ロシア史雑話 1
ロシアの起源とウクライナの起源
ロシア史の最初の1ページとして「キエフ公国」の名が挙げられるのを見て、或いは疑問を持つ人もいるかもしれない。なぜウクライナの首都であるキエフが、ロシア史の最初の舞台になったのだろうか、と。
実際のところ、キエフ公国(キエフ・ルーシ)はロシアだけのルーツではない。これは現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ3国にまたがる広大な領域(ただしシベリアは除く)を持った国であり、そこに住むものは皆「ルーシ」の人間という意識を持っていた。つまり、現在の3民族の区分というのは、キエフ国家成立当初には存在しなかったのである。
13世紀、東方からやってきたモンゴル人にルーシの軍勢が徹底的に打ち破られてから、ルーシの歴史は異なった流れに向かう。モスクワを中心とした北東部が、モンゴルの支配を受けながらも自らの国家を再編成していくのに対し、かつての首都であるキエフを含む南西部は、西の隣人であるリトアニア、そしてポーランドの支配を受けることになった。つまり、現在につながるロシアとウクライナの分化が始まったのである。
北東ルーシがモスクワの旗の下に統一され、独立した国家として発展していったのに対し、南西ルーシ=ウクライナはポーランド国家の一部分として支配を受け続けた。ウクライナ人にとって一層不幸なことに、ポーランドの力が衰えた後も彼らは独立した国家を持つことができず、ポーランドよりも強大なロシア帝国に組み込まれていった。
ウクライナ人にとっては、ソヴィエト連邦も「ロシアによる支配」の継続にすぎず、その崩壊、新生ウクライナの独立は、長い間待ち望まれた独立ウクライナの出発なのであった。
こうした複雑な歴史を背景として、両国のキエフ・ルーシ観もかなり食い違っている。
ソヴィエト時代の一般的な歴史観では、キエフ・ルーシは「東スラヴ3兄弟民族の共通のルーツ」とされていた。ただし「兄弟民族」の中でもロシア人がキエフ・ルーシの直系として扱われていたことに注意しなくてはならない。歴史教科書などでも、まずキエフ公国、そしてそれを引き継ぐ形でモスクワ公国・ロシア帝国の歴史に言及されるのが常であった(ちなみに日本の教科書でも「ロシア史」は同じようなかたちで教えられている)。
一方のウクライナには、キエフ時代をもっぱらウクライナのみのルーツするとらえ方がある。この見方によれば、ロシアの歴史はキエフ・ルーシとは直接の関係を持たない、まったく別起源の存在ということになる。言うまでもなくロシア上位であったソ連時代にはこうした見解が堂々と語られることは少なかったが、現在のウクライナ歴史学界ではポピュラーなもののようである。
恐らくこうした食い違いの背景には、キエフ時代に対するノスタルジックな理想化がある。キエフ・ルーシは当時のヨーロッパでも高い文化を持つ強国である一方、モスクワ・ロシアのような「専制」の影を持たず、現代人からの感情移入が容易な存在と思われる。ロシアとウクライナの「本家争い」は、いわば「よりよき過去」を求めての争いと言えるのではないだろうか。
かつて新聞紙上で、あるウクライナ人の「我々はヨーロッパと歩調を合わせるべきであり、アジア的・専制的なロシアとは無縁の存在である」という発言を目にしたことがある。この時彼の念頭にあったのは、「キエフ国家以来の高い文化を持つウクライナ」と「モスクワ公国から一貫して専制的なロシア」の対比であったのかもしれない。
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