ロシア史雑話4

ロシア人の名前の歴史


 ロシア人は姓と名の他に「父称」というものを持っている。これは当人の父親の名から派生してできた呼び名である。例えばロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世のフルネームはニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフとなるが、この場合「アレクサンドロヴィチ」が父称であり、「アレクサンドル(3世)の子」を意味しているのである。またニコライの子、皇太子アレクセイは「ニコラエヴィチ」という父称を持つことになる。父称は男女で多少の差があり、例えばニコライの娘であれば「ニコラエヴナ」が父称になる。

 …と、この辺りはロシア文学に興味のある人なら知識として持っているかもしれません。なにしろロシア文学の登場人物の名前のややこしさには定評がありますので。
 それはともかく、ここではロシア人の名前そのものの歴史的背景について、多少述べてみたいと思います。

 キリスト教圏であればどこでも同じでしょうが、ロシアにおいても一番多いのがキリスト教の聖人や天使などに由来する名前です。起源としてはヘブライ語・ギリシア語・ラテン語ということになります。
 例えば有名な「イヴァン」はヨハネ、「ピョートル」はペテロ、「ミハイル」は大天使ミカエルの、それぞれロシアバージョンということになります。他にもニコライ(起源はニコラウス)、ヴァシーリー(バシレイオス)、アンドレイ(アンデレ)、グリゴリー(グレゴリウス)、パーヴェル(パウロ)等々、ロシアでポピュラーな名前は大概このパターンになります。
 ただし、この「ロシア化」があまりにも激しいため、元の形を想像するのが難しくなってしまっているものもあります。例えばアルバチャコフで有名な(?)「ユーリー」ですが、これは驚くなかれ「ゲオルギオス」の変化した形なのです。英語では「ジョージ」になっているやつですね。何でこんな風になったのかはよくわかりませんが、古い年代記を読むと、その中間形らしき「ギュルギ」という人名が出てくることがあります。「ゲオルギオス」→「ゲオルギー」→「ギュルギ」→「ユルギ」→「ユーリー」くらいに変化したのでしょうか?
 ややこしいのはより原型に近い「ゲオルギー」もロシア人の名前にあることです。その上、口語的なバージョンとして「エゴール」という形まで存在します。ロシアにおいて聖ゲオルギオスは特に好まれた聖人の一人で、それが名前のヴァリアントの多さにも表れているのかもしれません。

 次に、キリスト教に由来しない名前を見てみることにしましょう。
 まずは、キリスト教導入以前のスラヴ人特有の名前です。ウラジーミル、スヴャトスラフ、ヤロスラフ、ムスチスラフ、イジャスラフ、ヤロポルク、などがこれに含まれます。
 ウラジーミルを除いてはなじみのない名前が続くと思いますが、これは単純にこれらの名前を用いる人が少なくなったからです。ウラジーミルは例外と言えますが、これはキリスト教を導入したウラジーミル公が教会によって聖人に列せられたため、上記のキリスト教名の一種と考えることもできます。ともあれ、キエフ・ルーシの年代記を飾ったこれらの名前があまり使われていないのはさびしい話です。
 しかし思わぬところでスラヴ名の人に出会うことはあるもので、例えばスターリン時代の有名な外交官であるモロトフは「ヴャチェスラフ」というスラヴ的な名を持っていました。とは言え、やはり少数派には違いないのですが(どうでもいいが「モロトフ」くらい一発で変換してくれ、ATOK)。

 更に非キリスト教的なものとしては、ノルマン起源の名を挙げることができます。これはキエフ・ルーシの黎明期に北方から到来してきたノルマン人(ヴァリャーギ)によってもたらされたものです。例えば「イーゴリ」ですが、これはノルマンの「イングヴァリ」の変形と推定されています。同様に「オレーグ」は「ヘルギ」から来ているようです。
 ノルマン名は、数は少ないが今でもかなり広く使われているのが特徴と言えます。

 最後に今では滅び去った(?)命名方を紹介しておきましょう。ロシア革命後、新時代の幕開けを象徴してか、それまでの伝統的な名前によらない新しい名前付けが流行したことがありました。
 例えば「ヴラッドレン」(Владлен)という名前がありますが、これはヴラジーミル・レーニン(Владимир Ленин)の姓と名を組み合わせてできたものなのです。また「レンマレン」は「レーニン・マルクス・エンゲルス」から、「レヴミール」は「レヴォリューツィヤ・ミロヴァヤ(世界革命)」からできています。こんな具合に、革命の指導者やら理念やらを讃える造語が名前に使われたのでした。
 これほど凝った名でなく、もっとストレートに名詞をそのまま人名として利用した例もあります。例えば「エレクトリフィカーツィヤ」さん(女性)はどういう意味かというと、これは「電化」を意味する普通名詞です。おそらくは多くのロシア人にとって、革命=近代化、電化であったのでしょう。「文明開化」への憧れにも似た、当時の人々の素朴な革命観が表れているかのようです。
 革命後のこうしたアヴァンギャルドな命名方は、ロシア人自身にとってもなじみきれなかったのか、30年代以降衰退していきます。多少アヴァンガルドに過ぎたのでしょうか。と言いつつ、本当に「アヴァンガルド」(前衛)という名を付けられた人もいたのでした(多少強引なオチ)。


おことわり…「ロシア人の名前」と言いつつ女性名がほとんど取り上げられていませんが、これは差別しているわけではなく、単に知識が不足しているだけなのです。特にキリスト教の女性聖人の名前とか。またいつか書き足すかもしれませんので、今は勘弁して下さい。

(98.11.14)



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