キエフ・ルーシについて


 日本では「キエフ公国」と表記した方が通りがいいのかもしれない。ロシアの(またウクライナ、ベラルーシの)歴史を見ようとする場合、その第一ページとして、欠かすことの出来ない時代である。


 実際この時代以前には、広大なロシアの地に一つのまとまった国家が成立することはなく、周辺の国々からは蛮族の巣窟という程度にしか見られていなかった。

 ようやく9世紀の末頃になってから、この地に都市キエフを中心として統一国家と呼べるものが現れる。その担い手は東スラヴ人であり、彼らは彼ら自身とその国とをルーシ(Русь)と呼んだ。現在にまで至る「ロシア」(Россия)の名は、これに由来している。

 

 当時は西ヨーロッパのフランク帝国、アラブ世界のアッバース朝も共に統一から分裂の兆しを見せていた時代であり、できあがったばかりのルーシの国は、明らかに後進的な新興国であった。しかしルーシは周辺諸国との戦争を繰り返しながら強大になり、10世紀末のウラジーミル公の時代に、先進的な文明国であったビザンツ帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を受け入れ、国際的にも認められていくようになる。

 

 結果的に見て、ルーシの統一はそう長くは続かなかった。11世紀半ばに、既に最初の分裂の傾向が現れている。12世紀にはいると、増えすぎた公の一族は各地に割拠して争うようになり、「全ルーシ」の統一感は失われていった。

 またこの時代、かつては未開の僻地であった北東部(現在のモスクワを含む地方)も発展を始め、南西部(後のウクライナ)とは異なる、現在のロシアの原型ができつつあった。近代以降のロシアとウクライナとの、複雑な民族感情を考える上で、記憶すべき時代と言える。


 次の世紀に入って大きな転機が訪れることになった。1237年、有名なチンギス汗の孫、バトゥに率いられたモンゴル軍がルーシに攻め入り、全土を攻略したのである。これより少し後、日本がいわゆる「元寇」を退けたのに比べ、うち続く内乱で疲弊しており、また海のような防壁を持たないルーシはまことに不運であった。

 モンゴル人たちは一通りの征服を行った後も東方に帰ろうとはせず、南の草原地帯からルーシを支配し続けた。いわゆる「タタールのくびき」のはじまりである。


 これ以降、ルーシの北東部と南西部は完全に異なる道を歩み始める。北東部ではモンゴル支配を受けつつも、モスクワ公国が中心となって統一へ進む一方、キエフを含む南西部は、バルト沿岸から拡張しつつあった新興国リトアニアの版図に入っていった。従って、モンゴルの侵入をもってキエフ・ルーシとしての歴史は幕を閉じることになる。


★★★

 300年以上にわたるキエフ・ルーシの歴史も、駆け足で通り過ぎるとこんな感じです。もちろんこれは「上っ面をなでた」程度で、あらましこういうものだ、くらいに考えて下さい。

 以下、キエフ・ルーシの独自性、現代にまで残した遺産、また豊富な興味深いエピソード…等々について、なるべく詳しく、かつわかりやすく書いていきたいと思います。おつき合いいただければ幸いです。


キエフ史概説へ戻る

ロシア史のページへ戻る

洞窟修道院へ戻る