いつ、どんな形で言論の場に「復帰」してくるのか。
たぶん、単著の出版か、もしくは一連の騒動に対する反論としての論説を掲載誌だった「新潮45」に発表するのだろうな、と思っていたら、違った。
そこに杉田水脈氏はいない。
「新潮45」2018年10月号では「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」として、その著者である杉田氏が「検討はずれの大バッシング」に遭い、「杉田攻撃一色」「冷静さの欠片もなかった」との状況を指摘した上で、LGBT当事者の声も含めて7名の「そんなにおかしいのか」という論を掲載している。
「新潮45」8月号で杉田氏が寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」との小論は、「生産性」といった言葉とともに社会に大きな議論を巻き起こし、自民党前での杉田氏辞職を求めるデモに至る。
筆者も「『LGBTは生産性がない』杉田水脈氏大炎上『ザワザワ感』の正体」として、その構造的問題を指摘した。
この流れの中で杉田水脈論文に関する特集を今、組むならば、編集部に最も期待されていたことは、杉田水脈氏本人の、一連の抗議行動、特に批判論考に対しての反論なり、説明なりを掲載することだったのではないか。起点は杉田氏だから、彼女自身が回収しなければことは収まらない。
ところが、この論文に関しての「まっとうな議論のきっかけとなる論考」として並んだ文章は「まっとうな議論」どころか、火に油を注ぐものばかりだった。
小川榮太郎氏の「(痴漢症候群の)彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか」といった醜悪な主張の羅列、米国国務省招聘で3週間に渡るLGBT研修で全米を共に歩いた松浦大悟氏の「LGBT強い国家論としてのLGBT」論には違和感を持つし、そもそも事実誤認がある。
かずと氏による尾辻かな子氏に対しての言いがかり、そして末尾に「尾辻かな子さん、今のあなたは同性愛者の恥さらしです」で終わる文章は責任転嫁以外の何ものでもない。いずれも、結局はそれぞれが杉田氏を使って持論を展開するだけに終始している。
ある意味、保守論壇といわれる布陣の底の浅さが見えたとも言える。この中で、杉田氏はポジションを取って来たのである。鍛えられ、成長する機会に恵まれなかったであろうことは想像に難くない(参照「お気の毒すぎる国会質問」)。
小川氏の前述の発言はTwitter等で拡散され、新潮社内部(出版部文芸)から「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という新潮社創立者・佐藤義亮の言葉を連続リツイートがされた。そこには苦しい社内事情が伺える。
この言葉は共感を生み、拡散され、出版業界からもエールが送られているが、果たして「新潮45」編集部には届いているのであろうか。