現れ、それまで行われていた多神教信仰を捨ててイスラム教に改宗するよう説いた。一旦は心動かされたウラジーミルだったが、イスラム教徒が割礼を求められること、そして豚肉と酒を禁止されることを聞いて改宗を思いとどまった。曰く、「ルーシ(人)には飲むことが楽しみなのだ。私たちはそれなしには生きている甲斐がない」…
ところでこのエピソードは、ウラジーミルのキリスト教改宗を讃えるために、いわばその引き立て役として挿入されたもので、年代記作者の創作であるという見方が有力である。しかしながら、ウラジーミルの台詞そのものは奇妙なリアリティを持っているためか、好んで引用されることが多い。すなわちロシア人というのは千年も前から酒飲みぞろいであったのだ、と。昔からそうだったんじゃ仕方がない、とか、昔からこれだからダメなんだ、とかいろんなニュアンスを伴って。
ところで、ここで取り上げたいのはロシア人と酒一般の話ではなく、まさにこの逸話の時代、つまりウラジーミル公の頃の酒のあり方である。
ウラジーミルの時代、公はいまだ軍事的な指導者という色彩が強い存在であった。キエフに完全に服属していないスラヴ諸族の征服、ステップ地帯の遊牧民との戦い、それに先進的な文明世界であるビザンツ帝国への略奪的遠征等々、キエフの支配者は数多くの戦いを求められた。年代記においても、ウラジーミル自身が多くの戦いを指揮したことが物語られている。
当時のこととて、指揮官に求められたのは何よりもまず「勇気」であった。自ら陣頭に立ち、戦士達とともに戦う姿こそ、軍勢の士気を上昇させて勝利を呼び込む原動力となったのである。宮殿の奥深くに住まう神秘的な王というイメージは、当時の公にはいまだ無縁のものであった。
これと酒がどう関係してくるのか。キーワード(?)は「酒宴」である。
年代記にはウラジーミルが酒宴を行う様子が何度も語られている。またキエフ時代をモチーフにした英雄叙事詩(ブィリーナと呼ばれる)には、キエフに座する「太陽公」ウラジーミルが、やはり酒宴を催して英雄たちをもてなしていることが多い。酒宴の中心である公というのは、この時代の一般的なイメージであったと思われる。
それではなぜ公は酒宴を催したのか。これは単にルーシの人々が酒好きであったから、ではない。
軍事的な指導者、戦士の中の第一人者としての公は、戦時に己の手足となる戦士達を平時から養わなくてはならなかった。彼らが飢えることがないように配慮し、また遠征で獲得した財物があれば物惜しみせずにそれを与えていた。「気前の良さ」は当時の公に対する一般的な褒め言葉の一つであった。
従って、酒宴というのは公が戦士達の働きに報いる一つの場でもあったのである。また酒宴の席は戦士達が公に対する要求を行う、コミュニケーションの場としても機能していたであろう。
これを物語るエピソードが『原初年代記』にも登場する。あるとき宴会の席で酔った従士達がウラジーミルに「我々は銀の匙ではなく木の匙で食事をしている」旨の不平をもらした。するとウラジーミルは彼らの待遇を改善して、こう言った。「私は従士団によって銀を得ることはできるが、銀によって従士団を得ることはできないのだから」。
先にも述べた通り、ウラジーミルとイスラム教徒の話が実際にあったこととは思われない。だがここに現れる「ルーシには酒を飲むことが…」という台詞の中には、公がいまだに戦士の第一人者であり、酒の席を通じて戦士達とコミュニケーションを図っていた時代の精神が表れているようにも思われる。
ところでロシアの酒といえばウォッカを思い浮かべる人が多いであろう。それはそれで正しいのだが、しかしウラジーミル時代に飲まれていたのはどうやら違う酒のようである。年代記に出てくるのは「蜜酒」というものだし、また当時のルーシにおいては養蜂業が主要な産業の一つであった。ウォッカが出現するのはより後代のことである。
キエフ時代のものと同じかどうかはわからないが、今でも田舎では蜂蜜を使った酒が造られているらしい。ウォッカは何度も飲んでいるものの、蜜酒にはまだお目にかかったことはない。是非一度お手あわせ願いたいものではある。(98.11.29)
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