ロシア史雑話2

小国の悲哀?


 文体が一定しないこのコーナー、今回のはポーランドとリトアニアについての話題で皆様の御機嫌を伺います。よろしくどうぞ。

 ポーランドとリトアニア、両国ともロシア(ソ連)とはともに因縁浅からぬ関係にあります。それもどちらかと言えばネガティヴな。
 ポーランドがかつてロシア帝国の支配下にあり、独立を勝ち取るために熾烈な戦いを強いられたこと、また共産主義時代にソ連からの締め付けにあって苦しんだことなどは、高校の世界史のレベルでもかなり詳しく語られます。またリトアニアについて言えば、今は昔のペレストロイカ末期、ゴルバチョフのソ連と激しく闘って独立を達成したことから、日本でも一躍(?)有名になった国であります。
 要するに、ポーランドもリトアニアも、「大国」ロシアに振り回され続けた、気の毒な「小国」であるというイメージが一般的であると思われます。これが誤りである、というつもりはありません。しかしながら、人間とかく現代の印象を過去にまで延長しがちなものです。この2国がかつてはヨーロッパでも有数の「大国」であった、と聞くと驚く人も多いかもしれません。

 13世紀半ば、強力なモンゴル軍の侵入によって疲弊したロシアを、逆の西方から脅かす新興国家がありました。それがリトアニア大公国です。
 リトアニア人は「バルト語族」というヨーロッパでも少数派の集団に属し、またこの時点までキリスト教を拒んで古来の信仰を守り続けるという希有な存在でした。ちなみに彼らは蛇を神聖視し、生きた蛇をまつっていたようです(バルト地方にも蛇がいるというのは、正直意外でした)。
 それはさておき、英主ゲディミナス(1341没)の時代以降、リトアニアは東方に向かって領土を著しく拡大します。かつてルーシの中心であったキエフを制し、それどころかドニエプルを下って黒海に至るまで、この拡張は続いていきます。
 さてその西方の隣人であるポーランド王国も、西南方面、つまりガーリチ・ヴォルイニ地方に向けて拡大していきます。言い換えるならこの両国は、西南に向かいほぼ平行して、かつてのキエフ公国の版図を併合していったわけです。

 1386年、リトアニア大公ヤギェウォがポーランドの王位につくことによって、この2国の連合が成立しました。いわゆるヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)の成立です。連合は当時西方から両国を脅かしていた恐るべき敵、ドイツ騎士団に備えるためで、同時にヤギェウォはカトリックに改宗し、「異教徒に対する十字軍」という騎士団の西進の名目を奪おうとしました。
 この政策は見事に成功し、1410年、グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦いにおいてポーランド・リトアニア連合軍はドイツ騎士団を撃破し、西からの脅威を取り除きました。結果、連合王国は、北はバルト海から南は黒海に至る広大な領土を持つ、当時のヨーロッパでも有数の大国となったのです。

 しかし王国の基盤は強固なものとは言えませんでした。とりわけその東方領土(かつてのキエフ公国の版図、現在のウクライナ・ベラルーシ)では住民の大半が東スラヴ系であり、またカトリックではなく正教会に属していたため、支配者であるポーランド人とはまったく異なる要素を持っていました。つまり民族的にも宗教的にも、支配者と被支配者を隔てる巨大な壁があったのです。
 かくしてこの地方では反ポーランド闘争が頻発することになりました。ポーランドにとって厄介だったのは、コサック(カザーク)と呼ばれる集団がしばしば反乱側についたことです。コサックたちは皆勇猛な戦士であり、また優れた騎兵であって、彼らが中心となった反乱の鎮圧は非常に困難なものとなりました。
 しかしコサックたちも自力でポーランドからの解放を勝ち取るまでにはいたらず、東方の大国にして正教の国であったロシア帝国の力に頼る道を選びました。それは1654年のことで、コサックたちは正式にロシア皇帝に臣従するという取り決めを行っています。ただしこれは、ウクライナ・ベラルーシの「ポーランドからの解放」の始まりであるとともに、「ロシアからの抑圧」の始まりでもあったのですが。

 近代に入ると、ポーランド・リトアニアが衰えるのと反比例するかのようにとロシアの国力は増大し、エカテリーナ2世(在位1762~96)の時代には、遂にポーランド分割という事態にまで至ります。これ以降は、冒頭でも述べたように「大国」ロシアに対するポーランド・リトアニアの独立闘争が展開されていくようになるのです。

 かつてはイギリスと並ぶ海上大国であったスペインやオランダ、またバルト沿岸の覇者であったスウェーデンなど、現代のイメージと過去とが著しく異なる国は少なくありません。
 しかしその中でも、ポーランドとリトアニアの「大国としての履歴」は比較的知られていないのではないでしょうか。これらの国の歴史について、ロシア史の「刺身のツマ」としてではなく、正面から関心を持つ人が増えることが望まれます。

 …というか、ロシア史自体についても興味を持つ人が増えてほしいのですが。



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