新プラトン主義
西欧のオカルティズムを遡れば神秘主義に、そしてこの神秘主義を遡れば、必ずこの新プラトン主義という哲学思想に行き着く。カバラとて例外ではない。
プラトンは、我々の属する物質世界、現象世界の上にイデア界(叡智界)をおいた。
このイデアという概念は、プラトン哲学の中心概念ともいえる。
イデアとは言ってみれば、完全にして普遍、永遠の真実性であり、物体としては捉えられない存在である。我々の感覚的世界の事物はこのイデアを原型とする模造であり、イデアを分有してのみ存在する。イデアは、我々の感覚的知覚の対象とはならず、理性的認識の対象である。
ここで新プラトン主義は、この思想をさらに発展させた。
従来のプラトン哲学のイデア界以上の究極の原理を求めたのである。
すなわち、このイデア界にも様々な階層がある。そして、この究極の原理を求めるのならば、一切の多様性を取り除いた原理が求められなければならない。これは、多様性どころか存在や思惟すらも超えた所にある原理でなければならない。これこそが「一者(ト・ヘン)」であり、様々な物に分化する前の統一体でもある。
この「一者」は空間や時間を超越した存在であるから、どこにあるわけでも、いつあったわけでもない。動きもしないし、静止もしていない。形も大きさも重さもない。意識すら当てはまらない。意識は「見るもの」と「見られるもの」という対立から生じるのだが、「一者」には、そういった区別も無い。
また「一者」は、神とも呼ばれるが人格を持っているわけでもない。
要するに、あらゆる規定や法則に縛られない根本原理のことを言っているのだ。
この「一者」から、世界は多様化して生じた。
だが、多様化するということは何か理由があるはずである。どのようにして、何のために世界は多様化して出現したのであろうか?
「一者」が世界を創造したわけではない。なぜなら、創造とは結局のところ「作用」であり、作用というのは変化する現象界でしか起こりえない。そもそも「一者」は完璧であるから、わざわざ新たに世界を創る必要性が無い。
では、この完全なる「一者」と、不完全な現象界、物質界とは、どのような関係があるのであろうか?
それの答えが「流出説」である。
この流出説は、すでにグノーシス派によっても唱えられていたが、新プラトン主義は、それをさらに発展させ、重要視した。
「一者」は無限である。「一者」を限定するものは存在しない。だからこそ、「一者」は溢れ、流出するのである。
さらに「一者」は完全であり無限の力を持っているので、尽きることなく、永遠に流出を続けることができる。
それは、泉と川の関係に例えられた。泉は、水を溢れ出させ流出させ、川をつくる。この泉は他に源を持たないがゆえに、川のように自らを使い果たすことはなく、その状態をを保ちながら存在し続ける。
「一者」は太陽にも例えられた。太陽は熱と光を放ち続ける無限の存在だ。しかし、太陽から放たれた光は、太陽から遠ざかるにしたがって、その明るさを弱める。
「一者」から流出した物は、遠ざかるにしたがって、次第に完全さを失ってゆく。結局、流出した世界はオリジナルの「一者」より、どうしても粗悪にならざるを得ないのである。
我々の住む現象界、物質界が不完全なのはそのためである。
これは、つまるところ、我々は感覚だけに頼り、物質的世界にはまり込み、堕落している状態にあることを意味する。
結局、流出したということは、完全な存在である「一者」から、こぼれ落ちた存在だということだ。
「一者」からの流出は、「ヌース(知性、精神、理性。イデアを認識するための理性的能力のこと)」から「魂」を経て、段階をふんで「質料(物質的な存在)」 に行き着く。「質料」の中でも一番最低の状態とは、「闇」であり、それは「光の欠如した状態」のことである。「悪」は、こうした欠如した状態の便宜上の呼び方である。
我々は、こうした物質世界への「下降を喜ぶ」ことを止めて、「一者」へと自分を向上させねばならぬ。
人間の「質料」的な側面は、言ってしまえば肉体であり、欲望に染まることによって「悪」や「災い」を引き起こす。
しかし、人間は本来は、天上的な存在であり、我々の「魂」の故郷はイデア界にある。よって、「魂」を解放してイデア界に帰り、そこからさらに「ヌース」へと高まり、ついには「一者」そのものと合一する。
これが究極的な哲学の目標であるという。
以上を考えれば、この新プラトン主義の内に、西欧のオカルティズム、神秘主義の原型が含まれていることが分かるであろう。
新プラトン主義の提唱者は、アンモニウス・サッカスとプロティノスである。
アンモニウスは、もともとキリスト教徒であった。彼の弟子には後に教父となる著名な神学者も含まれる。だが、彼の生涯については、詳しいことは殆ど分からない。身分の低い運搬人夫出身で知識人とは縁遠い階級だった。そんな彼がどうやって、あれほどの学識を身につけたのか、これも大きな謎とされている。
アンモニウスは、やがてキリスト教に飽き足らなくなり、独自の哲学思想をうち立て、82歳の天寿をまっとうした。
プロティノスは、そんな彼の高弟であり、師の思想を「新プラトン主義」と名づけ、世に広めた。
プロティノス(205~270)は、上エジプトのアシュート付近の裕福な家に生まれ、わずか8歳で文法学校への入学がゆるされたほどの神童であった。だが、彼の少年期の記録は、これ以外には何も残っていない。青年期の記録も同様に貧弱である。
彼がアンモニウスの弟子になったのは20代の終わりであり、師の死期が近い頃であったらしい。
師が死ぬと、彼はさらに学問を深めるためにペルシャやインド哲学すらも学ぼうとした。そこで皇帝ゴルディアスのペルシャ遠征に随行したが、遠征の失敗に伴い、留学を断念し、逃げ戻らざるを得なくなる。その後、ローマに戻り、そこで25年間過ごした。
ローマで哲学を教え始めると、彼は多くの信望者を獲得した。また、権力者や裕福な者、知識人達からも熱狂的な支持を受けた。
ローマ皇帝ガリエヌスは、プロティノスを高く評価し、プラトンの「国家論」に基づく理想都市を造りたいという、プロティノスの計画を実現させようとまでした。もっとも、この計画は皇帝の側近達の反対で実現はしなかった。
プロティノスは、「万物を越える神との一体化」の具体的手段として、瞑想を行った。これは、一種の神秘体験をもとめたものとも言えるかもしれない。弟子のポルフュリオスの記録によると、彼は宗教的な恍惚状態をも経験していたらしい。自分には厳しく、様々な節制を自らに施した。菜食主義で、質素な生活を好んだ。
また、プロティノスは、最初のうちは自分の教義を、なかなか文字にはしようとしなかった。
これは、もともと執筆が好きではなかったこともあったが、師のアンモニウスとかわした沈黙の誓いのためであったと言われる。
だが、晩年になると、友人や弟子達の強い要望により、執筆を開始する。
彼の著書は54篇あるが、48歳のときまでには21篇しか書いてない。残りの24編は晩年の6年間で書き上げ、最後の9篇は最晩年の2年間で書き上げられた。
これらの論文は、弟子のポルフュリオスによって9巻の本にまとめられた。これが「エネアデス」である。
ただ、この新プラトン主義は、後世の哲学に、あまりに大きな影響をおよぼしたがゆえに、曖昧で多義的に用いられ、混乱を引き起こしている。
したがって、広義の意味と、狭義の意味には、だいぶ開きがあると考えるべきである。
狭義の新プラトン主義の定義としては、超有的超知性的な最高始元(つまり「一者」のこと)を設定していること、イデア界において「ヌース」と「魂」を区別していること、流出説を承認していること、我々の魂の最高始元との合一の可能性を承認していること、この4つの条件を満たしている哲学思想のことを言うという。
カバラやヘルメス哲学は、狭義の新プラトン主義に当てはめるには無理があるが、その根底部分においては、非常に強い影響を受けていることは確実であろう。
「ネオプラトニカ 新プラトン主義の影響史」 新プラトン主義協会篇 昭和堂
「神秘学入門」 富増章成 洋泉社
「知識の灯台」 デレク・フラワー 柏書房
「世界の名著15 プロティノス、ポルピュリオス、プロクロス」 中央公論社