ホーム *以下の拙文は1995年6月に書いた小文をもとに、2012年11月に書き起こしたものである。(2013年6月に注1306追加) *オウム・サリン事件は、冷戦の「崩壊」に直面して軍拡の口実を失った日本の軍産複合体が、宗教団体オウム真理教にスパイ(自衛官、警察官)を潜入させて教団の軍事化を進め、無差別大量テロを教唆し実行させることで日本に危機をねつ造し、それを口実に25兆円超の大軍拡計画を執行した謀略事件だった可能性がある。 日野 学 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ① オウム真理教・サリン事件は日本の軍産複合体が仕組んだ謀略事件か 1995年6月 地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本弁護士一家誘拐殺人事件などの一連の事件が、宗教団体オウム真理教の犯罪であることが判明し、日本国民は強烈なショックを受けている。麻原容疑者の逮捕で事件は一つの山を越えたが、数多くの謎が未だに未解決である。その中でも最大の謎は、「なぜ一宗教団体が化学兵器である毒ガス・サリンを製造し、無差別大量テロを計画・実行したか」ということだろう。 これに対してマスコミでは、「麻原容疑者はハルマゲドンを予言しており、その予言を実現するために大量テロを実行した」と説明されている。しかし予言を実現するためとはいえ、大量テロを実行すれば警察の捜査の対象となり、逮捕されれば死刑は避けられない。自分の命をかけてまで、あの麻原容疑者が予言の実行に固執しただろうか。 そのような疑問を抱いていたとき、5月24日の新聞に「冷戦終結後の日本の新たな防衛力の在り方を検討してきた防衛庁は、…『防衛計画の大綱』の『別表』に代わる新たな陸海空自衛隊の整備目標の骨格をまとめた」(「日経」)との記事が載った。これは昨94年8月、首相の私的諮問機関である「防衛問題懇談会」が冷戦終結を受けて、自衛隊の新しい在り方に関する「答申」を出したことを受けたものだった。そして答申の基本理念は、「防衛力整備の目標を従来の『限定的小規模侵略への対処』から、テロなど『多様な危険への対処』に修正する」(日経)ものだった。 自衛隊や軍需産業などからなる日本版軍産複合体は今、1991年の冷戦「崩壊」により仮想敵国を失い、軍拡の口実を失っている。世界は軍縮の時代にあり、日本でも自衛隊を縮小せよとの意見は日増しに大きくなっている。こうした世論を踏まえて防衛懇の答申は、自衛隊の任務を、「侵略への対処」から「テロなど多様な危険への対処」にすり替えたわけである。 しかしこのすりかえには一つ重大な問題がある。それは、「日本は今まで、およそテロとは無縁な国だった」ということである。昨94年の6月27日に松本サリン事件が発生するまでは…。 ここで以下の日付を確認してみる。 ・1994年6月27日 松本サリン事件発生 ・ 8月12日 防衛懇の答申 ・1995年3月20日 地下鉄サリン事件発生 ・ 5月24日 防衛庁、新「防衛計画の大綱(案)」発表 もし松本サリン事件以前に防衛懇の答申が出ていたら、それはテロと無縁な日本で自衛隊の主任務を「テロなど多様な危険への対処」に置く、およそナンセンスな答申になっていただろう。しかし「答申」と「大綱(案)」は、二つの無差別大量テロ事件のほぼ2か月後に、実にタイミングよく出されている。もちろんこれは単なる偶然かもしれない(注)。しかし次の二つのことは言えるだろう。一つは、松本サリン事件と地下鉄サリン事件が発生したことで、日本はまさに防衛懇の答申が“予言”したように、無差別大量テロが横行する時代に突入してしまったらしいことである。 (注)「…偶然がかさなりすぎるときには、しばしばその背後に秘密の情報活動の輪郭がほの見えてくる」(ジム・ギャリソン、『JFK』、ハヤカワ文庫、1992年、189頁) もう一つは、サリンで汚染された地下鉄車内を洗浄する自衛隊員の映像、自衛隊から貸与された防毒マスクと迷彩服に身を包んだ機動隊員の映像、オウムが購入したロシア製軍用ヘリの映像などがテレビで大々的に放映されるに及んで、オウムのようなテロ組織の鎮圧は警察力の能力を超えており、自衛隊の強化が不可欠だという意識が国民の間に刷り込まれたことである。  地下鉄車内を洗浄する自衛隊員(左)、貸与された防毒マスクを着用した機動隊員(右)。 今から32年前の1963年11月22日、アメリカのダラスでケネディー大統領が暗殺された。この事件は年が立つにつれ、“米ソ冷戦緩和とベトナムからの米兵撤退”を計画していたケネディー大統領を暗殺するために、アメリカの軍産複合体、CIA、FBIなどの米謀略機関が仕組んだ犯罪である可能性が高まってきている。地方検事で『JFK』の筆者ジム・ギャリソンは、「どのような対価(筆者注:大統領の暗殺!)を支払ってでも冷戦やベトナム戦争が継続することを望んでいる勢力が、この国に存在する」(『JFK』、88頁)と述べている。 こうした勢力、例えばCIAや FBIは次のようなことも行う。「CIAの不法活動を調査した米下院のパイク委員会は、ロバート・ハーディという名前のFBI元諜報員の証言を聴取した。ハーディ氏は、1971年のキャムデン・ドラフト・バンク<銀行>侵入事件で彼が演じた役割についての記録を、本委員会のためにまとめた。かれは、FBIの指令に従って、ニュージャージー州キャムデンのある平和的な反戦グループに潜入した。かれは夜盗行為を教唆し、夜盗志願者たちに、道具、金銭、技術援助、激励を与えた。」(大野達三、『謀略の軌跡』、新日本新書、1983年、80頁)。 オウム真理教が「平和的な反戦グループ」かどうかは分からないが、オウム真理教に日本の謀略機関(自衛隊や公安警察)のスパイが侵入して無差別大量テロを「教唆し、…道具、金銭、技術援助、激励を与え」ていたとしたらどうだろうか? オウム真理教には現・元自衛官、現・元警察官が多数入信していることが知られている。これらの信者はオウムの獲得した信者なのか、それとも獲得されたふりをしてオウムに潜入したスパイなのか? もし彼らの一部が日本の謀略機関のスパイだとしたら、「一宗教団体が毒ガス・サリンを製造し、無差別大量テロを計画・実行した」冒頭の謎が解けるのである。 現時点では推測の域を出ないが、今回のオウム・サリン事件は、冷戦の「崩壊」に直面して軍拡の口実を失った日本の軍産複合体が、宗教団体オウム真理教にスパイを潜入させて教団の軍事化を進め、無差別大量テロを教唆し実行させることで日本に危機をねつ造し、それを口実に自衛隊のハイテク強化を狙った謀略事件である可能性がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ② オウム真理教・サリン事件とは何だったのか ──25兆円の大軍拡計画のために仕組まれた謀略事件か 2012年11月 筆者が95年6月に書いた上記の拙文を読み返し、再度興味を持って調べ直してみると、重大な事実が前掲の日付の中に示されていたことに気づいた。それを見てみよう。 ・1994年6月27日 松本サリン事件発生 ・ 8月12日 防衛懇の答申 ・1995年3月20日 地下鉄サリン事件発生 ・ 5月24日 防衛庁、新「防衛計画の大綱(案)」発表 この5月24日に案が出され、11月28日に閣議決定された「防衛計画の大綱」とは、翌96年から2000年までの5年間に日本政府が軍需産業から購入を約束する兵器の一覧「中期防衛力整備計画」を決めたものだったのである。総額は25兆1500億円程度。91年から5年間の旧・中期防衛力整備計画22兆7500億円に比べてなんと10.5%増!なのである。冷戦が終結したにもかかわらずである。(額があまりにも巨額だったためか98年に当時の大蔵省からクレームが入り24兆2300億円程度に下方修正された<それでも6.5%増>。下のグラフを見ると下方修正される前の97年が日本の防衛費の最高額<注:2012年時点で>であることが分かる)。 兵器の中身を見てみると、この中期防で初めて購入される「支援」戦闘機F-2が45機(F-2は米軍の戦闘爆撃機F-16を改良したもので、空中戦用の戦闘機であるが爆撃も「支援」できる)、潜水艦9隻、護衛艦3隻、戦車88台…などである。   96中期防で初めて購入された「支援」戦闘機F-2(左)。右は90式戦車。 こうした大軍拡計画が(マスコミがほとんど報道しなかったこともあるが)、オウム・サリン事件の衝撃を受けて、国民からほとんど反対されることなく決定され、執行されてしまったのである。逆に言うと、オウム・サリン事件がもし起きていなかったら、10.5%増の大軍拡計画が果たして国民に受け入れられていただろうか? いったいオウム・サリン事件とは何だったのか? 次にオウム・サリン事件の裁判を見てみよう。 麻原彰晃の裁判は計8年に及び、公判は256回行われた。麻原には死刑の判決が下った。この麻原裁判の“正当性”については、ほとんどの国民が疑いを持ったことはないだろう。ところが麻原国選弁護人弁護団長の渡辺脩弁護士によると、終結した麻原裁判は「極めて異常な裁判だった」という。少し長いが、渡辺弁護士の著作から引用する。 「通常の捜査では、犯罪事件が発見されると、直ちに警察による『現場保存』が行われ、刑事たちの捜査に先立って、まず鑑識班が現場で証拠を探索・収集し、その段階で、『現場遺留物』などの証拠が押収される。 …その場合、必ず、押収に関する『差押調書』か『領置調書』が作成され、いつ、どこで、誰が、何を押収したのかが明確に記録され、その証拠物が鑑定に回される場合も、証拠物の移動に関する正確な記録が作られる。 …『地下鉄サリン事件』では、『現場遺留物』が地下鉄駅員から『任意提出』されたことになっているが、検察側は、それを受け取ったという警察の『領置調書』を一通も法廷に提出していない…。 そして、警視庁の鑑定担当者は、通常、鑑定に伴う証拠物の移動についてはきちんと記録が作られるが、『地下鉄サリン事件』では、その記録が作られなかったとはっきり証言している。したがって、五つの犯行現場から遺留された『毒物』が適法に押収されて警察の手に収まり、その遺留物に対する鑑定が間違いなく行われたという一連の手続き過程…も証明されていないのである。…これは、通常の犯罪捜査と刑事裁判では、絶対と言ってよいほど、発生しえない異常な事態である。…『地下鉄サリン事件』における底なしの異常性が認められる。」(渡辺脩、『麻原を死刑にして、それで済むのか?』、三五館、2004年、69~71頁) つまり麻原裁判では、毒物で凶器とされるサリンが現場から本当に押収され、科学的に鑑定されてサリンと確定したのかどうかがはっきりしていないというのである。サリンという気体だと分かりにくいが、拳銃に当てはめてみるとはっきりする。仮に麻原が拳銃を所有していたとして、その拳銃が現場から押収されたものなのか、凶器となった銃弾が麻原の拳銃から発射されたものなのかが判然としないというのである。これで本当に正当な裁判が行われたといえるだろうか? 弁護団長によれば、麻原裁判の全体像はこのようなものだったというのである。 オウムで毒ガス・サリンを製造したのは土谷正実だとされている。土谷は筑波大学大学院有機物理化学研究室に学んだが、サリンはそうした化学の研究者にも作ることのできる物質なのか? 前掲の『謀略の軌跡』によれば、FBI元諜報員は反戦グループに潜入し、「夜盗行為を教唆し、…道具、金銭、技術援助、激励を与えた」。オウム真理教にも日本の謀略機関(自衛隊、公安警察)のメンバーがスパイとして潜入し、毒ガス・サリンの製造や散布、解毒方法などについて技術援助を与えていなかったか? 「防衛大学32期卒業生で陸上自衛隊大宮化学学校の指揮官A二尉が、オウム教団にサリンについて講義をしていた…」(下里正樹、『オウムの黒い霧』、双葉社、1995年、96頁) 「…95年4月、…防衛庁高官が記者会見し、『中国地方の部隊に所属する一等陸尉』がオウム付属医院薬剤師らに、サリンの解毒法を教えていたことを認めた」(『黒い霧』、92頁) オウムには自衛隊の一尉(大尉)、二尉(中尉)が、サリンについての情報を流していたのである。 サリンを大量に合成する化学プラントを設計したのは滝沢和義だという。 「被告<麻原彰晃>は…同年<93年>8月末か9月初めころ、…滝沢和義に対し、『70トンのサリンプラントを造ってくれ…』などと…指示した。滝沢は、土谷に聞いたり文献等を調査したりなどし化学的知識を吸収してサリンプラントの設計に取り掛かった。」(『オウム「教祖」法廷全記録⑧、松本智津夫被告東京地裁判決要旨』、現代書館、2004年、190頁)  第7サティアン内に建設されたサリン・プラント=毎日jp 滝沢は工学系の専門学校を中退しており、毒ガス・サリンを製造するプラントが非常に特殊なもので、かつ高度の化学知識が必要なことを考えると、果たして滝沢にプラントの設計ができたのだろうか。 「…メーカーに合成装置の設計要求を伝え、メーカー側にフローチャートを書かせ、打ち合わせ、その上で特注しなければ、厳重な機密性…をもった合成装置の購入は、できなかったはずである。さらに、合成プラントを購入し据え付けたあと、サリン合成のためのコンピュータ制御プログラムを、装置に入力しなければならない。…装置の設計から、特別オーダー、据え付け、プログラミング入力、試運転にいたる全過程に、『陰のコーチ役』がいたのではないか?」(『黒い霧』、56頁) 松本サリン事件でも不審な点が指摘されている。 「94年6月27日午後10時30分過ぎころ、…青色サリンを充てんした加熱式噴霧装置を村井が助手席から遠隔操作により作動させてサリンを加熱・気化させた上、同噴霧装置の大型送風扇を用いてこれを周辺に発散させ、…6人を死亡させて殺害」(『判決要旨』、224頁)。 判決文ではオウムの村井らがサリンを発生させたのは午後10時30分過ぎと説明されている。しかし松本市の地域包括医療協議会が行った調査によれば、サリンに被ばくした症状は午後8時台から発生しているのである。 「午後8時台に、…5人の住民が「目の前が暗い」「息苦しい」…などの自覚症状を感じていた。住民の自覚症状は午後9時台も続いた。」(『黒い霧』、211頁) 村井らとは別に夜の8時~9時台にサリンを噴霧していたグループがいたのではないか。 「…不審な4人組が現場付近で目撃されていたとの情報が、長野県警の捜査本部に寄せられていたことが分かった。…午後9時前後…第一通報者の会社員方南隣の池付近から、南西へ250メートルほど離れている…大型乗用車の車内に2人がおり、その車のそばに銀色っぽい宇宙服のようなものを着た2人が立っていたという。」(『朝日新聞』、1995年3月24日。以下の新聞報道は三浦英明、『サリン事件への問題提起』、http://s-a-t.org/sat/sarin/teiki.html による) 彼らが着ていた銀色っぽい宇宙服とは毒ガス用の「防護服」ではないか? 防護服を所有している日本の組織は、自衛隊(=日本軍)か警察、消防庁である。 地下鉄サリン事件では、不審点はさらに大きくなる。地下鉄車内で放出されたサリンはビニール製の袋に入れられていたと裁判ではされている。 「中川は、既に約20センチ四方の四角形の密閉ビニール袋の一角が切り取られ注入口となっている五角形のビニール袋を作っていた。遠藤及び中川は、…その五角形のビニール袋に、1袋当たりサリン混合液を約500グラムないし約600グラムずつ注入した…」(『判決要旨』、288頁) ところが当時の新聞報道ではサリンはガラス製容器にも入っていたとされているのである。しかもそのガラス製容器は、割ることによって2種類の液が混合してサリンがその場で生成される「バイナリー(軍事用語:複合弾)」という特殊な容器だというのである。 「調べでは、不審物のいくつかは平べったい弁当箱大の包みにおおわれ、内部から割れたガラス片が多数見つかった。形状から試験管大のガラス容器とみられる。また日比谷線霞ヶ関駅の電車からはガラス瓶を押収した。一方、別の日比谷線の電車では、異臭がする直前に、乗客がガラスの割れる音を聞いていた。 …車内に残されていた不審物は、複数の薬品をそれぞれ溶剤に溶かして試験管のようなガラス製容器に詰め、容器を割って混合させるとサリンが発生する構造だったことが22日までの警視庁捜査本部の調べで分かった。」(『毎日新聞』、95年3月23日) 「築地駅では車内の床に流れていた液体と、散乱した透明の瓶の破片をそれぞれ押収した。目撃者によると、この瓶は車内の網棚に置かれているものを何者かが故意に落したという」(『産経新聞』、95年3月21日) サリンはビニール袋に入っていたのか? ガラス容器=瓶に入っていたのか? バイナリーを作ることのできる日本の組織は自衛隊(=日本軍)しかない。 さらに現場ではオウムの実行犯以外の人物が"犯人"として目撃されている。 「入院している男は…床に、ビニール袋に包まれた不審物を置き、小伝馬町駅で降りるところを複数の乗客に目撃されている。乗客の一人が『危ない』と叫び、不審物をホームにけり出すと、中から刺激臭のする白っぽい液体が流出。男が逃げ出したため乗客らが追跡したが、途中で中毒を起こして倒れ、乗客の被害者とともに病院に運ばれた。…不審物は、直径・高さとも35センチ程度の円筒形で、新聞紙やビニールで包まれており、液体はサリンとみられている」(『東京新聞』、95年3月21日) この入院していた男は「調べで身元が判明し、犯行との関連はないことがわかった」(『読売新聞』、3月28日)という。ではこの男が地下鉄の床に置き、けり出されて白っぽい液体が流出し、自身及び乗客を中毒させた物とは、いったい何だったのか? 以上、オウム真理教には日本の謀略機関である自衛隊(=日本軍)や公安警察のスパイが侵入していた。彼らがオウムにサリンの製造方法や撒毒方法、解毒方法などを教えた。サリンプラントも彼らが与えた情報によって建設された。松本サリン事件では、オウムのグループより前に、防護服を着用した者たちがサリンを噴霧していた。地下鉄サリン事件では、オウムの実行犯とは別の実行犯が、オウムのビニール袋とは別のガラス製のバイナリーでサリンを発生させていた。…以上の可能性が、オウム・サリン事件にはある。 オウム・サリン事件は、冷戦の「崩壊」に直面して軍拡の口実を失った日本の軍産複合体が、宗教団体オウム真理教にスパイを潜入させて教団の軍事化を進め、無差別大量テロを教唆し実行させることで日本に危機をねつ造し、それを口実に25兆円超の大軍拡計画を執行した謀略事件だった可能性がある。 注1306:死刑判決を受けた諜報省次官・井上嘉浩は、無差別大量テロ=武力革命を麻原と共に企画したのは麻原側近のS.P.S(尊師パーソナル・スタッフ=自衛隊員や警官などのボディーガード達)だったという。「第二<のレベル>は、…武力革命のための様々な準備を麻原と共に企画・立案し、推進したりした者たちのレベル。…第二のレベルの信者らは麻原と色々と相談している形跡がありますが、麻原も彼らも供述自体を拒否することで、彼らは刑事責任すら問われていません。地下鉄サリン事件においても、…(まるで彼らの役割がなかったかのように)事件構図自体に反映されず、未解明のままとなっています。…第二のレベルとは、初期の頃は教団の中枢機関である特別総本部に属する側近らの活動で…後に特別総本部はS.P.Sに名称を変え、…S.P.Sは法皇官房に名称を変えました。」(『未解決事件オウム真理教秘録』、文藝春秋、2013年5月、230頁) |