マイモニデス
12世紀の最も重要なカバリストと言えば、やはりモーセス・マイモニデスことモーゼス・ベン・マイモンであろう。
彼はカバリストであると同時に、アリストテレス主義者であり、新プラトン主義者でもあり、これらの思想を両立させようとした哲学者であった。
彼はしばしば、「中世の最も偉大なユダヤ哲学者」とまで呼ばれる。
マイモニデスは、1135年コルドバのゲットーで生を受ける。
コルドバでは多くのユダヤ人が居住し、ユダヤ文化が花開いた都市でもあるが、同時に過酷なユダヤ人迫害が何度も行われた町でもある。迫害者はキリスト教徒のこともあったし、イスラム教徒のこともあった(イスラム勢力が駆逐された後もユダヤ人迫害は何度も起こり、15世紀の大迫害によって、ゲットーは消滅する)。
1148年、狂信的なイスラム教徒アルモハズ派がコルドバを占領すると、ユダヤ人達は迫害を受けた。
マイモニデスの一家は、この迫害を逃れて、8~9年間に渡る放浪の旅を行う。彼らはスペインの南部をさまよった。少年だったマイモニデスは、この間、教養人だった父親から教育を受けた。
また、彼は25歳までラビ・ユダ・ハ・コーヘンというラビに師事し、ユダヤ神学を学んだ。さらに医学の勉強も開始していた。
1160年、彼の一家は北アフリカのモロッコはフェズに居住した。フェズは、何かとカバラと関係の深い町である。ここにおいて、マイモニデスは学者としての活動を開始する。ユダヤ暦に関する論文、論理学に関する論文、そして彼の主著たる「発光体」の下書きにも取り掛かったらしい。
しかし、このフェズも安住の地とは言えなくなった。狂信的なイスラム教徒アルモハズ派の猛威が荒れ狂い始めたのである。ユダヤ人達はイスラムへの改宗を強制され、従わない者はリンチで殺されることも珍しくなかった。
1165年、彼の家族はフェズを脱出する。パレスチナへの移住を決心したからである。一家は船に乗り、嵐に悩まされ、どうにかパレスチナノのアークルに到着した。彼らは聖地を巡礼したが、エルサレムは安住の地にはなり得なかった。ユダヤ人は少なく、しかも貧しい町だった。
結局、彼らはパレスチナ居住をあきらめ、エジプトへ向かう。アレクサンドリアに2年間住んだ後、カイロへ行き、そこを住居に定める。
そこで、弟の始めた宝石商が成功し、やっと一家は安定した生活を手にすることができた。
マイモニデスも学問に専念することが出来るようになった。
彼が夥しい著述活動を開始するのも、この頃からである。
1168年に彼はタルムードの注釈である、代表作「発光体」を発表する。これは、現代でも非カバリストのタルムード研究者達からも高い評価を得ている。
1170年には「戒律の書」なる613の命題からなるユダヤ教戒律の注釈書を出す。
さらに彼の研究は、カバラや占星術にもおよんだ。
しかし、1174年、突然大きな不幸が襲う。一家の生活を支えていた弟が商用旅行の途中、海難事故で溺死。これは経済的打撃はもちろん、兄弟仲が良かっただけに精神的ショックも大きく、これがきっかけで彼は病気にもなった。
彼は、生計を支えるために医者を開業する。もともと医学の知識は豊富であったが、実践経験は無かったために、不安なスタートではあった。しかし、彼は医者としての才能があった。それも天才級の。
たちまちのうちに、彼は名医と呼ばれ、イスラムの王侯貴族達を診察し、遠くイギリスのリチャード1世からお呼びがかかるほどの成功を手にした。
また、彼の学識と人格は、エジプト在住のユダヤ人達から高く支持され、「フォスタットの聖人」と呼ばれるまでに至る。
さらに彼は「迷える者の手引き」を著す。これは、ある意味、もっとも重要な著書であろう。
この著書は、後にラテン語に訳され、キリスト教神学者達からも高い評価を受ける。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アキィナス、マイスター・エックハルト達だ。
この著書では、彼はアリストテレス主義をユダヤ神学に導入しようとした。
神は第一の動因であり原因である。神の実在はアリストテレスの論理によって証明可能である。すなわち、アリストテレスの「自然学」や「形而上学」の言うところの「存在の連鎖」の概念に基づいて、これを論じている。
先にも書いた通り、神は被造物に対する第一の動因であり原因である。神それ自身は純粋現実態として被造物から、かけ離れている存在であるがゆえに、その「本質」に関しては肯定的な知識を我々は持つことが出来ず、否定的な道によってのみ認識可能であると考えた。
これは、かの有名なトマス・アキィナスの「第一の神の証明」の前身にあたる考え方である。
彼は、決してアリストテレスの盲目的な信望者ではない。むしろ、新プラトン主義の思想を援用することにより、一神教を理論的に解析し、旧来のアリストテレス哲学による一神教批判に対抗しようとした。すなわち、アリストテレスが説く世界の永遠性に関する哲学的教説を拒否し、代わりに聖書を取っているのである。
また、彼は個々の人間に対する神の摂理を論じ、また占星術を認めながらも天体は人間の「行為」にまでは影響を与えないとした人間の自由意志の主張も行った。
言ってみれば、彼はアリストテレス主義や新プラトン主義といったギリシャ哲学とユダヤ教神学との調和を目指したのである。そういった意味では、彼はアヴィケブロンと同じ所に居た。
……ともあれ、彼がこの著書において、一番言いたいことは、人間は自らの持つ知識によって、生活の指導的原理を理解する。よって人生の目的は明確化されうる。人生はその目的を探求することによって、到達すべき目的が発見されるのである。さらに、神の行為が正しい知識によって理解されたとき、神への礼拝は必然的なものになる。これこそが「神への知的礼拝」である。
要するに、彼は霊魂と肉体との相互関係をカバラ的に考察しようとしていたのだ。宗教こそ、肉体と霊魂の最良の保護手段だというわけだ。
彼の思想は、後に「ゾハール」成立に至る大きな潮流の一つを作ったのである。
カイロでの彼は成功しすぎたため、凄まじい激務をこなす生活を送った。
睡眠はおろか、食事ですら満足にとる暇はなく、貴族から貧民まで、友人から敵に至るまで、平等に治療を行ったという。
1204年、彼は永眠する。この日、エジプト中のユダヤ人達が、彼のために三日間の喪に服したという。
「カバラ」 箱崎総一 青土社
「中世思想原典集成13 盛期スコラ学」 上智大学出版局
「世界神秘学事典」 荒俣宏篇 平河出版社
「カバラ Q&A」 エーリヒ・ビショップ 三交社
「カバラ」 A・サフラン 創文社