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いつの時代においても、世の中を乱す原因となるのは、常に人の「欲」と「無責任」です。
自分さえ良ければ、自分さえ助かれば、誰がどうなっても構わない。
子や孫の時代がどうなろうが知ったことではない。
いま自分が贅沢三昧な暮らしができること。
それを続けることができるようにしていくこと。
それだけが人生の目的となった人が、カネをもらってどこぞの国の言うとおりに、「そうです。日本が悪かったのです」と言ってしまったばかりに、大問題になって尾を引いているのが、たとえば慰安婦問題です。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)百人一首の14番に河原左大臣(かわらのさだいじん)の歌があります。
みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに
乱れそめにし われならなくに有名な歌なので、ご存知のかたも多いかと思います。
歌を詠んだ河原左大臣は、実は、私達の生活と、とても関係の深い方です。
みなさんのお財布には10円玉が入っているかと思いますが、その10円玉には京都の平等院鳳凰堂の絵柄が描かれています。
この平等院鳳凰堂が、河原左大臣の別荘です。
こんなに豪奢な建物を、なんとただの「別荘」として建てています。
平等院が別荘なら、本宅も河原院と呼ばれる、これまた豪勢な邸宅でした。
なんと庭の池に、わざわざ大阪湾から海水を運び込んで、庭そのものを陸奥の名所の塩釜に模していたそうです。
まさに暮らしぶりは豪奢を極めていました。
まるで江戸時代にお取り潰しになった淀屋辰五郎みたいですが、こちらはれっきとした左大臣、しかも嵯峨天皇の皇子です。
しかもこの人、源氏物語の光源氏のモデルです。
要するに、イケメンでお金持ち、というわけです。
河原左大臣の名前は、源融(みなもとのとおる)です。
左大臣になったのは51歳のときで、居宅が豪勢な河原院でしたから、河原左大臣と呼ばれるようになりました。
カネも地位も得た人は、さらに名誉を欲しがるのだそうです。
人の欲望には際限がありません。
この人、陽成天皇がご譲位されたとき、自らを皇位継承者として自薦しました。
これには藤原基経が大反対し、結果は55歳の光孝天皇が即位され、河原左大臣は留任になっています。
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この時代、我が国は天皇という国家最高権威と、国家権力を建て分け、民衆の安寧を願うという我が国の古来からの理想を国是とした人たちと、貴族や豪族の地位を利用し、既得権益をさらに拡大することで巨富を得て贅沢をしようとする人たちとが、激しく争った時代です。
朝廷には、古代から続く氏族がいます。
この時代を代表するのが、迩々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨に際して随伴した天兒屋根命(あめのこやねのみこと)を始祖とする中臣氏(藤原氏)、同じく随伴した天忍日命(あめのおしひのみこと)を始祖とする大伴氏などです。
大伴氏は、代々軍事を司り、中臣氏は代々建設事業を司りましたが、両者が衝突したのが866年の応天門の変です。
突然、京都御所の応天門が焼き討ちにあったという事件ですが、この事件によって大伴氏(伴氏)が失脚、天武天皇、持統天皇の時代から急速に力を付けてきていた藤原氏の勢力が増大しました。
世の中というのは複雑なものです。
大伴氏は氏族としての贅沢は望まず、誠実を尽くした氏族です。
一方、藤原氏は、天皇の縁続きとなり、その勢力をたいへん大きく伸ばしていました。
つまり他の氏族からすると、藤原氏は嫉妬の対象でした。
ところがその藤原氏は、藤原鎌足、不比等の親子の時代から、天皇を権威とし、臣下が政治権力もつことで、天皇の地位の安泰を図り、同時に民衆を「おほみたから」とすることを国是とする国家つくりのために、そのすべての力を結集していた氏族でもありました。
その結果として、広大な荘園や、朝廷での高い地位を得ていたのですが、他の氏族からすると、藤原氏はどうしても権力欲のカタマリに見えてしまう。
一方、天皇によっては、たとえば聖武天皇のように、国費を使ってきまぐれで何度も遷都を行ったり、巨費を投じて奈良の大仏を建立するなど、自ら権力を行使された天皇もおいでになりました。
要するに、天皇はどこまでも権威ということが理解できない人が、天皇にもいたし、朝廷の高官たちの中にもいたわけです。
そうした人たちが、反藤原勢力として担ぎ上げたのが大伴氏でした。
この頃の大伴氏は「伴氏(ともし)」と呼ばれていましたが、その伴氏の失脚に不満を持たれた27歳の清和天皇(後の清和源氏の始祖)は、天皇がただの権威だというなら、誰がやっても同じだろう、と、まだ9歳だった息子の陽成天皇に譲位をしてしまいます。
心配なら、藤原氏が摂政を勤めれば良いではないかという、これは清和上皇の「あてこすり」です。
やむなく摂政を引き受けた藤原基経は、9歳の陽成天皇のもと、摂政を勤めます。
しかし4年後に清和上皇が崩御されると、一切の公務を拒否してしまいました。
この時点で、現実に政治を取り仕切ることができる才覚をもった人物は、藤原基経しかいないことを知った陽成天皇は、このとき17歳になっていましたが、55歳の叔父の光孝天皇に皇位を譲りました。
そして陽成院となり、皇室祭祀の復活に残りの人生を捧げられました。
光孝天皇は、天皇に就任したものの、自分の一族をすべて臣籍降下させ、わずか三年の御在位ながら、国家最高権威としての天皇のあり方を定着させるために、多大な貢献をされました。
こうした時代の流れのなかにあって、陽成天皇がご退位されたときに、河原左大臣こと源融は、自分が皇位を、と自薦したわけです。
周囲は、河原左大臣が国政そのものに、明確なビジョンを持っているわけでもなく、ただ皇位を得れば、さらに多くの贅沢ができるという考えであることを見抜いています。
ある意味、わかりやすくてまっすぐともいえますが、それが実現すると、河原左大臣が天皇に昇格することで、利益を得る取り巻きの人たちもいます。
そしてなにより問題は、権威と権力を分けるという国の形そのものが変わってしまいます。
けれど河原左大臣は、地位も名誉も資金力もあるのです。
欲のカタマリのような人たちが、そのまわりをズラリと取り囲んでいます。
左大臣の家に行けば、目もくらむような宝物が飾られ、庭には海水魚が泳ぎ、邸内にはきらめくような多数の美女たちがぞろぞろといるのです。
いまの時代でも、独立して自営業を営み、すこし儲かるようになると、社長のもとには次から次へとお客様がやってきます。
景気の良い人がいれば、ご相伴にあずかろうとする人が後をたたないのは、いつの世も同じです。
河原左大臣が天皇となり、さらに権力をも独占しようという動きは、たとえていえばアメリカで、常に美女に囲まれているプレイボーイ社の社長が、大統領になるようなものです。
喜ぶひとたちもたくさんいるかもしれません。
けれど、その選択が、米国民にとって幸せといえるかは、また別な問題です。
繰り返しますが、藤原基経は、藤原家に代々伝わる、どこまでも日本は天皇の知らす国であり、天下万民のために権威と権力は立て分けるべきという立場です。
これが藤原鎌足、不比等親子以来の藤原家の家命です。
ですから河原左大臣のような人物を皇位に就かせるわけにはいかない。
朝廷内の意見は真っ二つに分かれ、対立は激化しました。
要するに、もめたわけです。
この和歌(みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに)は、もともとは河原左大臣が、彼女を口説くために贈った歌だといわれています。
けれども、藤原定家が百人一首を選歌するに際して、14番にこの歌を挿入し、かつ、歌人の名を河原左大臣と、職名で記したことには、また別な意味があります。
初句の「みちのくの」は、河原左大臣が、河原院に奥州(みちのく)の海岸を模した庭園を造ったことを想起させます。
「しのぶもちずり」は、陸奥国信夫郡特産の摺(す)り染めの布のことで、この布は、よじれ乱れた模様です。
だから、乱れた恋心と読む人もいますが、むしろ世の中の乱れとして、定家は読んでいます。
「たれゆえに 乱れそめにし」は、誰のおかげで乱れたのかといった意味です。そして
「われならなくに」は、「私のせいじゃないよ」です。
なるほど皇位継承をめぐって、世の中が乱れました。
河原左大臣が皇位を継いだら、ますます世の中が乱れてしまうことでしょう。
道徳がないからです。
けれど、そういうことをしておいて、河原左大臣は、
「俺のせいじゃないよ」
と言っているわけです。
いつの時代においても、世の中を乱す原因となるのは、常にこうした「欲」と「無責任」です。
自分さえ良ければ、自分さえ助かれば、誰がどうなっても構わない。
子や孫の時代がどうなろうが知ったことではない。
いま自分が贅沢三昧な暮らしができること。
それを続けることができるようにしていくこと。
それだけが人生の目的となった人が、カネをもらってどこぞの国の言うとおりに、「そうです。日本が悪かったのです」と言ってしまったばかりに、大問題になって尾を引いているのが、たとえば慰安婦問題です。
西郷隆盛は「一格の国体を定めなければ、どんな優秀な官僚を用いても国は滅ぶ」と繰り返し述べています。
「格」というのは、不動のもののことをいいます。
ですから「一格の国体」というのは、言い換えれば「万古不易の不動の国のかたち」です。
聖徳太子の時代から、天智天皇、天武天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇と、幾世代もかけて日本の国体を築く努力が払われてきました。
その努力が、「欲」と「無責任」で、一切、パアになる。
ですから藤原基経は、断固として左大臣の天皇就任を阻止し、55歳の光孝天皇に皇位に就いてもらいました。
そして、引退した陽成院とともに、宮中祭祀の復活のために努力を払われました。
その結果、その後の平安中期には、まさに国風文化が花開き、女性たちが活き活きと活躍する、文化の花咲く平和な時代がやってくるのです。
以上の歴史の流れの解説は、これまでの常識(藤原基経こそ権力志向だった等々)からすると、まったく歴史解釈が異なるものです。
けれど私に言わせれば、19世紀に生まれた共産主義の階級闘争史観で日本の歴史を見ようとすること自体が本質的な誤りです。
日本は、どこまでも「天皇の知らす国」を希求し、そのために万難を排して努力を続けてきた歴史を持つ国です。
だからこそ、世界最古の国として、日本はいまも存続しています。
日本がこれからも幸せな国であるためには、いまこそ、千年前の日本人の良識を再考していく必要があるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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