補陀洛山寺の近く那智浜から、四方に鳥居を祀った渡海船が熊野灘から浄土へと向かう。振り返れば妙法山。そこは亡者たちがあの世へと向かう霊場であり、熊野灘は現世とは異なった世界へと向かう入り口であった。
串本町の河内祭、熊野速玉大社の御船祭。共に鮮やかに装飾された舟が祭の重要な役割を担い、かつ古式捕鯨の鯨舟を模しているのは明らか。ではなぜ古式捕鯨の舟、とりわけ勢子舟は、鳳凰や松竹梅、扇など縁起の良い意匠が描かれているのだろうか。
「捕鯨は熊野灘以外にもありますが、鯨舟をここまで極彩色に彩っているのは、この地方だけのことなんです」と太地町学芸員の櫻井敬人(さくらいはやと)さんが語る。何故?何の為に鮮やかな意匠が施されているのか?役職や権威などを表しているのか?今となってはその理由を語る者はいない。
「捕鯨における職務や役割を表すだけならここまで複雑な意匠である必要はありません。これはあくまでも私の仮説なのですが、縁起の良い意匠は鯨に対する弔いの気持ちなのではないでしょうか。 熊野の漁師たちは鯨を仕留める時、“南無阿弥陀仏”と唱えたといわれています。“捕鯨”は仏教の教えの中で最も禁忌である“殺生”ともいえます。 それを熊野三山を仰ぎ見る熊野灘という特別な場所で行っていることに、信心深い熊野の人々は、複雑な葛藤を覚えたのかもしれません。
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- 古くから航海の目印となり、太平洋を一望することができる燈明崎と呼ばれる山見台。沖を泳ぐ鯨を見つけると狼煙を上げ、出漁の合図を出したと言われる。1636年には、当時としては珍しい鯨油を用いた行灯式の燈明台があった。
ではその鯨が最後に見る景色とは何でしょうか?」と想像力を働かせ続ける。 「波間に見え隠れする勢子舟の意匠。そこに描かれた浄土を連想させる風景。それには鯨の成仏を願う気持ちが込められていたのかもしれません」。
もちろんそれらの意匠は、自分たちの気持ちを鼓舞し、自らの安全を祈願するためでもあったかもしれない。しかしここは、アニミズムが今も息づく神聖な海。大いなるモノを怖れ敬う、神々が宿る熊野の海なのである。