時速181メートル 捉われた時間
          - 踏み出す勇気 -



 小学生の頃に出会い、お互いの引越しと転校で離れ離れになってしまった明里と貴樹。その時の二人のお互いへの想いは確かなものだった。少し早かったかもしれないけど、お互いの初恋だった。けど、その想いは遂げられず、終わらせることも出来ずにいた。そして、二人はそれぞれの世界で生きてきた。忘れていたつもりだった。でも、忘れることなど出来なかった。
 それでも、今は、もう、それぞれ別の世界で、別々の関係の中で生きていた。出会ったしまった二人、そして、それぞれの周囲の人々にもそれぞれの想いがあった。既に、二人はお互い以外との絆を持ってしまっていた。そんな中で、二人はそれぞれに悩み、苦悩し、再び心を決めていく。

 新海誠監督の作ったアニメーション作品「秒速5センチメートル」の二次創作です。ほぼ似たタイトルの『時速180メートル』とパラレルワールドの、ほんのちょっとだけ、それぞれの想いが違っていた、ほんのちょっとだけ違う世界の物語です。なので『時速180メートル 動き出した時間』と状況設定が大分かぶっています。ほとんど同じ部分もあります。けど、それぞれの想いが少しずつ違っています。





思い出
取り戻したものと取り戻せないもの
動き出した心
振り返る苦悩
自分の中にあるもの
思わぬ出会い
予想出来ない奇跡
戸惑いと望み
幸せな時間
暴かれた想い
楽しいひと時
葛藤
希望
過去から未来へ
揺れ動く心
歩み行く先
友達
桜の導き
再会
初恋
想いと距離
色々な涙











思い出
   先頭

 私は母校の廊下で、その壁に飾られている額縁の前で足を止め、額縁に入っているロケットの写真をぼんやりと見ていた。大体年二回あるロケット打ち上げは、ここ種子島では季節の風物詩みたいなもので、誰もが何度か見たことがあるものだと思う。
 だから、そう頻繁ではないけど、そう珍しいものでもない。
 それでも、やはりロケット打ち上げにインパクトがあることは変わりなかった。
 炎の柱を噴出しながら、その柱に乗って上昇していく姿はとても力強く、実際の打ち上げを見ると、思わず心を奪われてしまったかの様に、ただ、ただ、見とれてしまう。 ロケット打ち上げの光景には、何か未知のものへ挑戦する強さ、それを実現させる意志の強さを思わせるものがあり、それが人間の心を揺り動かす力となって、見るものを魅了する様に感じた。
 やはり、人の意志の力は人を魅了せずにはいられない、ということだろうか。
 ロケットの打ち上げは、そんなことだって含めて吹き飛ばしてしまう。

 そもそも、どうしてロケット打上げなどを気にする様になったのか。
 それには理由があった。 今でも忘れることが出来ない、あの日の打上げ。
 そう。 一番印象に残っている打ち上げは、もう何年も前のことだった。それ以来、ロケットの打ち上げがあると、つい見上げてしまう。心が、あの日に戻ってしまう。
 それは一九九九年、高校三年生の秋の一日だった。その日、私はロケットの打ち上げを見た。もっとも、印象に残っているのは打ち上げそのものではなく、その時一緒にいた男の子のことが忘れられない、という方が強いのかもしれない。
 遠い昔のその日、私はある決意をしていた。中学の頃からずっと好きだった男の子にその日こそ告白する。それが私の決意だった。
 けれども、私の決意は彼の無言の圧力の前に力を失い、行き場を失った私の気持ちは大粒の涙となって私からあふれ出てきた。涙が止まらなくなってしまった私を、彼は困ったような表情で見つめていた。その時、周囲の虫たちの鳴く声が一斉に止まった。
 その不思議に静まり返った秋の夕方、ロケットが打ち上げられた。
 私は涙を流すのも忘れて、そのロケットを見上げた。彼も我を忘れて見上げていた。 ロケット打ち上げは、私の涙を止めてしまった。

 ロケットの打ち上げに出会うと、思わず足を止め、伸び行く煙を、その煙の先で炎を噴出しながら一直線に上っていくロケットの姿を目で追ってしまう。手を伸ばしても届くとは思えないロケット。どんなに望んでも届きそうに無い想い。
 先月、二月二十三日にも打ち上げがあった。割と近くまで見に行ったけれど、何度見てもあの光景には圧倒された。 ロケットが雲の間に消えた時、遥か昔の、もうとっくに忘れたはずの想いが私の中にあふれていた。
 そう。あの遠い日のロケット打ち上げと共に諦めたはずの想いを。

 今になって、何を重ねているのだろうか。
 あの日、あの時間にロケット打ち上げが無かったら、私はどうしていたんだろう? 彼はどうしたんだろう? 行き場の無い想いが、涙となってあふれてきたあの時。私は自分が泣き止むことが出来るなんて考えてなかった。だからと言って、泣いていればどうにかなると思ったわけでもなかった。ただ、どうにも出来なかった。
 それでも、ロケットの打ち上げは色々なことを吹き飛ばしてしまった。
 あまりの迫力に。あまりの意志の力に。ロケットって、人間の意志の力の結晶なんじゃないかと思うことがある。 ロケットの様に力強く、ロケットの様に真っ直ぐに。
 私もロケットになれればよかったのかもしれない……。

 そうすれば、あの日の結果は何かが違っていたのだろうか?
 いや、あの日の結果はきっと変わらない。それでも、それ以降の日々の過ごし方は変えられたはずだ。望みが無いことを知りながらも諦めきれない、ぬるま湯の様な時間を過ごすのではなく、彼に切り捨てられ、きちんと絶望できていたかもしれない。
 そうすれば、いつまでもうじうじと悩むのではなく、別の望みを創れたかもしれない。
 けど、結局、私はそうできなかった。


 私は澄田花苗。
 この種子島で生まれ、この島で育ち、ずっとこの島で暮らしてきた。少しの間、島を出て生活したこともあったけれど、結局この島に戻ってきた。ここの生活に不満がある訳ではないし、他に行きたい場所がある訳ではない。
 そして、どこか遠くに行きたい、そんな夢がある訳でもない。
 それでも何かが欠けている。 その感覚は常に心の中で燻ぶっていた。

 何が欠けているのか、何を望んでいるのか、それは判っている。同時に、それがどうしようもないことも判ってた。もう、とっくに諦めたはずだった。

 結局、あの日はその打ち上げに心を奪われ、その後は二人とも押し黙ったまま家まで歩いて帰って終わった。 あの日、あの瞬間までが、一つの頂点だった。
 その後、彼との関係は進展も破局もせず、おともだちとしての関係が続いた。けど、ほんの少しだけど、距離が開いてしまった様に感じられた。そして、予想通りに、彼は東京の大学に進学が決まり、翌年の三月に島を出て行ってしまった。
 彼が出発する時、空港まで見送りに行った。
 その時、想いを告げた。それはその後の関係を期待しての告白ではなく、想いを精算するための告白のつもりだった。
 彼の姿が見えなくなるまでは、何とか微笑むことが出来ていたと思う。けど、彼が見えなくなり、いよいよ彼の乗った飛行機が離陸するのを見たとき、空港のフェンスを握り締め、あふれる涙を抑えることは出来なくなっていた。
 彼と会ったのはそれが最後だった。
 もう会えない、そうあきらめた筈だった。


 けれども、実は私からは毎年のように手紙を出していた。 それは、高校の同窓会のお知らせだったけれど。私は卒業後も種子島に残った人間で、職場が母校の近くだったこともあり、気が付くと同窓会の幹事、というものを押し付けられていた。
 そして、同窓会関係のお知らせ等を卒業生に配信する、という役割を任されていた。しかしそれは、叶わない想いを毎年のように思い起こすきっかけにもなっていた。
 先月のロケットで打ち上げられた人工衛星は『きずな』という名前だと言うことだった。
 きずな。私もきずなが欲しい、彼とのきずなが……。
 それが叶わない夢だ、というのは分かっているつもりだった。彼が島を出る日に清算したつもりの想いだった。けれども、未だに捨てきれない想いだった。
 そう。 彼以外とのきずなが欲しいと思えないのは確かだった。

 私は気を取り直して校舎から出ると、空を見上げた。
 今日は天気も良く、抜けるような青い空がどこまでも広がっていた。この空は彼がいる東京までつながっている,そう思うと心がざわつくのを感じた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 窓から桜の花が舞い込んできたのに気が付き、僕はふとキーボードを打つ手を止め、窓の外を見た。まだ肌寒い日もあるけれど、暖かそうで、良い天気だった。
 こんな日は、気晴らしにその辺りでも歩いて見ようか。
 そう思い、部屋を出た。
 外に出ると、あちこちの桜は満開で、あふれるように花が舞い散っていた。きれいだ。そう思った。そう言えば、桜を見て「きれいだ」と思うのはひさしぶりな事に気が付いた。
  『ねぇ、秒速5センチなんだって、桜の花の落ちるスピード』
 ふと、記憶の底からなつかしい言葉がよみがえった。確かそんなことを言っていた子がいた。小学生の頃、毎日一緒に帰り、ほとんどの時間を一緒に過ごした女の子、確か名前は篠原明里。お互いの引越しで離れ離れになってしまった。
 小学生だったあの日、あの踏切の向こうから彼女は言った。
  『来年も一緒に桜、見れるといいね』
 懐かしい思い出だった。
 しかし、その後、彼女と一緒に桜を見ることはなかった……。
 彼女とは中学から高校二年まで文通をした。思い返してみると、当時は失うことなど考えられない特別な相手だったが、ぱたりと手紙がこなくなった時、何も出来ずにそのままつながりが途切れてしまった。
 そして文通が途切れるのと前後して、自分の無力さへの無念と、あせりにも似た力への渇望とが強くなり過ぎ、自分の心も分からなくなり、いつの間にか彼女のこと、そしてその想いは自分の心と一緒に見失ってしまった。
 今、本当に久しぶりに思い出したが、当時の自分を思い返せば、大切で、切実で、心を熱く燃やす、あの何物にも代えがたい想いをありありと思い出せた。それでも、それは既に思い出になっていて、懐かしく、ほのかに暖かい、微かな苦笑と共に思い出せる。今となっては自分の現実にはもう関わることが無い、幼い頃の思い出だろう、と思えた。
 今、彼女はどうして居るのだろうか。
 どこかで桜を見ているだろうか? 突然、あふれ出してきた思い出に、思わず苦笑しながら桜を見つめた。そんなことを久しぶりに思い出し、それを懐かしみながら、穏やかに苦笑することができる自分を感じ、久しぶりに安らかな気分で近くを散歩した。

 そして、あの彼女とも何回となく渡った踏切に差し掛かった。
 そこで一人の女性とすれ違った。
 年格好からすると同い年くらいで、きれいな女性だと思った。通り過ぎる瞬間、何かを感じた。確信はなかったが、ふと、彼女は篠原明里ではないか? そう思った。胸の奥に微かに残る彼女のイメージにとてもよく似た女性だった。
 そう思うと気になり、踏切を渡り切ったところで、ゆっくりと振り返った。
 だが、ちょうど電車が通りかかり、しかも立て続けに通りかかった為、向こうが見えるようになるまではかなり時間がかかった。
 それでも、電車が通りかかる一瞬前に、向こうの女性も振り返るのが見えた様に思えた。
 まさか……。
 そう考えながらも、緊張しながら電車が通り過ぎるのを待った。そして、電車が通り過ぎ、踏切の向こうが見えるようになった。

 そこには誰もいなかった。
 確かに振り返っていた様に見えたんだけどな。 そう思ったが、見間違いかもしれないし、やはり人違いだろう。彼女、明里が、今こんなところを歩いている訳がない。
 そう思い直した。
 僕はあの女性が明里かもしれない、そう思った自分に改めて苦笑すると、もう一度振り返って、再び歩き始めた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「きれい…」
 ベランダで水をやっていた明里は、舞い込んだ桜の花を手に、心が浮き立つのを感じた。天気も良く、あふれるばかりに咲き誇る桜に誘われるように、出掛けることにした。
 まずは桜を見たい、と言う思いを強く感じたけれど、別に桜でなくてもよかった。特に何を見る、どこに行くと決めずに、ただ近くを歩いて見たい、そんな気分だった。
 春ということもあったし、ここ最近続いていた肌寒さも遠のき、春の暖かさが満ちている様に感じた明里は、軽く着替えて近くを散歩することにした。この辺りは小学生の頃に住んでいた町でもあり、慣れていたので、一人で歩き回ることも特に不安も無く、軽く散歩に出かけることにした。 もっとも、小学生の当時、歩き回るときは大抵一人ではなかったけど。
 あの頃は、仲良しだった男の子といつも一緒だった。
 彼と過ごした時間は特別だった。その彼との関係は、当時は失うことなど不可能だと信じていた。それでも、その関係は失われてしまった。そのことを思い返すと、胸の奥が微かに疼くのを感じたけれど、今となっては、淡い、暖かな思い出で、自分の大事な一部、そう思えた。
 彼との出会いは自分を変えた。 きっと、彼も何かが変わったと思う。そして、決して本意ではなかったけれど、お互いの別離を受け入れ、それぞれの道を、前を向いて歩いてきた。
 別離は悲しかったけど、お互いを信じることで、お互いに強くなれた。その後、どこかで二人の人生が交わっていたなら、とても嬉しかっただろう。けど、そうはならなかった。それが自分の人生なら、その人生をしっかりと生きよう。そう考えることが出来た。
 とにかく、そうする強さは彼との出会いと別離で生まれたもの。彼との思い出は、自分の真ん中で自分自身を支えている。 明里にとって、それは確信だった。

 去年の暮までは栃木の実家に住んでいたが、結婚とほぼ同時に現在のマンションに引っ越してきていた。新居がこの場所となった理由に特別なものはなかったが、夫の通勤の都合と、この辺であれば何かと便利だから、ということからだった。
 とにかく、穏やかな日で散歩するのにはちょうど良かった。春の陽を暖かく感じながら、気分よく桜の花を求めて近くを歩いて回った。
 近くの小さな神社の前を通り抜け、明治神宮に行った。明治神宮の森のような木々の間の参道も好きだったけど、少し薄暗くて、まだ少し寒そうだった。薄着だったのでなるべく日向を歩いて明治神宮を通り抜け、原宿駅前から改めて代々木公園に入った。この何日かの陽気がよかったのか、公園の桜はほぼ満開で、本当にきれいだった。穏やかな陽気の中での、のんびりとした散歩で心が穏やかに解放されていく感じがした。
 しばらく歩き回り、十分に桜を堪能した。それでもまだ名残惜しいような気持ちもあったが、そろそろ帰ろう、と自宅のマンションに向かって歩き始めた。

 途中、踏切に差しかかった。
 ふと、懐かしさがこみ上げてきた。この踏切は、いえ、この辺の踏切は、どれも小学生の頃に仲の良かった男の子とよく一緒に通った踏切だった。
 ふと見ると、踏切の向こうから同い年くらいに見える男性が渡ってきていた。
 どこかで会った感じがする。そう思いながらすれ違った。
 その瞬間に思い出した……。

 貴樹君、遠野貴樹。 あの仲良しだった男の子にとてもよく似ていた。





取り戻したものと取り戻せないもの
    先頭

 僕は苦笑しながらも、明里のことを思い出すのは久しぶりなこと、それを『思い出』と考えながらも、すれ違った女性に明里の影を見てしまったことに苦笑した。彼女との思い出を微笑みながら振り返ることが出来る様になった、そう思ったけれど、まだ、心のどこかで彼女を追い求めているのだろうか?
 そのつもりはなかったのだが……。
 そう考えながら苦笑した。 そして改めて、自分の気持ちをよく見つめてみた。少し興奮しているけれど、動転してる、というほどじゃなかった。柔らかく、暖かい。そして優しい気持ちがあふれているように感じた。
 彼女と会いたい、という気持ちはあった。けど、それはただ会ってみたい、という気持ちで、熱くたぎる様な気持ちや、抱きしめたい、キスしたい、そんな衝動はなかった。 ただ、どうしているんだろう? お互いの成長を祝福できれば、笑顔でまた別れることが出来る。
 そんな気持ちだった。
 十年の月日は、あの切実で、熱い想いを優しい思い出に変えてしまった様だった。 そういう強さがあるからこそ、過去を乗り越えていけるからこそ、変わっていけるからこそ、だからこそ人は生きて行けるのかもしれない。

 そう考えながらも、やはりそれを思い出として振り返ることが出来ることが出来る自分には多少おどろいていた。そして思った。ちょっと前だったら、こんなに穏やかな気持ちでいるなんて、想像することも出来なかっただろう、と。
 まぁ、感傷的な気分は、まだ多分にあった。そして、その理由の一つは独り身だから、というのは大きな要因だろうとも思った。
 この二~三年、特に去年の年末からこの一月にかけては随分といろんなことがあったから。
 まず、一番大きなことはそれまで勤めていた会社を辞めたことだろう。会社での仕事が心を消耗させるばかりのことになり、耐えられなくなった僕は去年の暮に、それまで勤めていた会社を辞めることを決意し、今年に入り、一月末で会社を辞めたのだった。今思い返しても、その時の僕は消耗していたと思う。

 そして、その中で、しばらく付き合っていた女性と別れることになってしまった。
 その女性、水野理紗。彼女には本当に悪いことをしたと思っていた。
 だが、少なくとも当時、僕にはそんなことを考え付く余裕、いや、そもそも彼女のことを考える余裕すら失っていた。
 そう。会社を辞めたから振られた、とかではなく、もっと根本的な問題だった。付き合っていたはず、ということは覚えているのだが、そして、ほんのもう少し前には、彼女を欲する気持ちが確かにあった。それは手を伸ばせば触れそうなくらいに確実なものだとも思っていたのに。 それなのに、いつの間にか、その気持ちがあったはず、という記憶はあるのだが、その想いを感じることは出来なくなってしまった。
 以前は週に何度も会っていたのに、その頃では彼女とどれだけ会っていたのか、いや、どれだけ言葉を交わしたのか、それすらもよく覚えていなかった。
 当時の僕は自分自身の事で精一杯という状態で、彼女の想いに応える余裕がない、そう考えていた。だから、二人の関係を破綻させた原因のほとんどが僕にあったのは間違いない、それは当時から判っていた。思えば、そんな僕に彼女は何度もチャンスをくれた。けど、僕はそのチャンスを全て無視してしまった。だから、彼女は相当苦しんだに違いないと思う。
 いつの頃からか、彼女との交際を深めること、距離を縮めることを出来なくなっていた。
 その理由を当時担当し、相当に歪んでいた仕事のせい、仕事が忙しいから、仕事で疲れてるから、そう考えていたけれど、それが根本的におかしいことに気が付いてなかった。
 だから、理紗は疲れてしまったのだろう。どんなに想っても、どんなに話しかけても、自分を見ようとしない僕に疲れてしまったのだろう……。
 だから、彼女には本当に悪いことをしてしまった。
 どちらにしても、あの会社で働いていた最後の頃は、仕事以外の何事も考えることが出来なかった。そして、考えられないだけじゃなく、もうほとんどを既に失っていた。そのことに気が付いた時、僕は限界を悟り、会社を辞めた。
 会社を辞めた直後の僕は、ただの抜け殻のようだった。
 幸い、それなりに貯金があったので、しばらくは何もしないで過ごすことができた。
 何もしないで、ただ呼吸をしているだけ、という状態でしばらくの時間をやり過ごすことしか出来なかった。今思い返せば、あの頃は、正にどん底の精神状態だったと思った。 だが、そうやって、そんな自分をまるで他人事のように傍観しているうちに、僕は少しずつ元に戻ることが出来たのかもしれない……。
 いや、少し違う。元に戻ったのではない気がする。新しい自分に生まれ変わった様な気がする。もちろん、全くの別人になった訳ではないと思う。けど、気分が全く違っていた。音も色も無い、灰色一色に感じていた風景に、徐々に色彩が現れ、気が付くと、以前よりもずっと色彩にあふれている感じがした。

 そんな風に新しい風景が見え始めると、徐々に昔のことも思いだし始めた。最初に思い出したのは種子島での事だった。やはり、中学から高校という多感な時期を過ごした場所の記憶は鮮やかで僕の心をくすぐった。それともう一つ、同じくらい鮮明に思い出したこと、それはやはり明里のことだった。
 それも当たり前だろう。多感な頃のほとんどの時間を彼女を想ってすごしたのだから……。
 けれども文通が途切れてしまって以降はどうにも出来なかったのも確かだ。それでもそれは、初めてキスした女性であり、やはり僕の初めての恋だった。彼女、篠原明里との思い出は僕に切ない想いを、それでも暖かく優しい気持ちを呼び起こした。
 会社を辞めたその日、帰ってきた僕は、会社生活での様々な重圧から解放された、と感じたせいか、様々なことを思い出した。
 それは、様々な記憶と想いだった。
 けど、それは残酷なことでもあった。これまで関わって来た人、特に女性たちとの思い出と記憶。そして、幾つかの想い。もう、再び手にいれることは出来ないだろうもの。そんなことをはっきりと覚えている、思い出す、というのは最初はつらかった。久しぶりにあふれ出た想いは真剣だったから……。
 そんな遥か昔の想いに比べると、最近の僕は真剣に恋をしていたのだろうか? その時は真剣に恋してる、そう思っていたけれど、だが、それは本当に恋だったのだろうか?
 僕自身の中に本当に恋する、明里に対して感じたような熱い想いがあったのだろうか?
 もちろん、その当時は恋していると感じていたけれど、今思い返してみると、何か感情が薄っぺらい、そんな様な気がしていた。そして、決して自分から関係を終わりにしたことは無かったけれど、でも、本当の恋だったのなら、別れを突きつけられた時に、どの場合ももっと食い下がったのではないのだろうか? 確かに、別れを切り出された時は身も心も痛い、そんな記憶はあるけれど、それを失わないように、その人を失ってしまったらどうしたらいいのか判らない。そう信じ込むほどの衝動はなかったかもしれない。
 当時の明里に対しての想いはそんな感じがした。彼女が全て、そう信じきっていた頃が確かにあった。今では、それすらも、切なく、淡い暖かな思い出だけど……。
 そう。明里との関係において渇望はあったけれど、それでも手紙が途切れてしまってからはどうする事も出来なかった。いや、どうすればいいのか判らなかった。ただ受験勉強で気を紛らわしていた。そうする内に切実な感情はかすれ、擦り減って、どこかに行ってしまった。ただ、その時に、僕の心も一緒にどこかに行ってしまった様だった。
 久しぶりに思い出した想いは、十年という時のフィルターを通り、感情の起伏が穏やかになっていたが、叶わなかった願いとして僕の心に小さな痛みをもたらした。それでも、それはやはり、幼い頃の切なくも楽しかった思い出として、そして、その出会いによって僕は何かが変わったことを。確かに別離は辛かった、けど彼女との出会ったことを後悔する様なことはありえない。今の自分の大事な一部なんだ。そんな暖かな気持ちを呼び起こした。

 そんな現実を徐々に受け入れ、再び僕は働き始め、なんとか新たな生活を始めた。
 働く、と言っても以前と違って、フリーのプログラマとして、昔のつてで回してもらった仕事を請け負う訳で、自宅で出来るし、会社勤めとは違って働く時間が決まっている訳ではなかった。それでも、働くということで生活にリズムが戻ってくる様に感じていた。
 そうして働き始めるのと併せるように、周囲に色彩が戻ってくるのを、そして何かから解放されたような、長いトンネルからやっと抜け出たような気持ちになっていた。
 自分の周囲の色彩を意識した時、意外にもきれいな青い空が広がっていることに気が付いた。色よりも、そもそも東京に出てきて今まで、空を見上げたことがあっただろうか?
 確かに視線を上に向けたことは何度かあったと思う。けど、それは空を見たんじゃなかった。地上の何処にも目を向ける勇気がなく、その全てから目を逸らした結果、目のやり場が空の方しかなかっただけだった。だから、その目には何も映ってなかった。
 そのときに、空を見る、そんなゆとりが、心の柔らかさがあれば、何か違ったことになっていたかもしれない。
 抜けるような青い空を見ていると、中学・高校と過ごした種子島での暮らしが思い起こされた。あの青い空は驚異的だった。どこまでも透きとおり、海の果てまで続いていた。あの時は、東京、いや栃木の、明里の見る空につながる空、そんな思いで見上げていた。空は、希望へのつながりであり、そしてまた自然の圧倒的な驚異、力強さの象徴であり、まだ力が無いことの確認でもあった。だから空を見上げると叶わない望みを思う無念で辛くなった。けど、それでもあの空のもとで、中学から高校という多感な時期をすごした。

 そして初めて見たロケットの打ち上げ。見たのは一度きりだったけれど、あの瞬間を忘れることは出来ない。人々の思いを乗せ、一直線に空高く上って行くロケット。自然の脅威に、未知なるものに挑戦する人々の思いと意志の象徴のように感じた。
 そう言えば、その打ち上げを見たとき、僕の脇には女の子がいた。あの子、澄田は今どうしているだろうか。彼女にはひどいことをしたと思う。もう十年近くの時を経て、その思いは僕に悔悟の念を呼び覚ました。
 当時、彼女が僕を好きになってることは十分に意識していたけれど、友達以上の関係にはならない様に、かと言って、彼女の願いをはっきりと拒絶もせず、ただ友達としての関係をそのまま継続できるように、と当たり障りの無い関係を心がけていた。
 そう。あの時、あの打ち上げのあった日、彼女がその想いを僕に告白しようとしていたのを明確に感じた。けれども、僕はその彼女の決意を無言の圧力で押しつぶしてしまった。自分にとって都合のよい距離を維持するために……。
 僕は彼女に告白することすら許さなかった。
 そうやって、彼女を中途半端な状態に拘束し続けた。まぁ、その時以来、流石に彼女との距離は多少変わったとは思うけど。それでも、僕の中途半端な態度のせいで、僕はどれだけ彼女を傷つけてしまったのだろうか……。
 種子島を出るとき、彼女が自分の想いを清算する為の告白をしてきた時ですら、僕は何も答えてあげることが出来なかった。
 彼女は目に涙を浮かべながらも、笑っていた。
 その笑顔はずっと見てきた、慣れ親しんだものだった。力を欲し、それを得られず、絶望しそうになる僕に、彼女のその笑顔は常に向けられ続けてきた。そして、何かと話しかけてきた。だから、僕が落ち込んでいるときに、大抵そばに居たのは彼女、澄田花苗だった。当時、僕はそのことを面倒くさいことと考えたりもしたけれど、改めて考えてみれば、彼女と話しているうちに、僕の絶望的な気分は癒され、また前を向く力をもらっていたんだと気が付いた。
 そう。僕は中学、高校の間、あの笑顔に何度も癒されていた。
 けれど。 僕は、その笑顔すらも失ってしまった……。

 あの、種子島の青空に比べれば幾分かは透明感が弱かったけれど、気が付いてみれば、都会の空も僕の郷愁を呼び起こす程度には美しかった。
 それは、何より久しぶりに充実した毎日を感じていたからだろうか? これまでも、自分が力を得ていく高揚感を感じたことはあったが、それは常に、より大きな力を渇望する心の乾きがつきまとっていた。
 しかし、今は、その様なあせりはなく、自分のできること、できないこと、それを冷静に受け止め、自分のできることにやりがいを感じ、決してそれで満足してしまうとことなく、できないことに少しずつ挑戦して行く。そんなことを楽しむことができた。出来ることを少しずつ増やして行くことはやりがいがある。そして、今、焦りはなかった。
 そんな生活をしながら、長い間見失っていた心を取り戻した様にも感じていた。これは、高校以来のことかも知れなかった。
 そんな風に穏やかに感じながらも、先ほどすれ違った女性、彼女は明里ではないのかも知れないが、あれが明里だったとすると、それは奇跡に違いないと思った。
 彼女との復縁を願う気持ちが全く無い訳じゃない、けど、そんな思いよりも、僕は、僕なりに前を向いて生きていく。そんな僕を見て欲しかった。
 けど、そんな格好いいことを思っても、明里のことを考えるうちに判った。まだ、僕は心の底から明里を求める気持ちを昇華できてる訳じゃないことが。 久しぶりに思い出し、何度か考えているうちに、その想いが今でも決して色褪せてないことに気が付いてしまった。
 今、彼女と面と向かってしまったら何を言い出すか。 可能性も、資格もないのに。
 まだ、会ってはいけないのかもしれない。
 その考えには、改めて苦笑するしかなかった。





動き出した心
    先頭

 明里は戸惑っていた。
 つい先程、あふれるように咲き誇る桜に誘われるように出掛けた。そして、その帰り道の踏切ですれ違った男性。
 貴樹に似ている、と思った。思わず立ち止まって振り向いたけれど、ちょうど電車が通りがかり、よく分らなかった。けれども、向こうの男性も振り向いているのが垣間見えた。
 そして、お互いに振り向いていた。そう分かった瞬間、それが貴樹だと感じた。それは、誰に説明しても理解してもらえないかもしれない。けど、明里と貴樹の間には、そんな、何か特別なつながりがあると感じた。
 そう。今も、貴樹は特別だった。 もし、の幾つかの仮定が成り立つなら、自分と彼が結ばれていたはず、という想いは今でも間違いはないと感じていた。
 ただ、幾つかの仮定が成立しなかった。
 なので、彼とは別の道を歩むことになった。それでも、とにかく彼と出会ったことで自分は大きく変わることが出来た。ただ仲の良かった友達、それだけじゃなかった。お互いがお互いの一部を形作っていた。
 未だに彼は特別な存在、けど仕方の無い事情で彼との間には距離が生まれたとき、そのあまりに大きな距離に、一緒に居られない苦痛に疲れてしまった。だから、とうとうその関係は擦り切れてなくなってしまった。
 特別な存在だけど、お互いに別の世界に生きるしかない。当時は、その成り行きの残酷さを悲しみ、恨んだけれど、結局それを受け入れるしかなかった。幸か不幸か、その境遇を受け入れる、お互い以外の人間と関係を作って行くことが出来るだけの強さを、彼との出会いで自分は手に入れていた。そして、それはおそらく貴樹も同じだったと思う。
 でも、だから怖かった。
 もし、再びお互いが同じ世界にいることを、手の届く範囲で生きていることを感じてしまったら、自分が何を望んでしまうのか、それが怖かった。
 最後に会ってからはもう十年以上の時間が経っていて、現在では幼い頃の切ない思い出として自分の心の一部に溶け込んでいる、そう考えているけど。
 それでも、やはり自分の心のどこかで彼とのつながりを求める部分が残っていることも感じていた。だから、その思いが動き出すことを恐れていた。
 先ほどすれ違ったあの男性、彼は貴樹に違いない、そう感じてしまった。
 懐かしい、という穏やかな暖かい思いだけならば大丈夫だけれど、それ以上の想いを感じてしまったら危険。そんな想いが噴き出す前にその場を離れるべきだと思った。自分の気持ちに自信が持てなかった。ともすると彼の腕に飛び込むことを夢見てしまいそうで、自分をコントロールできそうになかった。
 だから、急いで立ち去ってきた。


 大学の時に付き合い始めた男性と去年の暮に入籍し、年明けには式も挙げた。まだ十分に新婚と言える時期だし、何より明里は夫を好きだし、愛してると思った。そしてお互いの気持ちに疑いなどなく、現在の生活も十分に満ち足りて、幸せを実感できていた。
 それでも、突然の出会いに戸惑った明里は、逃げ出すようにその場から急いで立ち去るしかなかった。もう、会うことはないだろう、そう考えていたけれど、先ほどの男性が貴樹だったと確信していた。 そして、自分の戸惑いと動揺を抑えることができなかった。
 そして、その動揺が怖かった。
 自分は何を感じているのか。
 そして、何を望もうとしているのか……。
 いや、そもそも、そんなことを改めて思ってしまう自分が怖かった。

 なぜ、彼はあの様なところにいたのだろうか?
 どうして彼に気が付いてしまったのだろうか?
 まだ早いのに……。
 そう思ったが、それでも、自分は大丈夫。自分はぐらつかない、そう思いたかった。

 でも、彼はどうだったろう? 彼はぐらつかないのだろうか? どこか線が弱い感じがした。単に疲れていただけなのかもしれないけど、目に力がなかった。
 何か喪失感を抱えている気がした。 その喪失感……。 まさか?
 そして、もし彼がぐらついていたら? 彼を支えずにいられるだろうか?
 もし彼から自分を求められたら? 明里には自分が判らなかった。
 これ以上考えてはいけない。

 とにかく、これ以上おかしなことを考える前に、と逃げるようにその場から自宅に帰って来た。雅和さん、夫と二人の新婚生活の場所へ。
 昼間なので、当然夫は居なかったけれど、夫と二人だけの場所に逃げ込むことで落ち着きたかった。玄関から廊下を通ってリビングへ、リビングから見えるベランダとその向こうの風景。そしてリビングのいくつかの小物。それぞれに雅和さんとの思い出がある物だった。
 ここは、自分と雅和さんとの場所。その見慣れた光景をひとつひとつ確認していくことで、明里の心は次第に落ち着きを取り戻していける様に感じた。
 それでも明里は戸惑っていた。
 貴樹への想いがまだ存在することも感じてしまったから。
 自分で好きになり、心を決めた人と結ばれて、日々の生活で十分に満ち足りていて、この生活以外には望みなど無い。そう考えているけれど。それでも、貴樹に対する想いがまだ捨て切れていない自分に戸惑いを感じた。
 けれども、さすがにもう会うことも無いはずだと思った。そうすれば、この生活にひたっていれば、この想いだってかすれていくに違いない、もう少し時間が必要だろうけれど、近い将来には、暖かなそして穏やかな思い出として昇華していくことができる、そう思った。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 僕は部屋に戻ると先ほどのことを思い出していた。
 あの踏切ですれ違った女性、あれは明里だったのだろうか? そのことを改めて考え、おそらく明里本人だった。根拠は無かったが、そう確信していた。
 つまりそれは奇跡だったのだろう。
 電車が通りかかる寸前、彼女は振り向いていた様だった。もしかしたら、彼女も僕に気が付いたのだろうか? もう十四年ほども会ってないというのに、あのすれ違いの刹那にお互いに気が付いてしまったのだろうか? そう考えると、僕と明里の間には特別なつながりがある様にも感じられた。
 けど、その特別なつながり、ということの意味はどんなことだろう?
 どんなに長い間離れていても、お互いへの想いを忘れない、永遠の恋人?
 そんなバカな。
 もちろん、それを望まない訳じゃない。けどそれはばかげてる。 特別、ということは間違いないと思う。けどそれは、お互いに自分以外の人間を受け入れた最初の存在。お互いにお互いの世界を開いた人。
 そういうことじゃないか? そして確かにそれは変わらないだろう。
 結果として、小学生の頃の仲の良い、そしてお互い初めての友達。 くらいだろうか。
 もし電車が通り過ぎた後、彼女がそこにいたら、僕は彼女とまともに話すことが出来ただろうか? 最後に会ったのは中学一年の終わりの頃、もう、十四年も前のことだった。
 当時はそれが最後になるなんて信じていなかったけれど、やはり、その後の二人の間の距離は大きく、結局、その後彼女、明里と会うことはなかった。
 もっと強引に、二人の関係を維持して成長させていくことは出来たのかもしれない。 けど、僕たちはその関係が壊れたときのことを考えてしまった。お互いが大事すぎて、お互いを傷つけたくなかった、お互いの心に深く食い込み、離れるときに引き裂くことを躊躇ってしまったからだ。 つまり、二人の間の距離に怯え、その影に負けたのだった。
 今思い返してみれば、大学進学で東京に出てきた時、あの時に連絡をしていれば、そうすれば、彼女と再会できたかもしれない。恋人としてお互いのとなりの位置を確保することもできたかもしれなかった。けれども、結局その時は彼女への想いは、僕の心と一緒に擦り切れてしまっていて、連絡することが出来なかった。
 そして、結局、僕と彼女の間には圧倒的な距離に続いて、絶望的な時間の断絶が生じてしまった。もう、お互いのとなりに戻る。それはないだろう。
 僕が知っている明里は十四年前の明里で、同じ様に、明里にとっても僕は十四年前の存在でしかない。二人が会えない間に過ぎ去った時間の大きさ、それは二人がお互い以外との関係、つまりお互い以外と過ごす時間を積み重ねた大きさだった。その時間の大きさを、その大きさの意味を考えない訳にはいかなかった。
 その時間を無為に過ごしたのでなければ、もはや、僕も彼女も同じ世界を共有することは無いだろう。そして、彼女がその時間を無為に過ごしたことは無いだろう。彼女の真の姿は僕なんかよりよっぽどしっかりしていて、強い子だ。そのことに彼女は気が付いたはずだ。まぁ、それを気が付かせたのが、僕との出会いだったので、僕達の関係はとても特別になった。そして、そんなきっかけになれた、ということは誇らしかった。だから彼女は僕と言う存在を忘れてることはないだろう。
 だが、小学生の頃と同じ関係を持つことを望み続けてることもないだろう。
 もう、これだけの長い間、十年以上も音沙汰もない関係にいつまでも縛られている様な子じゃない。そう信じられた
 その考えは、誇らしくはあったけど、それでも悲しかった。
 どうして、僕は明里の様に、彼女との関係を昇華させることが出来ないのか。
 理由は判ってる。僕が逃げたからだ。
 微かな、でも何の約束もない、想いも、はっきりとお互いを縛る言葉も使えない。そんな手紙のやり取りが破綻した時に、その関係をどうするのか、きっちりと向き合って精算するなり、維持するための努力をするなり。どちらにしろはっきりと答えを出すべきだった。
 けど僕は宙ぶらりんのままにして、悔いと、整理できない想いを残してしまった。
 だから僕は、その想いと向き合えずに、無かった振りをして、その為に僕の中でバランスが狂ってしまった。
 そして、凍りついた想いが残ってしまった。 叶うわけもないのに……。

 自分の目に涙が浮かぶのを感じた。けれども、仕方の無いことで、もはや取り返しがつくものでも無く、過ぎ去った思い出として昇華して行くより他に仕方が無い様に感じた。
 今さらこの想いに何を期待できる訳がない。 今度こそ向き合わなくては。

 そんな感傷にひたりながら、見るともなしにテーブルを見た時、今まで気が付かずにいたが、乱雑におかれた手紙の中に、高校の同窓会からの連絡が来てることが目に留まった。
 それは、母校の中種子島高校の六十周年記念式典に関して知らせるものだった。式典自体はまだ半年ほど先のようだったけれど、その知らせは僕の心を高校時代へと誘った。
 確か高校三年の時に五十周年の式典があった様な覚えがあった。もう、卒業して十年が経過しようとしてることに改めて気が付いた。
 高校時代、僕は弓道部に在籍し、毎朝練習をしていた。部員は他にもいたのだが、朝の練習では一人のことが多かった。そして、そろそろ朝練も終わり、という頃になると、澄田が練習場を通りかかるのだった。彼女は学校の部活では無く、朝は一人でサーフィンの練習をして、それから登校してくる、ということだった。そして、確か高校三年生の夏頃にスランプになって、うまくボードの上に立てない。立てるまで頑張る。そんなことを聞いた。
 目標を持ってがんばっている彼女を見ると、優しい気持ちになれた。なので、通りかかる彼女に気が付いた時は、おはようの挨拶はした。それ以上の言葉のやり取りだってあった。けど、少なくとも当時は澄田に対しての気持ちは、ただの友達だった。
 そう。色々なことを共有した友達だったが、それでもそれ以上の関係は望まなかった。
 そこから放課後までの時間は特に思い出に残る様なことは少なかった。ごく普通に授業を受け、クラスメートととりとめのない会話をし、ごく平均的な高校生活を過ごしていた。
 時折、クラスメートから澄田との関係をからかわれたけれど、真剣にはとりあわなかった。こういうことはむきになって否定すると反対に盛り上がってしまう、そんなことは小学生の頃に学んでいた。だから醒めたまま、極短く「そうか?」とか「違うよ」などと、答えていた。だから、噂は消えなかったけれど、そう大きく騒がれることもなかった。
 そして、放課後は再び部活で日が暮れるまで練習をし、日が暮れた頃に帰っていた。時折、そう、それは大体週に一度か二週に一度の割合だったと思うけど、僕は澄田と一緒に帰っていた。練習を終えて駐輪場に行くと、反対側から澄田が現れる時があったからだ。最初は偶然だな、と思ったが、すぐにそれが偶然などではないことに気がついた。彼女は放課後サーフィンをした後、わざわざ学校まで戻ってきて僕を待ち伏せていたのだと思う。
 そんな日は、僕は半ば苦笑しながらも、彼女に声をかけて一緒に帰った。そして、必ずの様に途中のコンビニに寄り道をした。そして、そこで買ったパックのコーヒー牛乳を飲みながら他愛も無い話をした。
 そんなことを繰り返していたので、確かに彼女、澄田が僕を好きなんだろうってことは、僕自身も気がついていたし、周りが気がつかない訳も無かった。そして僕がそんな行動をしていたんだから、思えば周囲の噂は当たり前だった。
 とにかく、僕としてはその関係を進展させたくはなかったけど、逆に関係が無くなるのもいやだった。僕にはその中途半端な関係がちょうど良かったから。
 でも、それが澄田にどの様な心の負担を強いていたのか、そのことに思いを至らせることはなかった。そして、彼女はまるで子犬が主人の足元にじゃれつくかの様に、僕の隣にすりよっていた。それだけでも、彼女は十分に楽しそうだったけど、でも、彼女は僕にもっと多くのことも望んでいたはずだ。
 そう。僕と明里のつながりが途切れたとき、その時も、澄田は僕のとなりにいた。何かと話しかけられて、言葉を交わしていた。だから、僕はあの時は外面だけは平静を保たざるを得なかった。
 僕は気が付かなかったけど、そうやって言葉を交わすことで僕は癒されていた。
 だからなのだろう。
 高校卒業までは、僕は耐えていた。 大学に入ってから、種子島を出てから、澄田がとなりにいなくなってからだ。 僕が壊れ始めたのは……。
 澄田に対する想いと明里に対する想い、それは違うものだとは思う。けど、それでも、彼女を憎からず考えていたのは本当だし、彼女に女性を感じたことが全く無かったのかと言えば、一応は健康な男子だったつもりだし、一度ならず感じたことはあっただろうと思う。
 まぁ、それでも、当時の僕は明里のことが一番で、それ以外は無いも同然で、当然そんなことには気が付いてなかったし、澄田との関係を進展させる気なんてまるでなかった。
 それはひどいことだったには違いなかった。せめて、僕のとなりで、僕と言葉を交わすことで彼女が喜んでいてくれたのなら、それが大事な思い出に出来ているなら、もしそうなら、全くおこがましいことではあるが、僕が彼女の思春期に花を添えることが出来たのだろうか?
 まぁ、それだけしか無いってのは、やはり僕が身勝手なことに変わりがないが。
 僕は澄田の言葉に、笑顔に救われていたんだ。 僕はそのことを感じていたんだろう。だから、澄田が僕から離れないようにしていた。だからと言って、より近付くことは避けた。曖昧な関係を継続した。そう。曖昧なら壊れないから。確かなものさえなければ、壊れることもない、ただ、その笑顔と言葉を僕のそばに留めたかった。
 つまり。結局僕は彼女の笑顔が好きだったんだ。
 あの笑顔に救われているうちに、あの笑顔を好きになっていたんじゃないだろうか。
 もしかしたら、好きになっていたのは笑顔だけじゃなかったかもしれない。 突然のその考えにはひどく動揺した。少し前までは思いも付かなかったけど、一度思い付いてみると、その考えを否定しきるのが難しかった。
 だが、それがどうしたと言うんだ?
 僕は、もう澄田との関係だって失ってる。
 しかも、明里との関係と違って、僕は思いっきり彼女を傷つけている。あれだけの好意を寄せられていて、その好意を受け止めながら何も返さず。
 彼女の告白を押しつぶして、彼女の想いを押しつぶしたのは僕じゃないか。
 彼女との関係を考える資格なんて全く無い。
 第一、種子島を出るときに振られたじゃないか。
 そう。言葉としては「好きだった」。つまり「好き」だけど過去形で、それは告白というより、さよならの言葉だった。その言葉を僕に告げることで、澄田は前を向いたんだろう。
 けど、僕はその言葉に何も返せなかった。 そして下を向いてしまった。
 全ては僕が積み重ねてきたことだ。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 海岸脇の駐車場に停めた車から降りると、砂浜へと降りる斜面の途中から海を見た。砂浜はさきほどから変わらずサーフィンを楽しむ人たちで賑わっていた。私自身も、ついさっきまではその中にいた。
 けど今日は調子が出なかった。 結局、ボードの上に立つことすら出来なかった。
 こんなことは高校以来かもしれない、 いやもっと酷い。とにかく体が重い感じがした。
 そして、ぼんやりと皆が波に乗る様子を見ていた。 必死に沖に出て、波とともに押し返されてくる。そう。結局どこに行くわけでもなく、何度やっても同じところに返ってくる。それはサーフィンとしては当たり前。けど、そんなことを自分に重ねてしまった。
 どこにも行けない。 元に戻ってしまう。
 私はどうすればいいんだろう。 どうしたいんだろう……。
 ふと見上げると、相変わらず空は青かった。

「新しい恋をすればいいだなんて、誰が言ったのよ」
 誰にでもなく、ぼそり、と文句を言ってみる。
「恋なんて……」
 その先は言葉にならなかった。 どうすれば恋ができるのか。どうすれば恋を忘れられるのか……。 けど、それが思い通りにならないからみんな辛いのだろうし、願いが叶ったときの喜びも大きいのだろう。
 私は改めて気が付いてしまった。 遠野くん。 まだ遠野くんが忘れられない。
 何度か恋をしたつもりだった。 けど、いつもすぐに醒めてしまった。
 というより、気が付いてしまった。 その人に、私は恋してない、と。
 そんな時は、ひときわ強く遠野くんを思い出してしまった。

 このままじゃいけない。それだけは判る気がした。
 何かを乗り越えないと、このままじゃいけない……。

「おーい。 すみだー」
 サーフィン仲間がこっちに向かって歩いてきた。 私が早々に切り上げてしまったのが不満なのかもしれない。 この人は、割と分かり易い感じでモーションをかけてきていた。それはちょっとくすぐったい感じはあったし、気持ちが全く動かない訳でもなかった。
「今日は、調子悪かったみたいだな」
 けど、彼には申し訳ないけど、恋の予感は感じてなかった。 そして思った。
 彼は遠野くんより色が黒いな、と。
「うん。 もうさんざん」
 そして会話しながらも、思うのは遠野くんのことだった。
 なんて言うんだろう、色白だった訳じゃない。中学の時などは、サッカー部で炎天下を走り回っていたし、ひ弱だった訳でもない。そう、色が無い。白じゃない、透明な感じ。
 あの感じは今でも変わらないのだろうか?
「もう、帰るのか?」
「そうね……。 今日はもう引き上げるわ」
 会いたいな。 遠野くんに会いたいな。 ふと、自然にそう思った。
「そっか。 じゃぁ、また明日な」

 そう言う彼に手を振りながら、また明日。そう言おうとした。 いえ、言うつもりだった。
 けれど、気が付くと、私が口にしたのはまったく別の言葉だった。

「ううん。私、しばらく来ない。 ちょっと東京に行って来るから」

 彼が「え?」と、かなり驚いた感じでこちらを振り返っていたけれど、その瞬間には私自身の方が驚いていたと思う。
 けど、言ってしまうと、その自分の言葉を改めて飲み込んでみると、それが至極当然のことに思えてきた。

 そうだ。会えばいいんだ。 どうしたいか判らないんだったら、会ってみよう。
 前に進んでみればいいんだ。
 そうすれば答えが出る。 望んだ形になるとは期待しちゃいけない。
 けど、まずは形にしなきゃ。

 そう決心が付くと、自然と笑顔になった。
「じゃ、またね」
 笑顔でそう言うと、あっけにとられてる彼をそのままにして、車に飛び乗った。 一週間分くらいの荷造りに、飛行機の予約。そして、宿の予約。
 やらないといけないことがたくさんあった。 遠野くんには最後通告を突きつけられるかもしれない、いえ、それどころか私のことなどすっかり忘れているかもしれない。
 けど、それでもいい。
 私の想いに答えが出る。いえ、出す。 そう決めた。
 この十年の間、その勇気が出せずに居たけれど、今日は突然その気になった。
 あ、そうだ。 勤め先には休暇のお願いをしておかないと。
 とにかく、遠野くんに会いに行く。
 そう決めた途端、体が軽くなり、視界が開けた様な気がした。





振り返る苦悩
    先頭

 貴樹とすれ違ったあの日から、明里は自分の心に戸惑い生まれていることがわかった。夫と話していても、心がどこか遠くに行ってしまって上の空になることが多くなってしまった。
 自分の初恋が、貴樹への想いが未だに昇華しきれずに心の片隅でくすぶっていることが分かった。貴樹が特別な存在。それは変わらない、彼を愛してるか? そう言うと、愛もあるように思えた。恋愛のように激しい想いではないつもりだけど。
 そう、もっと穏やかで、暖かな……。 家族への愛の様な気持ち、みたいなもの。
 でも本当だろうか? もし貴樹に出会ってしまったら。面と向かってしまったら?
 その時も、自分は同じことを言えるだろうか?
 そんな疑問を感じてしまう自分が情けなく、その疑問に答えられない自分が怖かった。

 けれども、明里は考え始めてしまった。
 高校生の頃、貴樹との関係を諦めたこと、あれは正しかったのだろうか?
 あの時、貴樹からの手紙は嬉しかった。どんな所なのか、貴樹が何をしているのか、日々の様子を読むのは嬉しかった。彼のいる世界を感じたかったから。でも、その彼の暮らす世界を感じれば感じるほど、その世界には自分の居場所が無いように思えた。貴樹はその世界で十分楽しく過ごしている。その世界から自分と同じ世界に、再び別の世界に戻ることを望んでくれるのだろうか? そうでないのなら、彼が生きていくのに必要の無い自分とのつながりなど無用のものではないか? そのつながりがあることで貴樹を無用に縛り付けて、彼の望みを邪魔してしまうことを恐れた。
 一度そう考えてしまうと、貴樹からの手紙の内容の意味は一変した。日々の生活のことを明るく書いているのは、それだけで十分に満足しているから、自分との関係に関することが書かれていないのは、それが必要はないことだから。
 そう考えてしまうと、貴樹からの手紙は苦痛になった。彼とのつながりはもう諦めなくてはいけないのではないか? そのつながりを維持しても、自分達にはもうそれ以上何ももたらさないのではないか? そして、そのつながりを無理に維持していると、将来、どちらか、もしくは双方が大きく傷つくことになるのではないか……。
 当時はそんな風に考えてしまった。
 だから、貴樹への手紙を書くことを止めた。それはとてもつらい決断だったけど、それが自分のため、そして何より貴樹のためだと考えたから。
 自分が手紙を書くことを止めて、一度は手紙が来たけれど、その手紙は読むのはつらかったので読まなかったし、当然返事も書かなかった。
 とにかく、その時の自分の世界の中で、その周囲を大切に生きていこう。それを貴樹も望んでいるはず。そう考えた。
 それが大切なことで、間違いなどはない、そう考えた。
 確かに、間違いはなかったと思う。

 けど、今にして思えば、それが望みだったのだろうか?
 一番の望みを無理に捨てた結果の選択ではなかったのだろうか?

 そして何より、自分は貴樹の望みを確かめた訳ではなかった。
 ただ、そう考えただけだった。
 もし、貴樹の望みが自分が考えたものとは違っていたら? もし、貴樹の望みは、あの雪の夜から変わってなどいなかったとしたら?
 二人が会った最後の日、あの雪の夜、お互いへの想いは確かなものだった。

 もし、自分の決断が間違いで、彼は自分からの手紙を望んでいたとしたら。 自分とのつながりを望み続けていたとしたら。
 自分がその望みを一方的に断ち切ってしまったのだとしたら……。

 まさか。 そうは思うけれど、その望みがずっと彼の中にあったのだとしたら? 貴樹とのつながりを諦めて、何とか自分の周囲だけを見つめて暮らしてきた自分でさえ、彼に対する想いというのは消えていない。そして、自分が生きている限り、この想いがなくなることは無いだろうとさえ思う。
 その想いを思い出として、自分の一部として、生きてきた。 これからも、そうすることは出来ると思う。
 ただ、それでも。
 もし、貴樹に自分を望まれたら……。
 もしそうなったら、自分はその想いに抗えないかもしれない。

 貴樹の望みはなんだろう? そして自分の望みは何なのだろう?
 考えてはいけない、そう思うことが頭から離れなかった。

 ふと、夫に相談してみようか? そう考えた。
 けど、なんて言う? 昔好きだった男性が忘れられません。 その男性はとても特別な存在なんです。 どうしたって完全に忘れることなんて出来ません。 そして、もしあちらの男性にその気があったなら、自分はその男性と共に生きて行きたいのです?
 馬鹿な。
 でも嘘じゃない。 けどそれは一方の見方。もう一方から見れば。
 初恋の男性への記憶が忘れられない。 忘れることは出来ないけれど、恋に落ちたままという訳じゃない。 その男性と共有した時間は過去のもの。 既に思い出。 夫を好き、積み重ねた時間と想いも確かなもの。 夫との生活を大事にしたい。
 それも本当。

 このままでは宙ぶらりんになってしまう。
 とすれば、やっぱり夫にすがろう。だって、間違いなくそれだって本当なんだから。きっと自分を包んでくれる。 落ち着いて考える時間を作ってもらえる。 そう。 何も言ってくれなくてもいい。 ただ、微笑みながら自分の話を聞いてくれればいい。
 そして、全てを話し終わったとき、そこから生まれる答えを大事にすればいい。
 その時、きっと雅和さんは笑顔を向けてくれる。 そんな雅和さんが好き。
 だから大丈夫。

 明里はそう思った。
 そう考えることが出来ると、夫、雅和さんの帰りが待ち遠しかった。

 とにかく、そう考えがまとまるだけで、かなり落ち着くことが出来た。ので、その日のそれからは、いつもの自分に戻れたと思う。
 いつも通りに家事をこなしながら、夫の帰りを待った。 結局、夫は普段どおりの時間に帰ってきた。
「おかえりなさい」
 明里が、普段どおりにキッチンから声をかけると、普段どおりの返事が返ってきた。
「ただいま」
 けど、それだけじゃなかった。
「最近ちょっと元気なかったけど、今日はいつもどおりだね?」
 やはり夫には気が付かれていたんだ。そう思い、その言葉に暖かな満足を感じた。
「そうね。 ちょっと色々とね。 でも、抱え込んでるだけじゃだめかなって。 だから、あなたにぶつけてしまおうかな、と思ったの。 そうしたら、すごく楽になったわ」
「え? なんだか怖いなあ。 でもなんだい? 言ってみてよ」
 夫の表情は穏やかだった。 自分を信じ、受け止めてくれている。それが嬉しかった。
「まぁ焦らないで? まずは食事にしましょ、せっかく作ったのがさめちゃうわ」
 だから、明里も焦らなかった。まずは食事を。そう言い、食事の支度を進めた。雅和さんはその様子を苦笑しながら眺めていたけれど「そうだな。 お腹すいたよ」そう言いながら、着替えに行った。

 食事の間は、貴樹の話はしなかった。振りは軽い感じでしたけれど、そんなに軽いことじゃなかったから。だから他愛も無い会話に終始した。夫の会社でのちょっとした笑い話や、その内ベランダに揃えたいと思っている花のこと。そんな花が近くのスーパーで安く売ってから買ってもいいか、など。本当になんでもない、上辺をなでるだけのような会話。けど、言葉の所々に、お互いに探るような部分もあった、と明里は思った。
 そんな食事が終わると、明里はキッチンで洗い物を、雅和さんはテレビを点け、いつものニュース番組にチャンネルを合わせた。けど、そのニュース番組を見る訳でもなく、テレビの前で新聞を眺めていた。そして、やはり先ほどの明里の言葉が気になっているのか、少し落ち着きが無い感じで、ちらちらと明里の方を見ている様だった。
 当たり前だけど、一度振ってしまった以上、どうしても気になるらしい。
 なので、明里は洗い物を手早く済ませると、リビングに戻り雅和の脇に座った。
 ただ、少し距離を開けてしまったのが何故なのか、それが自分でも説明できなかった。

「ねぇ、あなた……」
 それでも、とにかく貴樹のことを話さなければいけない、それは変わらなかった。

「なんだい?」
 雅和の反応はゆったりと落ち着いていたが、どうしても身構える雰囲気は感じられた。これから自分が言葉にしなければいけない内容を思えば、それは当然だった。
「あのね……。 私が抱え込んでしまった話はね……。 私の初恋のことなの」
 雅和の表情が一瞬緊張したけれど、すぐに穏やかな、より優しい表情になった。
「そうか……。 それ、僕が聞いてもいいのかい?」
「ええ、ぜひ聞いてほしい。 もう、私だけでは抱えきれない気がしているの……」
 そう。初恋、と言えば、この年では普通は過去のこと。 けど、それが完全に過去にできていないから抱え切れなくなっている。今頃になって初恋を抱えきれない、いえ抑え切れないのだろうか? そんな……。
 それを打ち明けることで、何か答えが見えるのだろうか?
「話してごらん?」
 雅和のそんな言葉は、無理に催促するわけではなく、でも全てを受け止めたい、そんな覚悟を感じさせる雰囲気が漂っていた。
 それにしても、答えを見つける? 何を今になって探そうというのか? 答えは初めから決まっているはずではないか? とにかく、この状態から抜け出したかった。
「えっと、どこから話したらいいのかしら。 そうね……。 じゃ、まずは本当に最初からね。私は最初、小学生の低学年の頃、引っ込み思案で、気も弱くて、お友達を作ることも出来なくて、それに転校が多かったこともあって、誰とも打ち解けることが出来なかったの。 でもね、小学校四年生の時に、この辺りに引越してきた時に出会った男の子のおかげで変われたの」
 雅和の視線は真っ直ぐに明里を見つめていた。 相変わらずその視線は優しかった。
「あの時は不思議だったわ。 誰か他人と一緒に過ごすことが楽しいと思うなんて、でも、とにかくその男の子と出会ったことで私は、私の世界は大きく変わったの。 私は一人じゃないんだ。 そう思えるように、信じることが出来たのは、彼のおかげ。 そういう意味では本当に特別な存在で、それは一生変わらない」
 それも本当。
「でも、とにかく、その時は自分以外の誰か、というのは彼のことで、とにかく彼とすごす毎日が楽しくて、嬉しくて、とにかくね」
 そして、小学生の様な年でそんな存在と一緒に居て恋しない訳が無い。
「大好きだったわ。 彼のことが」
「そして、彼は私を守ってもくれた。 判るでしょ? 小学生くらいのときに、あまりに二人だけで仲の良い男女がいたらどうなるか。 当然のようにかわかわれたわ。 そのからかいに、私一人では到底耐えられなかった。 けど、彼は逃げずに私に手を差し伸べてくれた。彼と一緒にいれば何も迷う必要は無い。 そう信じられたわ」
 そう言いながらも、自分は雅和をまっすぐに見ることが出来た。ならば、きっと大丈夫。
「とにかく、彼、遠野貴樹くんって言うんだけどね。 彼に手を引かれて、やっと私は自分の周囲を見ることが出来るようになったわ。 だから、恐る恐るだけど彼以外の人とも友達になったわ。 もちろん同姓の女の子がほとんどだったけど、それまでは、女の子同士の輪にも入っていけなかった私が、本当に世界が変わったのよ。 そして、やっぱり、そんな風に私を変えてくれた彼はとても特別。 彼を完全に忘れることは無理……」
 何だか、やっぱり話しているだけで、思い出に飲み込まれそうだった。自分の想いが如何に本気だったか、如何に大きな存在か、そのことを改めて感じてしまった。
「そうか……。 すごく大事な人なんだね? ちょっと嫉妬しちゃうけど、でも、その人のおかげで、明里が今の明里になったんだとしたら、そのおかげで、僕と明里が出会うことが出来たんだとしたら、僕はその遠野くんに感謝しないとな」

 雅和さんのその言葉は、落ち着いていて、明里と雅和の関係はそんなことでは揺るがないんだ、そう言ってくれている様に思えた。 なので、少し余裕を取り戻した明里は、その言葉に微笑を返しながら、言葉を続けることが出来た。
「でも、いつまでも一緒にいられるか分からない。 だから私と貴樹くんは、一緒にいるための努力をしたの。僅かだったけどね? 何かって言えば、貴樹くんと二人で私立中学を受験したの。そうすれば、中学の間は一緒に、その中学で一緒に頑張れば高校も。 そうやって、少しずつ時間を継ぎ足していけば、ずっといつまでも、そう考えたわ。 けどね、ダメだった。 どちらかが落ちた訳じゃないのよ? 私たちは二人ともきちんと合格したわ。 でもね、小学校卒業と同時に私が岩舟に引越すことになったの」

 今、思い出しても身が切られる様な思いがする。 母親から引越しを告げられた時のことを、そして、それを貴樹に告げた時の夜の公衆電話の冷たさを、そして電話口の向こうで絶句し、心を閉じようとしている彼の生々しい絶望を、今になって改めて感じた様な気がした。
 判っていた。貴樹が実は強くなんかないんだって。
「けど、私たちは簡単には諦めなかった。 手紙を交わすことで、私たちはお互いをつなぎとめたわ。そして、岩舟とここ新宿くらいなら、それで耐えられたかもしれない。 だけど、私が引越した一年後、今度は彼が引越してしまった。 それも種子島に。 それでも、何年かは手紙を交わしたわ。 望みもつないだ。 けど、私が耐えられなくなってしまったの。 私が変なことを思いついてしまった。私が居ない世界で十分に元気で生きている彼に、私など必要ない。一度、そんなことを思いついてしまうと、彼からの手紙の意味が一変したわ? だって、明るく楽しく暮らしてます。としか書かれてないんだから。まぁ、私の手紙を同じだったんだけどね。 私も、彼も、すごく生真面目なのよ。だからね、何の保証も無しには気持ちを伝えられなかったの。もし、それで相手を縛ってしまったらいけない。ってね。 馬鹿よね。初めっから気持ちはあったのに、あったからこそ、つながりを期待してたのに。そんなことはお互いに知ってたのにね? でも、どちらもそれを言葉にすることは出来なかった。 そして、言葉に出来なければ、伝わらなかった。だから、あとは磨り減っていくしかなかった……。  それでも、とうとう手紙のやり取りが途切れたとき、いえ、私から手紙を書くのを止めたの。自分から止めたの。それでも涙が止まらなかった。好きだった。たったそれだけのことが書けない為に、終わらせてしまった。 私の気持ちは変わってなどいなかったのに、強引に、無理矢理終わらせたの。だから、もしかしたら消えてないかもしれない。私の中の想いはきちんと昇華できて無いかもしれない。それがずっと怖かった」

 雅和は言葉を失ったかの様に、黙って明里を見つめていた。けど、その瞳は相変わらず穏やかで、その目を見つめ返すことで、安心することが出来るようにも感じた。
「それは……。 けど、彼との文通を止めよう、というのはどうしてだったんだい? きみの気持ちが変わってなかったんだとしたら、どうして止めようなんて……。 彼から何か言われたのかい?」
「ううん。 彼からは何も言われてない。 私が勝手に思いついて、自分ひとりで罠にはまってしまったのかもしれない。 そして、彼には確認できなかった。 でも、そうね。きっと確認しても、彼は素直には答えてくれなかったでしょうね。きっと自分の気持ちを押し殺して、私を縛らないように、そんな返事をしたんじゃないかな。 どちらにとっても、相手を傷つけることは許されないことだったから。 きっと、直接会えば、あっという間に判ったことだと思う。お互いの目を見れば、その目の奥にあることは私たちには丸見えだったから。でも、直接会うことは出来なかったわ。 そんなことが出来るなら、初めから……」
「つらい思いをしたんだね……。 僕はそのつらさをそのまま理解できるわけじゃないかもしれない、僕がそのつらさを少しでも取り除ければいいんだけど。 でも……。 その、なんていうのか……」
 雅和が珍しく言いよどんだ。それはきっと、誰もが当然感じる疑問を口にしようとしたんだろう。でも、それを今の自分に訊くのがつらいんだろう。
「けど、そんなのは、もう何年も前の話なのよね。そう。何も無ければ、そうだったのかもしれない。  けど、出会ってしまったの。貴樹くんに出会ってしまったの……。 そして、それが貴樹くんだ、と確信した瞬間に、怖くなったの。 今は、抑えられてる。 けど、もしもう一度会ったりしたら、いえ、彼に何か言われたりしたら、もし……。  判らない。自分が何を考えてるのか、何を感じてるのか判らなくなってしまったの」
 雅和は当惑している感じはあった。けど、不思議なくらいにその視線は揺るがなかった。
「これだけは言っておくよ。 僕はきみが好きだ。 きみがどんな想いを抱え込んでいるのか、それを正確には判らないかもしれない。 けど、自信を持っていえる。 きみがどんなことを思い、感じて、その結果どんな結論を導いても、僕は君を好きだよ」
 まっすぐに明里を見つめ、柔らかな笑顔で、雅和はそう言い切った。
 その言葉は、明里の抱える問題には直接の関係が無いように思えた。 けど、それでも、明里は笑顔になれたし、笑顔になれるなら、雅和との関係を疑うことはしなくていい。少なくともそこには確かな想いがある。
 そう信じることが出来た。
「もう。 急に何を言うのよ……」
 たったそれだけでも、明里には大きな安らぎになった。この人と出会えたことは、すごく幸せなこと。それだけで、私の人生には意味があった。そう思えるほどのことだった。
 貴樹への想いがそこにあるのは変わらなかった。 それでも、さきほどまでに比べると、気持ちが楽になっている気がした。自分が揺れていることを告げたのに、そんなことを、こともあろうか夫に告げたのに、告げることが出来た自分に少しだけ自信を持てた様に思えた。
「えぇ。 もちろん、私もあながた好き。 それは確かよ。 でも、貴樹くんも好きだった。その気持ちがどうなっているのか自信がないの。 単なる幼い頃の切ない思い出の様にも思えるし、けど、今にもあふれそうな気もするの……。  もう少し。 もう少し時間が経っていてくれたら……。 判らない……。 それが不安だし、怖いの」
 つい先ほど浮かべた笑顔はあっと言う間に凍り付いてしまった。自分はなんて不安定なんだろう……。自分で自分が判らなかった。
 それでも、雅和は揺らぐことはなかった。
「こんな時に、卑怯かな……。 でも、いいかな」
 雅和はそう言うと明里に寄り添い、そっと抱き寄せてくれた。明里は思わずその胸にすがりついていた。雅和の鼓動を感じ、その温もりを感じることで、自分の気持ちが穏やかに安らいでいくことを感じた。 それは確かに一つの答えだった。
「ううん。 嬉しいわ」
 これだけのことを告げても、自分をまっすぐに見つめて支えてくれる。雅和と寄り添っていけば最高の幸せを手に入れられる。確かにそう感じることが出来た。 ただ、それでも自分が幸せ以外のものを望んでしまうかもしれない。
 その恐れを、まだ捨て切れなかった。
 自分の中には、まだ幼い日の想いが、衝動が息づいているのだろうか?
 自分はその衝動を押さえることが出来るのだろうか? 押さえるべき、それは判っていた、どう考えても、それが正しいこと。 けど、時として衝動は正しいことを乗り越えてしまうことがある。それは自分でもよく知っていた。
 そう。中学一年生だったあの雪の夜、正しさを乗り越えるなんて簡単だった。





自分の中にあるもの
    先頭

 先日、明里とすれ違ってから、それをきっかけにして、何故か僕は高校時代のことを思い出していた。そして、さまざまなことに思いをめぐらせていた。
 当然、明里のことがあった。だが、明里とのことは今となっては切ない思い出として、どうしようも無く、なすべきことも無いと思えた。彼女のことを考えると、胸の中の奥深くで何かが疼く感じはあった。だが、高校時代に感じたような狂おしいほどの想いでは無く、じわりとした、切なさと暖かな感傷を伴う、遠い日の良い思い出の様にも感じられた。
 僕の初恋は明里だった。それは明らかだったけれど、もう終わっているのだろう。
 いつ終わりにしたのか、もしかすると、まだ明確な終わりは迎えていないかもしれなかったけれど、いずれ終わりが、終わっていることが明確になる、今はその余韻の期間。その様に感じていた。確かに、僕たちは両想いの恋人だった。そんな瞬間はあったと思う。
 けど、それももう過ぎ去ったことになってしまった。
 そして、明里と一緒に過ごした日々。あの小学生の頃のこと。それは正に特別で、それは恋愛とは少し違うかもしれないけど、僕の中に明里が、明里と一緒に作り上げた自分が居ること、今の僕は明里と出会ったことで生まれた。それも確かだと感じた。
 それにしても、どうもあの日から考えがそちらに行ってしまう。 退職して、フリーのプログラマとして働き始めて僕は立ち直った。前を向いて歩き始めた。そう考えていたけど、まだまだ、僕の中には逃れられない過去がうず高く積み上がっているようだ。
 また堂々巡りだ。
 思わず、一人で苦笑いをしてしまった。
 しかし、それでも今の僕にはそんな余韻に浸っている時間はない。かつて勤めていた会社から請け負った仕事の納期が目前に控えていた。
 先日は、その仕事で少々行き詰ってどうしようか悩んでいる時に、ふと舞い込んだ桜の花に誘われて、気晴らしに近くの散歩をした。おかげで、明里と出会うことになった。それは貴重なことだが、今の僕にとっては、心を乱すばかりのことでもあった。
 それにしても、小学生の頃の、遠い思い出の中の女の子を思い出して胸を痛めたり、高校生の頃の恋人にもならなかった、いや、それどころか、恋人になるのを自分から拒絶した女性を思い出して悩んでいるのに、大学生以降、はっきりと恋人になった女性たちのことを思い出さないのは何故なんだろう?
 想いの深さ、真剣さが違ったってことなのだろうか?
 いや、そんなことじゃないんだろう。 つまり、明里と澄田のことは、きちんと出来なかった。つまり、きちんと始めたり、終わらせることが出来なかった。だから、中途半端な形で僕の中で彼女たちを想う気持ちが燻り続けているんだろう。
 はっきりと恋人なった女性たちとは、はっきりと終わってる。まぁ、終わってしまった理由を考えると、後悔の思いはあるけど、燻っている想いは感じられなかった。

 このままでは、今日も仕事が出来ないかもしれない。
 ならばいっそ散歩でもしようか。 この辺りは、考えてみれば思い出の宝庫だ。ちょっと足を伸ばせば明里との思い出のかけらに山ほど出会える。 そんな風に、一度浸りきってみれば何かが見えてくるかもしれない。
 当ても無くそう思うと、マンションから出て、まずは小学校に向かった。
 そう。明里と出会った場所。 この小学校の教室で出会い、図書室で初めて声をかけた。
 そして僕たちはかけがえの無い友達になり、この街の中で一緒に遊んだ。
 当時の自分たちを追いかける様に、学校から歩道橋を渡り、参宮橋の公園に向かった。桜はまだきれいに咲いている。大した遊具もなく、見晴らしもよかったこの公園ではあまり遊ばなかった。もっと密やかな場所で遊ぶことを好んだから。道をさらに進み、参宮橋の駅をかすめて神社に向かう。途中、踏切が見えるとつい見てしまったが、今日は誰も見えなかった。
 そう、神社。今では名前も知っている。代々木八幡神社へと続く、細い曲がりくねった道は当時とほとんど変わらない。
 あの当時と重なる光景を見ていると、僕の前を歩く明里のお下げが目に浮かぶようだ。
 そう。僕と並んで歩いていたと思ったら、突然走り出したりする彼女。そうやって、走っていく彼女の背中を何度見たことだろう。でも、曲がり角の手前か、そのすぐ向こうか、それはその時の気分次第だったろうけど、曲がり角の辺りで僕を待っていた。もちろん、僕ものんびりと歩き続けたりなんかしない、すぐに彼女の後を追いかけて走り出していた。
 でも、明里はあれで走るのが結構速かった。もしかして、僕の方が遅いのか、そう思ったりもしたけど、中学でサッカー部に入って判ったけど、僕だって、そんなに走るのが遅い訳じゃなかった。つまり、やっぱり彼女は走るのが速かったのだ。 出足で遅れると、追いつくのは難しかった。そして、大抵は彼女が先に走り出すから、いつも僕は追いかけていた。彼女の背中を見るのは慣れっこだった。
 けど、不安は無かった。
 だって、彼女はいつも僕を待ってくれていたから。僕が必死に走って追いつくのを、彼女はいつも待ってくれていた。飛び切りの笑顔で。それがずっと続くと思ってた。
 だが、それは根拠の無いことだった。
 曲がり角の向こうに明里が待っていてくれるんじゃないか。あの笑顔を僕に向け「神社まで競争よ」なんて言って、また走り出すんじゃないか? そうすれば、僕だって「待ってよ」なんて言いながら、でも笑顔で彼女を追いかけることが出来る。
 馬鹿な妄想だと判っていた。 でも、願いに嘘はなかった。
 そんなことを考えながら、ぼんやりとしたまま歩いていると、ふいに誰かに追いつかれた様な気がした。同時に「ね。遠野くん」そう呼ばれた気がした。おかしいな。明里は僕のことを遠野くんとは呼ばないはずだ。だが、振り返っても、当然の様に誰もいなかった。
 今のは何だろう? 明里のイメージには重ならない。
 不思議なこともあるものだ。この付近には明里以外との思い出なんかないのに。

 僕としてはゆっくり歩いているつもりだったが、神社まではあっという間だ。 やはり小学生の頃とは歩く速度が基本的に違うのだろうか? それでも、神社は相変わらずだった。生い茂る木々、少し薄暗く、静かで周囲の町の喧騒とは切り離された空間。
 その僕たちだけの世界で、僕と明里ははしゃぎまわっていた。神社の参道を走り、木々の間を抜け、大して広くない神社の境内をぐるぐると走った。夏の暑い日でも、生い茂った木が色濃い日影を作り出してくれたので、僕らは声を上げて走り回ってた。
 不意に明里の走る音が消え、僕が微かな不安を感じ、周囲を見回しながらゆっくりと歩いていると、鳥居の影から、明里が飛びついてくる。「探してた?」なんて言いながら。
 僕は突然のことに動揺を隠すことも出来ず、そのまま「うん」なんて白状させられ、それを聞いた明里が「ふふふ」なんて嬉しそうに笑う。 その笑顔を見て、僕はたちまち安心していたんだ。 やっぱり彼女はどこにも行ってなかった。そう思い直して。
 でも、もうこの神社に来ても彼女はいない。彼女と一緒に毎日の様に様子を窺っていた、あのネコもさすがにもういない様だ。そう思うと、懐かしい神社もどこか寂しく感じた。
 だが、時間も場所も越えて、神社はどこでも似たような雰囲気だ。そうだ、種子島で住んでた家の近くにも当然の様に神社があった。そしてその神社にもよく行った覚えがある。そう言えば、その神社で澄田に出会ったことがあったことを思い出した。
「遠野くん、神社が好きなの?」
 澄田と初めて神社で出会った時、そんなことを訊いてきてた様な覚えがある。その時、僕はなんと答えたんだろう? 覚えてない。
 だが、きっと「あぁ」とか「まぁね」とか、そんな気の無い返事をしたんだと思う。
 そして、そんな風に神社で出会って、結局は一緒に家まで歩いた様な覚えがある。そう言えば、あの頃、誰かと歩いていたとしても、自分以外のことなど考えていなかった。だから、澄田と歩いている、と言っても、僕は自分の速度ですたすたと歩いて、その後ろを澄田が付いてくる。そして、時として遅れた澄田が小走りに追いついてくる。そんな感じだったと思う。そうそう。「ね。遠野くん。待ってよ」なんて言われながら。
 あ。
 さっき感じた声、改めて考えると、澄田の印象に重なる……。
 なんで、ここで澄田のことを思い出すんだろう。この街には澄田との思い出なんか一つもないのに。強いて言えば神社という共通点があるかもしれないが、それだって、神社、それもこの代々木八幡神社と言えば、明里なのに。明里との思い出しかないのに。
 それが、なぜだ?
 何かが僕の中で引っ掛かってる。
 全く、まるでダメだ。散歩でもすれば気が晴れて仕事に集中できるようになるかと期待したけれど、明里への思いを振り切るどころか、訳が分からないことに、澄田への邪念が後から後から噴出して、仕事に集中するどころじゃなかった。
 まだ、あの仕事にはまだ未解決の問題が残ってる。何とかしないと、この仕事を回してくれた奴に、岡田にまで迷惑がかかってしまう。

 それにしても、と空を見上げて考えてみる。
 明里は今、どうしているんだろうか? その想像をすると、不思議と、明里は笑顔でいるんじゃないか、そんなことを感じた。どうしてだろう?
 明里との文通は、つながりは途中で途切れてしまった。そしてそれは、僕にとっては耐えがたい苦痛にだった。少なくとも当時の明里にとってもきっとそうだっただろう、そう思えた。確信はないけど、でも、明里がつながりを絶とうと、諦めよう、そう考えたことは、僕にも、明里にも苦痛だったに違いない。そう感じられた。
 それでも、いやだからこそ、明里はその苦痛を乗り越えて前に進んだんじゃないか。
 きっと辛かったはず。 でも、彼女ならきっと乗り越えたに違いない。だから、今はもう、きっと笑顔で暮らしてる。最初の頃は僕がその為の力の一部を支えていたかもしれない。けど、それはもう、彼女自身の力になっているだろう。
 その考えは、誇らしくもあり、そして切なくもあった。
 つまり、僕と明里の二人は、そのつながりから得たことがあった。それはとても大切で、かけがえのないものだけど。 だが、そのつながり自体は既に過去のものとなってしまった様に考えられた。 ただそれは、冷静に考えていけば、そう考えられる、ということであって、それを完全に納得してしてる、という訳じゃなかった。
 もう、無理に違いない、理性でそう考えることは出来たけど、そう考える時に痛みを感じるのも確かで、終わりを認めたくない、終わりにしたくない、その願いがくすぶっていることも十分に感じていた。
 だから、もう明里とのことは考えても仕方が無い。そう、考えながらも、心の中から閉め出すことは不可能で、ふと思い付くと、くよくよと思い悩んでいた。
 そして、先日のすれ違いがあった為に、よりそう感じてしまうのだろう。以前は、もう明里との接点なんて存在しない。会うことも不可能。そう考えていたのだろうけど、今は、もしかしたら近くにいるんじゃないか? 探せば会えるのでは?
 そんな希望を感じてしまっていた。
 だから、彼女への想い残っていることは、以前よりも強く意識していた。
 全く、時間は過ぎ行くばかりなのに、何を今更、にも変わりはないのだけど……。

 で、その上、どうして澄田のことがこんなに引っ掛かるのか?
 明里との関係を思い悩んでるんじゃないのか? どうして澄田のことを?
 少なくとも実際に彼女と交流のあった当時、彼女のことは、さして気になる存在ではなかった。だが、彼女にとっての自分がそうではなかったことは知っていた。そして、それを知りながら、知ってなお、そのことを利用して、彼女から元気をもらっていたのではないか?
 彼女には随分と助けられた。今、改めて考えると、そのことがよく判る。だが、僕は彼女に何をすることが出来たのだろう? 確かに一緒に過ごす時間はあったかもしれない。だが、それで彼女は満足だったのだろうか。彼女はもっと多くのことを望んでいた。そして、その望みに向けてまっすぐだったと思う。ある意味わかり易くて、時として、そっとしておいて欲しい、そんな風に考えたこともある。
 けど、一日のうちに、一度も澄田を見かけなかったりすると、妙に気になっていた。
 僕のとなりに澄田がいることが、そのくらいに当たり前になっていた。
 なのに、僕は彼女の想いを、願いを知りながら、曖昧にはぐらかし、挙句の果てには、彼女が思いっ切りの勇気を振り絞って、真っ直ぐにぶつかってこようとしたのを押しつぶしてしまった。その真っ直ぐさが羨ましかった。そして、妬ましく、怖かった。
 どうしてなら、それは僕にはないものだったから。
 僕は、その真っ直ぐさは失ってしまっていた。たった一度、明里に対して発揮できたけど。それが最初で最後だった。
 そうして、澄田と過ごすのが当たり前になっていながら、彼女の想いを知りながら、その想いに応えるどころか、押しつぶし、知らない振りをし続けた。
 そして、とうとう最後に告白されたとき、それは既に決別のための覚悟の言葉だった。
 それでも、何故かその後で澄田が笑顔になれた。そうは思えなかった。あの言葉で、澄田は前を向いたはずだ。けど、何故か、その実感が無かった。単に澄田のことをよく判ってない、僕の都合いい様に考えようとしているだけじゃないか?
 どうしてって、あの時の、あの空港での澄田の笑顔は笑ってなかったから。そう。今でも彼女の笑顔は鮮明に思い出せる。彼女は本当に嬉しそうに笑う。それなのに、あの時の笑顔は違った。涙を浮かべ、僕を送り出そうと、ひどく無理をして笑顔を作っていた。
 そのせいで、澄田のことがずっと引っ掛かっているのかもしれない。彼女は本当に僕を振り切れたのだろうか? 本当に、それで前を向けたのだろうか? 僕が言うのもなんなのだけど、彼女の僕への気持ちはかなり大きかった様だ。なのに始めることも出来なかった関係だから、それを彼女の中で終わらせることは、とても難しいと思う。
 それは、僕の明里に対する想いと比べてみても、よく分かる。
 澄田は本当に立ち直ったのだろうか? 前を向けたのだろうか?
 新しい恋を始めることが出来たのだろうか?
 だが、その考えに、何故か僕は動揺した。 澄田が新しい恋をすることに、どうして僕が動揺しなければいけないのか? 今さらだし、そもそも僕に彼女の恋をどうこう言う権利も資格などかけらもない。それでも、彼女の笑顔が、僕以外の誰かに向けられている。そう想像することはとても辛かった。全く、今さらだ。 澄田の笑顔が欲しい?
 馬鹿じゃないのか? 自分のお調子者振りには呆れ返るしかなかった。
 彼女の想いに応えずに、彼女からは何年も前に決別の言葉を聞かされたのに。
 なのに今になって? 本当に馬鹿だ。
 それに、たった今、明里のことを思い出して切なく感じていたのはどこの誰なんだ? 全く自分の際限の無い無節操さには呆れるしかない。

 それでも、澄田のことを考え始めると苦しくなるのも確かだった。

 どうすればいいのだろうか?
 だが、この何年かを振り返ってみれば、僕は学習したはずではなかったか?
 そう。 後悔したくなければ、真っ直ぐにぶつかれ、と。
 ぶつかって、叶わなければ諦めるしかない。ぶつからなければ、ありもしない可能性にすがって縛られてしまう。笑われるかも? 呆れられるかも? いや、そもそも僕のことなどとうの昔に忘れてるかもしれない。 でも、それでも、ぶつかるしかない。
 笑われたり、呆れられたり、そうされるだけのことを明里にも澄田にはしているのだから、むしろ当然じゃないか? そして、そうすることで、僕もやっと前に進めるんだろう。
 そうだ。 まずはどうするのか?
 明里には……。 きっと望みはないだろう。でも、彼女の幸せを確認するだけでもいい。今、彼女がどうしてるのか、それを知りたい。そうすれば、彼女に対する想いを整理できるんじゃないだろうか? その為にはやはり連絡をとるべきだろう。
 もしかしたら、この辺に住んでるのかもしれない。探したら、もしかしたら出会えるかもしれない。でも、さすがにそんなことをしている暇はない。 ならば、やはり手紙だろうか。
 栃木の彼女の家に手紙を出してみよう。もしかすると、彼女は、もうそこには居ないかもしれないけど、でも、とっかかりにはなるだろう。 それに、もしかすると、久しぶりに明里に向かって手紙を書く、そうするだけでも何かを掴めるかもしれない。
 そうだ。 そうしよう。
 諦めるために動き出すなんて、我ながら滑稽だが、そうしないと、囚われたままになりそうだから。 とは言え、今はまだ無理だ。 もうちょっと落ち着かないと、きちんとした手紙を書くことは無理だ。 でも、とにかく、明里に連絡を取ろう。そう決心しただけで、僕の心は上を向くことが出来た様だ。
 周囲の音が、現実の音が聞こえるようになった気がする。

 そして、出来れば、その次。 その次には、澄田に会いたい。
 明里への想いを整理できた僕にとって、澄田がどんな存在なのか、それを確かめたい。
 もちろん、これも単なる僕の我侭だ。 とうに僕のことなんて忘れてるかもしれないし、彼女には笑われるかも知れない。いや、呆れられるか? でも、それでもいい。その場合、恥を書くのは僕であって、彼女じゃない。
 ならば、当たって砕けろだ。 僕自身の後始末は僕の責任なんだから。

 けど、実際問題として、どうやって会ったらいいんだ?
 電話でもしてみるか? きっと彼女はまだ、あの家にいるだろう。 それとも、種子島に会いに行くか? 幸か不幸か、フリープログラマの僕には好きに出来る時間がかなりある。
 今度の締切りさえ乗り切れば、後は少し楽になる。
 だから、そうだな。会いに行く時間くらいは取れるだろう。
 久しぶりの種子島。島の風景を思い浮かべると、なぜか心が安らいだ。そこには、常に澄田の笑顔があったからかもしれない。

 そう考えると、ふっと身も心も軽くなった様に感じた。
 明里に対する想いも、澄田に対する気持ちも、どこか現実感がなかったけれど、向き合うことを決めてみると、それは現実のものだと信じることが出来た。 そして、現実ならば、対処する方法はある。
 たとえ、気持ち、という扱いの難しいものでも、扱いようはあるはず。
 それは、一度はどん底まで落ちた、と考えている僕の強みだ。
 僕は踵を返すと、足取りも軽くマンションに向かい歩き始めた。全く現金なもので、気が付くと、いつの間にか、僕は鼻歌すら口ずさんでいた。
 本当に僕は馬鹿な奴だ。
 そして、マンションに帰ると、コンピュータに向かった。
 今度仕事が一段落したら明里に手紙を書く。そして種子島に行ってみる。
 そのことを決めただけで、僕は仕事に集中することが出来た。そして思ったよりは時間がかかってしまったが、結果として、日付が変わる頃には大体の目途がつけることが出来た。
 鼻歌交じりに「やっぱり、どうしようもない馬鹿だな」そう言い、僕は苦笑した。





思わぬ出会い
    先頭

 私は初めての東京に戸惑っていた。
 これまであまり地元を離れることはなかった。種子島を出たと言ってもせいぜい鹿児島までで、そんな私がこんな遠くにやって来たのは本当に初めてだったから。
 東京に行く、そう決めた時は本当に身も心も軽やかだったのに、いざ、彼が居る街、東京に到着してしまうと、戸惑うばかりだった。それでも、本当に遠野くんを目の前にしたら、こんな戸惑いなど小さなことだったと感じるんだろうな。
 そう。今はただ、東京という街に圧倒されているだけ。でも、遠野くんを目の前にしたら、私はきっと、まず真っ赤になるんじゃないか? そして、私のことを思い出してももらえずにおろおろするのかもしれない。 そして、思い出してもらう頃には、私が望みなど所詮かなわぬ夢なんだ、そう実感してるんだろう。
 きっと悲しいだろう。一言も告げる前から、望みが無いことを感じ取ってしまうのは。あの、高校生の時の告白の、いえ、告白しようとした瞬間が思い出される。
 彼は私など見ていないんだ。 そう思い知らされた、あの時を。
 それでもいい。 それでも、とにかく決着をつけないと私が壊れてしまう。
 たとえ、彼が私など覚えてなくても、私など見てなくても、それでも、はっきりと、今の気持ちを、過去形じゃない、今の気持ちを告げよう。
 そして、砕け散ろう。 砕け散って流す涙なら、私の想いも押し流してくれるかもしれない。
 そうすれば、さすがの私も前に進めるだろう。
 でも、出来れば……。 たとえわずかな可能性だとしても、出来れば私と遠野くんの間に未来につながる絆を作りたかった。 決まり文句としては、まずはお友達から、だろう。
 あれ? 私と遠野くんは、お友達じゃないのかな? でも、もう何年も会ってないんだから、お友達からっていうのはすごく当たり前かもしれない。 お友達になれれば、たまに会いに来ることも出来るかもしれない。 それに、もしかしたら、彼の方が私をたずねて種子島までやって来てくれるかもしれない。そうなったら夢みたいだ。
 そして、お友達から、その次へ……。 少しずつでいい。
 とにかく、遠野くんを感じていたい。 それが私の願いだ。

 それにしても、ここ東京はやっぱり別の世界なんじゃないか。そう感じてしまった。
 とにかく人が多い。飛行機から吐き出された人が、すごい勢いであっちに行ったり、こっちに行ったり、そんな人の渦に巻き込まれ、どこに行ったらいいのか、いや自分が何をしたらいいのかすら判らずに、ただまごまごするばかりだった。
 空港の人の聞きながら、何とか目的の場所へのバスの乗り場に辿り着き、近くの人に何度も確認しながらやっとバスに乗り込んだ時、私は既に疲れ果てていたかもしれない。
 それでも、空港はさすがに開けた場所だったせいか、それとも人の洪水に圧倒されて他のことに気が回らなかったせいか、その時は気が付かなかったけど、東京はビルばかりだ。やはり種子島とは異質な世界の様に感じた。 何とかリムジンバスに乗ったけれど、迫り来るビルの壁に飲み込まれた時、改めて目眩がするような気がした。
 こんな所で、人は暮らしていけるのだろうか? 空が見えない。 海も無い。 何だかひどくくすんだ色の水の流れが何箇所かある。川だろうか? それとも運河というもの?
 どちらにしても、その水の中で泳ぐことは不可能だと思った。
 本当に遠野くんはこんな所で暮らしているのだろうか? どちらを向いてもビル。高架の高速道路を走るバスから見えるのはビルばかり。
 もし彼とお友達になれたとして、私はここに慣れることは出来るのだろうか?
 もう、すっかりグロッキーで、東京に圧倒されきった頃、バスはホテルに到着した。
 バスから降りて振り返った時、改めて目が回る気がした。
 天に向かって聳え立つ圧倒的なビルの谷間、ビルの底に沈みこんでしまった。

 私などは立ち入ることが許されない世界なんじゃないか?
 そんなことを考えてしまいそうだった。
 けど、その時になって気が付いた、私が最後に遠野くんに会ったのはもう何年前? 約八年前ではないか? 八年もあれば人はそのままでは居られないんじゃないか? 遠野くんは、私が好きな遠野くんのままだろうか? 私の恋した遠野くんはもういないんじゃないか? 確かに、高校生の頃そのままの彼じゃないだろう。何かが変っているのは確かだろう。私だって、少しは成長したはず。 同じ様に、彼だって変ってるだろう。
 でも、きっと変らない、変れない、何かもあるはず。
 だから、そんなことも含めてぶつかってみる為にここまで来たはず。

 とにかく、ここまで来たんだから、前に進まなきゃ。 それが出来なかったら結局私は変わることができない。変われないと、壊れてしまうから。
「頑張らなきゃ」
 そう、声に出してみることで、私がこの世界にかろうじて含まれていることを確認した。

 まずは、部屋に行こう。 とにかく、少し一人になりたかった。

 なので、荷物を引きずってフロントまで行った。 周囲のロビーにも大勢の人が居た。そして、近くで見てみると、やはりみんな私などとは少し違うように思った。 どうして、みんなあんなに白いんだろう? 透き通るような白さ、くっきりとしたアイライン、そして艶々と光る唇。服装だって全く違った、スマートでクールなスーツ姿の人も居れば、暖かく柔らかいトーンのブラウスとスカートの人も居た。どの人も、私などからはまるで想像も出来ないくらいに完璧な容姿と服装で、誰も彼もがモデルの様に見えた。
 私はまるで場違いだった。 明るい感じ、と言えば聞こえはいいが、はっきりとしない色のブラウスにいつも通りのジーンズ。一年中消えない日焼けで、到底白いとは言えない肌。ルージュなんて付けてなくて、ただのリップクリーム。どうしてこうも違うのだろうか……。
 そんな私は正に田舎者のおのぼりさんだ。 フロントで予約の確認を待つ間、驚きとともに、つい見回してしまった。 私があまりに見回したせいか、それとも私の気のせいか、周囲から注目されている気がした。褐色といえば聞こえはいいかもしれないけど、要は色黒な肌。その辺のスーパーの吊るしで買った服装。どうして、こんな場違いな人間がここにいるのか、そんな目で見られている様な気がした。
 きっと気のせいなんだろう。誰もそんなこと考えてない。 いや、そもそも、私のことなんて誰も気にも留めてないはず。
 その時、予約の確認が取れ、フロントから声が掛かった。
「澄田様。 一週間のご滞在ですね」
 キーを受け取り、目で階段を探していたら、そばに居たホテルマンに「エレベータはあちらでございます」などと言われてしまった。なるほど、ホテルだもんね。エレベータだよね。家の近くにある民宿とは違うよね。階段なんて、非常階段くらいしかないに違いない。
 階段の場所を訊く前に教えてもらえてよかった。
 思わず、苦笑してしまった。一生懸命に気を取り直し、教えてくれたホテルマンに「ありがとうございます」なんてお礼を言うと、エレベータに乗った。
 エレベータの扉が閉じ、一人になると、周囲の視線から逃れた感じがして少し楽になった。
 けど、私の田舎物ぶりはそれで終わりじゃなかった。フロアに着いてからも、部屋の配置の見方が判らず、自分の部屋を発見するまでには一苦労した。やっと部屋を見つけて、なんとか鍵を開けて部屋に入った時、それだけで大仕事を終えた様な気分だった。
 だから最初にしたことは、ベッドにダイブしてそっとため息を突くことだった。
「こんなことで、遠野くんに会えるのかなぁ……」
 遠野くんに告白するとか、忘れられているとか、そんなこと以前に、どうやって彼を探し出せばいいのか、どうすれば彼と会えるのか。
 勢い込んで東京まで出てきたのはいいけど、これからどうしよう……。
 会えばいいんだ。そうは言うけれど、そもそもどうやって会えばいいのか判らない。なんて間抜けなんだろう。 今更ながらに、前途多難を意識せざるを得なかった。
 はぁ。

 と、その時、携帯が震えた。 家からだ。何だろう?
「はい。 花苗です」
『どう。 東京には無事着いたの?』
「お姉ちゃん……。 うん。着いたよ。今、ホテルのお部屋で一休みしてるとこ」
『そっか。 ま、無事ならいいんだ。 そっからはあんた次第。とにかく、悔いの残らないようにしなさい』
「うん。 分かってるつもり。 ありがとね」
「『じゃ』」
 素っ気無い会話だけど、私を気遣ってくれてることが分かった。 でも、たったそれだけで、私は先ほどまでとはまるで変わっていた。元気が出たっていうか、何とかなると思える、というのか、もしかしたら、なる様に成るしかないんだ、という諦めかもしれないけど。
 とにかく、笑顔になれた。 何だか、人と話すって魔法なのかもしれない。
 それだけで元気が出てくる。
「よし」
 そう自分に掛け声をかけると、窓のカーテンを開けた。
「きれい……」
 思わず声に出していた。 ホテルの近くには公園があり、その公園に植わっている桜が満開に咲いている様子が窓から良く見えた。
 まだ夕方というには時間も早く、天気もよく、窓から見る限り、花見をするのにふさわしい陽気に感じられた。
 桜は種子島も東京も同じように感じられた。 ここにも同じ桜がある。ならば、桜を見る気持ちっていうのは、同じかもしれない。つまり、当たり前かも知れないけど、東京に居る人たちだって、私と同じ日本人なんだ。
 ふと、そんなことを感じることが出来た。
 もっと近くで見てみたい。 そう思った私には、もう、先ほどまでの戸惑いはなかった。


 公園に行って見ると、桜の花を見ている人、桜の花など見ていない人。色んな人が居たけれど、遅い午後の時間の中で、人々がゆったりとそれぞれの時間を過ごしていた。陽の光は暖かかったけど、時おり吹く風には、まだ冷たさが残っている感じがした。
 周囲には様々な人達がいた。近所に住んでいるのだろうか、小学生くらいの子供たちが遊んでいた。二十歳くらいと思われる若い人達もいた。大学生なのだろうか、ベンチに座り本を読んでいる人、ゆっくりとあたりを見回しながら歩いて行く人、散歩をしている人達は、桜の花を見上げながらゆっくりと歩く人が多かった。そんな人達の中には年配の、おじいさん、おばあさん、と呼ばれているのだろう人達も結構いた。
 時折、仕事か何かで急いでいるのだろうか、足早に通り抜けて行く人もいた。
 そして目立ったのは、ビニールシートやござなどを地面に敷いて、ひもやテープなどで場所を確保している人たちだった。それは、桜の木の近くでは、もう他人が近付くことは出来ないくらいに一面がそんな状態だった。
「これは花見の場所取り、ということかしら?」
 種子島でも花見はあるし、参加したこともあったけれど、この様に一面が場所取りで覆われている様な光景は初めてだった。
「まるで戦争みたいね……」
 私は苦笑しながらその光景を眺めた。同じ様な光景もある。けど、見たこともない光景もある。その、どちらの光景も等しく平和を感じ、心が穏やかに落ち着いていくのを感じた。
 確かに、咲いてる桜は同じ様に感じられた。そして、公園に来てみると、東京でも空が見えることが分かった。そんなことを東京の人に言ったら、当たり前だろ、そう怒られてしまうかもしれない。けど、その時、私は素直に感動していた。
 東京の空も結構、青いんだなあ、と。
 もっと、薄い灰色の様な、沈んだ空を想像していたけれど、空は種子島と大して変わらない。種子島の空とつながってるんだな。そんな当たり前のことを思っていた。
 ふと気が付くと、少し離れたところに男性が立っていた。その男性は、桜を見ながら歩いていたようだけど、近くの小学生が遊んでいるのを見つけ、その子達を見入っている様だった。小学生の方は見つめられていることに気が付いておらず、遊びに熱中していた。
 見れば、小学生は男の子と女の子の二人で、公園の地面に絵を描いていたかと思うと、二人で追いかけっこをするかの様に桜の木を縫うように走り始めた。元気に辺りを走り回る子供たち、というのは微笑ましい光景だった。
 その男性は、そんな光景を眺めながら、時折微笑んでいる様な感じがした。
 正面からみた訳では無かったので、実際のところは確かじゃないけど、とても穏やかな暖かい雰囲気が伝わってくる様に感じた。
 そして、その男性を見ていて、ふと気が付いてしまった。
 いえ、感じてしまった、が正しいと思う。
 遠野くんをどうやって探そう、そう考えていたけれど、探すまでもないってことに。

 きっとそうだろうと感じていたけれど、それでも、その男性が振り向いた時、それが遠野くんだと確信した時。
 自分の心臓が口から飛び出すのではないか? そう思うくらいに驚いた。
 もう何年も会っていなかったけど、彼が遠野くんだというのは間違いないと確信した。
 遠野くんは、振り向いた時、自分を見つめる存在として、私に気が付いた様だった。
 でも、それが誰だか判っていない様で、怪訝そうな表情で私を見ていた。 やはり、私のことなど覚えてなかった。 失望がにじみ出て来る様だった。
 それでも、私は必死に彼を見つめ返した。「気が付いて、遠野くん」そう祈りながら、必死で彼を見つめた。
 その祈りが通じたのかどうか、遠野くんの顔に驚きの表情が浮かんだ。





予想出来ない奇跡
    先頭

 ここまで出来れば、もう大丈夫。
「ふぅ」
 安堵のあまり、僕の口からは吐息が漏れた。やっとここまで来た。一時はどうなるかと思ったけれど、何とか帳尻を合わせることが出来そうだ。 昨夜、寝る前に主要な部分は作り上げて、難しい部分は突破していたけれど、きちんとした形に整えるのには、やはりそれなりの時間が掛かる作業だった。今朝起きたときは午前中で完了できると考えていたけれど、午後過ぎまでかかってしまった。まだ夕方というには早いけど、お昼、というには遅い。
 だが、ここまで来れば、もう出来た様なもの。機能的に不要な部分、僕自身の機能確認用に追加していた処理を削除する、等の最終的な仕上げをすれば終了だ。
 しかし、今回の仕事は規模としてはそれなりに大きなものだったが、難易度としてはそんなに高くない内容。少なくとも、請け負った時はそう考えていた。
 が、いざ始めてみると、ある程度進めてみると、そう簡単にはいかない部分があることが分かった。手も足も出ない、という程ではないが、少々手こずることになった。そして、手こずってる時に心が乱れる様なことが起きたおかげで、その難関を乗り越えるのに思いの外時間が掛かってしまった。それでも、最終的には満足のいく解決方法を考え付けたので、我ながら、まぁまぁうまく作ることが出来た、と考えることが出来た。
 さすがに、ここいらで休憩しようか。昼食も食べてないし、ちょっと出掛けよう。

 まとまった時間が取れるようになったら、澄田に会いに行こう、そう決めてからは僕は落ち着いていると思った。昨日の昼間に、仕事に手がつかなくて慌てていたのが妙に懐かしい。
 近くのファーストフードで、遅い昼食を済ませると、中央公園に向かった。
 あの公園にはたくさんの桜が植えられていて、この季節はとてもきれいだ。小学生の頃は、中央公園よりは代々木公園の方が近かったので、そっちの方に行っていたけど、中央公園の桜も中々のものだ。
 それに、今日は週末だ。きっと、もう花見の席取りで賑わっているだろう。
 そんな穏やかな喧騒の中に身を置くのもいいかもしれない。そんなことを思った。それに、代々木公園まで足を伸ばしてもいい。久しぶりにたっぷりと歩いて、渋谷か、新宿辺りで夕飯を食べようか?
 仕事の残りの部分はどんなに手間取っても明日一日あれば余裕で完了できる。そうすれば、明後日の納期には十分間に合う。どうして、納期が日曜日に設定されているのか、それは向こうの事情なのでよく判らないけど、まぁ、どの道、フリープログラマの僕にとっては、納期が何曜日だろうと関係ない。
 とにかく、仕事に目途がついて、ちょっと前祝、と行きたい気分だった。
 そう。誰か、暇な奴が居れば呼び出して一緒に飲みたいくらいの気分だ。 だが、昔はそんなことは考えなかった。酒を飲む、というのは、やり場のない鬱憤を押さえ込むために、一人でキツイ酒をあおることだった。それが、最近は、人と話しながら穏やかに酔う、ということにも捨てがたい魅力を感じるようになった。
 それを教えてくれたのは、度々付き合ってくれているのは岡田だ。だが、奴は、残念なことに会社員だから、週末とは言え、平日の昼間に呼び出して酒を酌み交わす、なんて無茶は望めない。とすれば、花見の喧騒の中で、せめて雰囲気だけでも味わおうか。
 だから、僕はちょっと浮かれた気分で、新宿中央公園を目指して歩き始めた。


 そして、中央公園に着いてみると、状況は案の定という感じだった。桜の近くは花見の場所取りでいっぱいだった。おそらく若手の社員が駆り出されてやってるのだろう。あちこちの木の近くでシートを敷いて場所を確保してあった。
「今夜はにぎやかになりそうだな」
 僕は桜と、そんなな光景を眺めながら、公園の中を歩き回った。
 ふと気がつくと、小学生くらいの子供が遊んでいるのが目に入った。それは男の子と女の子の二人組で、最初は地面に絵を描いていたが、その内に、二人で追いかけっこを始めたようだった。二人で走り、逃げていた方が木の影から相手をうかがう。そんな所に後ろから相手が飛び掛る。悲鳴のような嬌声を上げながら、二人は桜の木を縫うように走り回り、はしゃぎまわっていた。
 僕は、その二人をみて思わず微笑んでしまった。立ち止まって、ちょっと離れたところから二人を見つめ始めた。そう、あの二人に僕自身と明里の小学生の頃の姿を重ねて、懐かしい思いに捉われていた。少し前だったら、そんな光景を目の当たりにすると、今はもう失ってしまったことに思いが向いてしまい、胸の中に鋭い痛みを感じていたかもしれない。
 けど、今の僕は、穏やかで暖かい感傷は感じたけれど、そこに痛みはなかった。
 それは、もう、僕の中でも明里への気持ちが終わっている、ということなのだろう。改めてそう考えると、鈍い痛みを感じたけれど、同時に苦笑することも出来た。
 今、目の前の二人は楽しそうにしていた。あの二人はいつまで一緒に遊ぶことが出来るのだろうか? ずっと一緒に居たい、そう思っているのだろうか? そんなことは判らなかったけれど、少なくとも今、二人は楽しそうだった。
 ならば、あの二人も、きっと何かを得るだろう。
 そんなことを考えながら二人を見つめていたが、二人は自分達の世界に入り込んでいる様で、僕が見詰めているなんてことには全く気がついていない様だった。

 だが、見詰められているのは小学生達だけではなかった。
 ふと視線を感じて振り返ると、一人の女性がこちらを見ていた。 それでも、最初は僕が見詰められている、ということに確信が無かったけれど、やはり、その女性は明らかに僕を見詰めている様だった。
 何か懐かしい雰囲気。
 もちろん、明里とは違った。 別の懐かしさ。 誰だろう?
 どうも、この辺りに住んでいる人ではない感じがした。肌の色は健康的な小麦色で、明るい感じのブラウスにジーンズ。活動的な感じの服装で、髪はロングとは行かないけれど、ショートヘアではない。肩に掛かる程度の長さ。そして、特徴的なのは、その瞳だった。
 比較的大き目の瞳で、まっすぐに僕を見詰めていた。
 くるくると良く動きそうな瞳で、魅力的な瞳だ、そう思った。
 けど、とにかく懐かしかった。 絶対に僕は彼女を知っているはず。
 そう確信した。その次の瞬間に気が付いた。 何と言う間抜けさ加減だろう。
 その瞬間、僕がどれだけ驚いたことか?
 そう。 澄田だ。
 どうして、彼女がここに居るのか、それは見当もつかなかったけれど、だが、彼女が澄田だということは間違いない、そう感じた。
 会いに行こう、そう考えていた癖に、目の前に現れると、咄嗟には思い出せないなんて、相変わらずの間抜けぶりだった。
 しかし、どうして澄田がここにいるのだろう?
 どうしてすぐに判らなかったのか? まぁ、言い訳をするなら、幾つかの相違点を挙げることは出来る。 まず、高校生の頃に比べて顔つきが大人びていたこと。そして、あの頃は彼女はショートヘアだったが、今、目の前にいる澄田は少し髪を伸ばしていること。
 けど、それは些細な違いだと思った。 どうしてって、彼女の瞳は変わってなかった。
 そして、きっと笑顔も変わってない、そう思った。
 ただ、僕が彼女に笑顔を向けてもらえるのか、問題はそこだと思った。

 そして、僕の確信に遅れて、ようやく、僕の口が言葉を紡ぎ始めた。
「澄田……?」
 けど、どうして彼女がここにいるのか、それは全くわからなかった。そして、馬鹿みたいに確認を繰り返してしまった。
「澄田なのか?」
 突然の出会いに、僕の頭はちょっとしたパニック状態になっていた。
 もう、あの日、種子島を出た日に空港で会って以来だったが、見れば見るほど彼女だった。その特徴的な瞳以外にも、当時の面影がはっきりと感じられた。

 やがて、彼女、澄田がゆっくりと答えた。
「うん、私、澄田花苗よ。 遠野くん、久し振りね。   元気だった?」
 澄田は多少はにかみながらも、まっすぐにこちらを見ていた。彼女は驚いている様だったが、なぜか、この出会いを予想していたのではないか? と思える様な落ち着きを感じさせた。
 そして、微笑んでくれた。 あの笑顔だった。僕を何度も救ってくれた、もう二度と見ることも出来ないかもしれない、そう諦めかけていた笑顔だった。
 その笑顔が、今、僕に向けられていた。
 あの、空港で見せた涙交じりの笑顔じゃない、本当に嬉しそうな笑顔。
 僕は何かを誤解してしまいそうだった。
「ああ、僕は元気だよ。 君も元気そうで良かった」
 それでも、僕は少しずつ落ち着きを取り戻しながら、とりあえず、以前の彼女との相違点を指摘した。気が付くのに遅れた、その言い訳の為に。
「髪、伸ばしたんだね。 一瞬分からなかったよ」





戸惑いと望み
    先頭

 一瞬、私のことなど忘れてしまっているんだ。そう思ったけれど、でも、そうじゃなかった。遠野くんは私のことを覚えてくれていた。
「そうね。確かに高校の頃はショートヘアだったわね? でも、中学の頃はこのくらいのセミロングだったはずなんだけどな?」
 そして、こちらから名乗る前に思い出してくれたこと、さらには以前との違いを分かるほどに覚えていてくれた。
 それは予想以上に嬉しかった。
「そうだったっけか? さすがに中学の頃のことはあまり覚えてないなぁ……」
 そう言いながらも、あごに手をやり昔のことを思い出そうとしている様だった。しばらく首をひねっていたけど、やがて思い出してくれた様だった。
「うーん。 でも、そう言われてみるとそうだったかなぁ? 髪を切ったのはいつ頃だったっけ……。 ああ、そう言えばサーフィンを始めた頃かな? そうそう。それまでは、澄田はどっちかって言うと色が白かったけど。 高校に入ってサーフィンを始めてから、きれいな小麦色になったよね」
 言われてしまった。先ほどホテルに到着した時から感じた肌の色のことを指摘された。やっぱり私の肌は黒いんだ……。 少し落ち込んだけど、でも言い返すことにした。
「あら、ひどいわねぇ、女性に向かって黒いなんて」
 その言葉に、彼はちょっと慌てた様だった。
「え。 黒いなんて。 そもそも陽に焼けているのが悪いなんて思わないし、第一、あんまり真っ白なのは不健康な感じでしょ? 澄田くらいの肌は、健康的でいいと思うなぁ」
 慌てたように、そう言うと、続けてとても嬉しいことを言ってくれた。
「言ったでしょ? 『きれいな』小麦色って」
 ちょっと苦笑しながら、遠野くんは私をまっすぐに見詰めてそう言った。
 彼の言った言葉「きれいな小麦色」に私は顔を赤らめた、やはり遠野くん、好きな人からのそんな言葉はとても嬉しくて、頬が染まり、顔が緩むのが自分でも抑えられなかった。
「でも、それにしても、遠野くん、本当に久しぶりね。 この辺に住んでるの?」
 この話題のままだと、嬉しいかもしれないけど、頬が染まってしまって、まともに顔を上げられなくなるかもしれない。ので、私は話を切り替えることにした。
「あぁ、住んでるのはここからはそう遠くないところだよ。 ところで、澄田はどうしてこんなところにいるんだ?」
 とりあえず、と特に考えも無く話題を振ってしまったけれど、ある意味、その話題からストレートにつながる彼の質問に、私は言葉に詰まらせてしまった。
「え……」
 そう。ここでストレートに「あなたに会いに来た」なんて言うことが出来るのなら、きっと最初から話はもっと簡単になったはず。突然の再会は、どうやって彼を探し出すか、という問題はクリアしたけれど、心の準備などまるでない状態でいきなり彼と向き合うことになってしまい、本当に言いたいことを言えなくなってしまっていた。
 そもそも、その覚悟と心の準備はあったはずなのに、なのに、遠野くんとの再会の喜びと動揺はそんなものは遥か彼方に吹き飛ばしてしまっていた。
「あ、まぁ……。 …… その、観光よ。東京観光。 …… うん、私、今まであんまり種子島を出たことがなかったから、ちょっと旅行してみようかな、と思ってね。 で、…… 東京に行って見たいな、と思ったから……。 …… だから、来てみたの」
 だから、どもりながらも、言った言葉は全くの嘘では無いにしても、やはりそれは本当のことではなかった。そう。別に東京を観光したかった訳ではなく、遠野くんに会いに来たのだったけれど、いざとなると素直に言うことが出来ず、つい誤魔化してしまった。

 それでも、この偶然を逃さないようにしたかった。なんとか理由をつけ、彼と一緒に過ごす時間を作りたかった。そうやって、一緒の時間を過ごせれば、その内に、勇気を出す機会が巡ってくるはず。だから、一生懸命に言葉をつなぎながら考えた。
「でも、東京ってすごいよね。 種子島とか、鹿児島とかとは全然違うよね。 なんて言うか、人は多いし、ビルも多いし、びっくりちゃった」
 どうやって、彼との時間を繋ぎとめよう。
「だからね。 東京、来たのはいいんだけど、何をすればいいのか判らなくて、どこか、お勧めの観光地とかある? 私、ツアーも何も予約してなくて、全然わからないの」
 その言葉自体は嘘ではない。そして、そうやって無理矢理に話しながらも、その時思いついた、無謀なお願いをしてみることにした。
「ねぇ、突然だけど…、 お願いがあるんだけど……。  いいかなぁ……」
 そうやって、私が話している間も、ずっと私を見つめてくれていて、しかも、微かに微笑んでいる様でさえあった。だから、自分でもかなり恥ずかしく、かなり言いよどんだけど、思い切って言ってみることにした。
 遠野くんは、相変わらず、私を見詰めて、穏やかに答えてくれた。
「なんだい? 言ってごらんよ」
 その時はまだ、私は彼が昔とは違っていることに気が付いてなかった。突然の出会いでに舞い上がるばかりで、彼が昔とは違っていることに気が付けずにいた。
 とにかく、私は無謀とも言えるお願いを言ってみることにした。
「えっとね。遠野くんって東京は詳しいでしょ? だから、時間があるときでいいから、土曜日か日曜日に、その……。 えっとね。 東京を、ガイドしてくれると嬉しいなぁ……」
 何とか言い切ったけど、言ってる間も、私はどんどん血の気が昇って来て、顔が熱くなって行くのが分かった。きっと、もう私の頬は真っ赤になっているに違いない。それでも、目の前の奇跡を逃したくなかった。
 だから、必死に言葉をつないだ。時間が、心がつながります様に、と願いを込めて……。
 そして、言い終わると、そっと彼を見上げた。
 けど、それは私自身としても、如何にも突然で、無謀な要求だと思えた。
 だから、断られても仕方がないと思った。
 けど、彼はしばらく考えていたけど、意外にも断らない様だった。
「確かに突然だなぁ……。 でも、まぁ、ガイドするのはいいよ」
「え?」
 彼が苦笑しながらそう言った時に、あまりの喜びに、私は飛び上がって万歳をしそうだった。けど、そうならなかったのは、続く言葉があったからだった。
「でも、ちょっとこの土日は仕事の都合であまり時間がとれないんだ……」
 その、続く彼の言葉に、一瞬でその喜びが消えて行く様な気がした。
「そう……。 いそがしいのね……、 それじゃ、しかたないよね……」
 私は先ほどの喜びが消えてしまい、目の前が暗くなる様に感じた。じゃぁ、どうやって時間をつなげばいいんだろう? どうやって一緒に居る時間を……。
 けど、そんな私に遠野くんは思わぬことを告げた。
「まぁでも、そうだなぁ、実は今日なら時間があるし。 これも突然だけど、今からで良ければ、この辺、新宿周辺を案内しようか? この辺は、今住んでるだけじゃなくて、種子島に引っ越す前もこの辺に住んでたから、結構詳しいよ」
 その言葉に、私は一気に力を取り戻し、気持ちに喜びと希望が戻って来た。
「え! ほんとに?  いいの?」
 私は遠野くんを見詰め、きっと満面の笑みになっていたと思う。それにつられたのか、遠野くんも笑っている様だった。私のあまりの無計画さに苦笑してるのかもしれないけど。
「ああ、いいよ。 今日は、もうぶらぶらとして、後は休むつもりだったから」

 とにかく、私は遠野くんの提案に天にも昇る気持ちだった。そして、これまでに経験したことが無いような勢いで自分の心臓が早打つのを感じていた。当然、先ほどまで感じていた旅の疲れのことなど、すっかり忘れてしまっていた。
「うわあ、うれしいなぁ……。 ありがとうね」
 私はあふれる喜びを、しまりのない笑いを垂れ流しながら、そう言った。
 ただ、ただ、久しぶりに会った遠野くんと、好きな人と自然に話が出来たこと。
 もうしばらくは一緒にいられること。 その幸せをかみ締めていた。
「そう言えば、澄田は一人なの? 誰か連れとか居ないの?」
 観光だとすれば誰か一緒だと思ったのか、彼は私が東京まで一人で来たとは思っていない様だった。確かに普通の観光ならそうだろう。そもそも見知らぬ公園を一人でうろついてたりはしないだろうけど。
「え。 あ、私一人なんだ、今回は一人旅」
「へぇ、そうなんだ。 そっか、うん、そうなんだ。 じゃあ、どこに行こうか?」
 そう言った時、彼は笑顔だった。 私は嬉しいけど、彼は……?
 どうしてか、彼の笑顔がとても嬉しそうに感じたのは、私の願望のせいだろうか?
「で、今更だけど、僕はこの辺は観光したことなんてないから、地元のお店とか公園とかなら詳しいけど、観光スポットって言うと、どれが観光スポットなんだろうなぁ……」
 そう言いながら、彼は苦笑していた。けど、何故か、その苦笑すら嬉しそうだった。
「うふふ……。 私なんか全く知らないから、どこに連れてってもらっても観光になるわよ?
 この公園の散歩だって観光なんだから」
 遠野くんは一瞬あきれた様な顔をしたけど、すぐに楽しそうに笑った。
「あはは。 じゃぁ、適当にこの辺を巡ろうか。 歩きながらでも適当な所を思いつくかも知れないしね」
「うん。よろしくお願いします」
 そんなやり取りの末、私は遠野君と並んで歩き始めた。
 そして、その時になって気が付き始めた。
 高校の頃、一緒に歩いて帰った時を思い出して比べた。 当時、遠野くんはさっさと先に歩いていったけれど、今は彼は自分と並んで歩いてくれていた。
 決して私の歩く速度が昔より速くなったから並んでいる訳ではなかった。
 遠野くんが私の歩く速度に合わせて、一緒に歩いてくれているのだった。
 何かを考えながらだけれど、私と歩調を合わせてくれていた。
 一緒に、並んで歩く。 それがこんなに嬉しく、心躍ることだなんて。
 私は、笑顔が止まらなくなりそうだった。

 その時、遠野くんが突然立ち止まり、私を振り向いた。
「そうだ! 明治神宮はどう? ここからでもそう遠くないし、確実に名所だよ」
 私は別に行き先はどこでも良かった。確かに明治神宮は聞いたことがある場所だった。ふと思ったことは、遠野くんと一緒に歩いて楽しくなる所だといいなぁってことだった。
 それには、今回、彼と出会えたきっかけの桜。 桜が咲いてるところに行きたかった。
「そこ、桜さいてる?」
「桜かぁ、桜を見るんだったら、明治神宮じゃなくて、となりの代々木公園かな? そこなら、桜がたくさん咲いてるよ」
「じゃぁ、私、代々木公園の方がいいなあ」
「もちろんいいよ。 よし、だとすると、こっちだ」
 そう言い、やはり前の方を指差すと、私を振り向いて楽しそうに言った。 私が頷くと。
「じゃ、行こうか」
 遠野くんはそう続けた。 その間、彼はずっと私を見ていた。
 それは何でもない会話だった。
 けど、それを私の目を見て言ってくれてること、彼が私に向かって話しかけていること。
 彼が笑顔なこと。 そのどれもがとても嬉しかった。
 だから、私も満面の笑みで答えた。
「うん」
 これで手をつなぐことが出来たらな……。
 そうしたら、もう完璧なのに。 ふと、そんなことを思った。
 けど、過ぎたことを望んではダメ。望みが過ぎると、落胆も大きいから。
 今、まずは、この喜びを満喫しよう。
 遠野くんのとなりにいることが出来る、この時間を。





幸せな時間
    先頭

 結局、私と遠野くんは、代々木公園まで歩いていくことになった。
 最初は、広い道沿いに歩いた。 歩道は十分に広くて、私たちが並んで歩くのには何の支障もなかった。けど、少し歩いた所から、私たちは細い路地に入り込んで行った。遠野くんによると、その方が近道だから、ということだった。
 細い道を歩いていくと、すぐに交差点に出会った。彼は時折何かを確認すると「こっち」そう言って、道を折れたりした。ビルにも圧倒されたけど、マンションやら普通の家やら、色々な建物が所狭しとひしめき合う、その場所もまた、種子島では見かけない世界だった。
「こんな道で、迷わないの?」
 あんまり心配になったので、つい彼に訊いてしまった。だって、私はとっくに訳が分からなくなっていたから。けど、彼はにこやかに「この辺は小学生の頃に住んでた街だからね。どこをどう歩いたって、迷うことはないさ」そう言った。けど、少し気になった。そう言う彼の表情には純粋な笑顔、とは違う、何か苦笑いのような、ううん。苦笑いでもない。何か遠くのことを考えてるかの様な、感情が抜け落ちた顔。
 そして時として、曲がり角の向こうを、いえ、さらにその向こうを、今は見えてもいない何かを見ようと目を凝らしている様に感じた。それは、高校生の彼の視線に似ていた。
 それでも「次はこっち」そう言って、私を見る表情は笑顔だった。
 そして、二人で並んで歩いていることに、変わりが無かった。
 むしろ、あちこちで立ち止まり、その先に何かの博物館があるよ、とか、これは何とかという国の大使館だよ。などと解説してくれるのが嬉しかった。まぁ、内容自体は、私にとっては興味はほとんどなかったので、よく分からなくても「ふーん」とか「へー」など言って聞き流していた。けど、そんなことでも彼と会話できることが嬉しかった。
 そして、そうやって彼が何かを指差し、私がその先を見る時。
 私と彼は一緒にいる。同じ物を見ている。そう実感できるのが嬉しかった。
 なので、遠野くんが時折見せる遠くを見る目については、道順についてでも考えてるのかな、などと考えて、深く考えることはなかった。

 そうやって歩く道のりは楽しくて、嬉しくて、それなりの距離を歩いたのだけれど、あっという間に着いてしまった様に感じた。
 代々木公園の入り口の、ゆるい階段を上りきると、そこは桜の庭園だった。
「きれいねぇ……」
 思わずため息を突きながら、桜を見渡した。
「だろう?」
 などと言いながら、私と並んで同じ桜を見ている彼を感じることはかつてない喜びだった。
 そして、この公園までの道のりでのことを改めて思い返していた。
 そう、当たり前かもしれないけど、彼はやはり高校の頃とは全く違った。
 あの頃も、遠野くんと一緒に歩く、ということはあったし、話すこともあった。
 けど、あの頃は、一緒に歩く、ということは私が遠野くんの後ろを付いて行くことだったし、彼と話す、ということはどこか遠くを見ながら、彼が語る言葉に耳を傾けることだった。
 けど、今は違った。
 まるで寄り添うように並んで歩き、お互いの目を見て言葉を交わした。
 それは夢の様な出来事で、それだけで、私が舞い上がってしまうのには十分なことだった。
 そんなことを思うと、私は自然と笑顔になれた。それは、本当に嬉しくて、満たされて、零れるようにして浮かんだ笑顔だった。その喜びのまま、となりにいる遠野くんを見上げると、彼も振り向いてくれた。その顔も笑顔で、私を見ていてくれた。

 そう。もう、こんな夢の様な体験が出来ただけでも、十分だった。勇気を振り絞って会いに来てよかった。 もう既に十分に報われた。そう感じた。

 その後も、代々木公園の中を、彼と一緒に並んで歩き、彼が指差す先を一緒に見て、時として、私が指差して訪ねる何かを一緒に見る。
 そして、お互いの目を見て言葉を交わす。 そんな幸せな時間が続いた。
 けど、当たり前だけど、日は必ず暮れる。
 もう、代々木公園は一通り見て回っていたし、日が傾いたので、そろそろ帰る。 そうなった時、私は背筋を冷たい風が吹き抜けるのを感じた様な気がした。
 それまでは、望外の幸せな時間だったこともあり、浮かれきって、その喜びに浸っていたけれど、この先については何もなかった。 もし、このまま別れたら、もうこれっきりかもしれない。もう二度と彼と会えないかもしれない。
 そう考えると、急に目の前が暗くなる様な気がした。

 帰りも歩きはさすがに疲れるから、と原宿から新宿まで電車に乗った。
 遠野くんは相変わらずで、明るく「原宿は、結構有名だよね」「あの向こうを曲がると竹下通り、聞いたことあるでしょ?」などと話しかけてくれた。
 けど、私の方がその言葉に答える元気を失ってしまい、かろうじて彼を見上げ、やっとの思いで彼の指差す先を見て、生返事を返すのが精一杯だった。
 このまま終わってしまったら、そうしたら夢から覚めたら元通りだ。
 だからと言って、どうすればいいのか? 彼と一緒にいたい。明日も、明後日も、その先もずっと一緒にいたい。 けど、どうすればいいんだろう……。
 私はもう、ほとんど話すことも出来ずに、俯き加減で、いつの間にか彼の後ろを付いて歩くような状態になっていた。
 けど、何かを考えることも出来ず、ただ彼の言うままに歩き、電車に乗り、そして降り、そしてまた歩いた。
 さすがに、そんな状態になってしまった私の変化に、彼も気が付いている様で、時として私を見て「どうした?」「大丈夫?」などと言葉をかけてくれた。
 けど、私は「何でもない……」「うん……」などと勢いの無い生返事を返すばかりで、彼はきっと戸惑ったのだろう。困った様な表情で私を見つめていた。
 なんとかもう少し時間を。 もう少しでいいから、一緒にいられる時間を……。
 けど、どうすることも出来ずに、ただとぼとぼと歩いていた。

 そんな、気詰まりな状態を救ってくれたのは遠野くんだった。
 まぁ、それが意識してのことなのか、単なる生理現象だったのか、それは微妙かもしれないけれど、でも、とにかく、彼が時間をつなぐきっかけを作ってくれた。
 突然、彼の方から「ぐぅ……」とも「きゅるる……」とも思える音が、そう彼のお腹のなく音が聞こえた。 その音に顔を上げると、遠野くんはちょっと照れた様に笑っていた。
「ごめんごめん。 でも、ちょっと、お腹がすいちゃったかな? 澄田はどう?」
 私は何だか気が抜けてしまい、ちょっと苦笑してしまった。
「そうね。 私もお腹、ペコペコよ」
 けど、苦笑でも笑顔は笑顔。 そして、なぜだか急に元気が出てきた。
 だって、まだ終わってない。 少なくとも今、私は遠野くんと一緒にいて、これでお別れ、そんな話をしている訳じゃない。
 急に前向きになった私は、本当の笑顔になると、彼に向かって言った。
「ね。 一緒に夕食でも食べない?  観光に付き合ってくれたお礼に、夕食くらい、おごるわよ?」
 思い付きではあったけど、少しでも一緒にいる時間を増やしたい。そして、その間になんとか次へとつながる約束を、もしくは何か、とにかく次につなげたかった。
 私が笑顔を取り戻したので安心したのか、彼も笑顔になってくれた。
「そろそろ夕食、というのは魅力的なアイディアだね。 ま、勘定の話はおいとくとしても、どっかで夕食を食べようか?」

 私の提案に、彼は基本的には賛成の様だった。 ならば、もう少し時間がある。
「ほんとに楽しかったから、私が出すわよ?  と、そんなことを言いながらも、私はこの辺のお店のことは全く知らないんだけど……。 ね、どこか近くで、よさそうなお店ある?」
 遠野君は、そんな私の間抜けな返答を聞いて、笑顔で答えてくれた。
「そうか、澄田はこの辺は初めてだったよね。 そうだなぁ、NSビルに行けばいろいろなお店があるし、そこのお店は割と高い所にあるから、夜景がきれいだし。 どうだい?」
 遠野君は、私をまっすぐに見詰めてそう言った。
 私は、彼の言ったことを正確に理解した訳じゃなかったけど、それでも、その言葉は今から何時間かを二人は一緒に過ごす、その約束の言葉だと感じた。
 だから、笑顔で「うん。 そこ行ってみましょ」そう言うことが出来た。
 そして、そんなことで心に余裕が生まれ、ふと今日のことを振り返ってみて、あることに気が付いて頬を染めそうになった。
 今日は彼と東京の街中を歩いて、公園を歩いた。 けど、観光名所に行った訳じゃなかった。観光に来た、そう言いながら、彼が提案した観光名所に行かずに、単に桜が咲いてるだけの公園に行きたがった。そして、単に二人で歩いて、公園で花を見る。なんてことをした。
 そう。言葉にした訳じゃないけど、改めて思い返せば、それは単なるデートに思えた。
 彼はその不思議さに気付いただろうか?

 ちらり、と彼の様子を窺ったけど、その表情からは、何か不思議なことに思い当たった、そんな感じは窺えなかった。
 安堵のため息を突き、改めて今日のことを振り返ってみた。
 確かに、彼は道の所々で、観光名所と思われるものを紹介していた様な気がした。けど、私は、だた、彼が私を見て話してくれることに舞い上がっていて、彼が解説してくれた内容まではほとんど聞いてなかった。
 そのことに、彼は気が付いているだろうか?
 けど、そんなことを考えていて、改めて確信した。
 やはり、遠野くんは高校の頃とは何かが変わっている。以前は話していても、彼の目は私のことなど見てはいなかった。それが、私を見て話してくれている。ある意味当たり前なことなのだけれど、以前はその当たり前の部分が大幅に欠落していた様に思えた。





暴かれた想い
    先頭

 明里はたった今しがた見た光景が、そして、その光景を見て心に浮かんだことが信じられなかった。 自分は、まだあの頃から変わってなどいなかったのだろうか……。
 先ほど、何日かぶりに桜を見ようと思って代々木公園まで行った。
 途中、街中、踏切や交差点などで貴樹に出会ってしまったらどうしよう。などと、少しびくついていたけど、結局は彼とは出会わなかった。彼との思い出がいっぱいにつまった、この代々木の街中で彼と再会したりしたら、きっと激しく動揺する。そう思ったから。
 どうしてなら、自分自身の気持ちは、まだ整理し切れてないだろう。
 そう思っていた。けど、あんな偶然が何度も起こる訳も無く、結局、途中で貴樹と出会うことなく代々木公園まで到着した。だから、少し油断したのかもしれない。 いや、油断と言うより気を抜いていた、ということかもしれない。
 だから、自分で予想したより動揺してのかもしれない。
 代々木公園の入り口にあるゆるい階段を上り切った所。そこから少し進んで公園の桜全体が見渡せる場所。そこは代々木公園の桜が一望できる場所で、お気に入りの場所だった。
 そのお気に入りの場所から満開の桜を見たい。そんなことで頭が一杯になっていた。
 階段を上りきり、もう少しで一面の桜を見ることが出来る。きっときれい。そんなことを思いながら目を上げた時。桜の庭園の入り口を見た時。 明里の心に衝撃が走った。
 そこに、貴樹がいた。
 また出会ってしまった。
 心の準備が出来てなかった。そのせいもあると思うけど、それだけでもないと思う。
 やはり、自分の中には、貴樹への想いがあった。けど、夫への想いもあると思った。一緒に過ごして、一緒に積み上げてきた確かな時間と絆がある。貴樹への想いは、それを捨て去ってもいい、そう思えるほどの想いではないはす。そう考えていた。
 けど、自分の想いがそう簡単に予想できるものではないのもありがちなことだった。
 まさか、こんな感情が吹き出すなんて。 自分がこんな感情の虜になるなんて、それまでは想像したこともなかった。
 だから、その気持ちが何なのか、最初は判らなかった。

 けど、そんな気持ちを感じた原因は明らかだった。 貴樹のとなりには女性が居た。
 どう見ても、ただ偶然並んで立っていた訳じゃなかった。 明らかに二人は一緒に居た。そして、衝撃を決定的にしたのは、その彼女の表情だった。
 貴樹を見上げて、嬉しそうに、幸せそうに、微笑んでいた。
 その女性の表情を見た時に、明里の心に鋭い痛みと共に湧き上がった感情があった。その感情のあまりの強さに、どす黒さに、明里は衝撃を受けた。
 どうすることも出来なかった。
 ただ、貴樹に気が付かれる前に逃げ出す以外に出来ることはなかった。
 そう。今回、貴樹は自分に気が付かなかったはず。
 それを幸いと考えながらも、貴樹が自分に気が付かなかったことが苛立ち、腹を立てさえした。この自分に気が付かないなんて、そう感じている自分が怖かった。
 とにかく、あの二人はお互いを見ることはあっても、背後の私を振り返ることなどしなかったから。 だから、私が必死に動揺を隠しながら、回れ右をして公園から立ち去ったことなど、全く気が付かなかっただろう。 そのことに苛立ち、腹立ち、混乱した。
 そして、自分が何を思うのか自信がなくなってしまった。自分が分からなかった。やはり、自分は貴樹と出会ってしまったら、面と向かってしまったら、今の生活を壊してしまうかもしれない。 そのくらいの恐怖があった。
 今の生活を大事にしたかった。だから、一目散に来た道を戻った。
 公園を出てからは走りだした。 どこをどう通ったのか、それは覚えていない。
 気が付いた時、自宅の玄関で、折れたヒールを手に、扉にもたれかかっていた。頬を伝う涙の理由は考えたくなかった。ただ哀しくて、情けなくて、そして、つらかった。

 まず、あの男性は確かに貴樹だった。 それは間違え様もない。

 そして。
 どうして、貴樹と出会うことで、動揺するのか。
 どうして、自分は苛立ち、腹立ち、恐怖を感じたのか。
 どうして、貴樹が誰か女性と一緒に居る所みたことで衝撃を受けるのか。
 どうして、自分の中にどす黒い感情の嵐が吹き荒れているのか。
 どうして、自分はその場所から逃げ出すしかなかったのか……。
 自分のことなのに、まるでどうにもならなかった。

 あの二人を見た瞬間。 彼女の表情を見た瞬間。
 やり場のない苛立ち。腹立ち。悲しみ。  そして、憎しみ。
 あんな女など居なければ良いのに。
 そう思った。 その、圧倒的にどす黒い、憎しみに満ちた激情に愕然とし、恐怖した。苦しいほどの悲しみと、痛いほどの憎しみ。 最初は、それがなんなのか分からなかった。
 けど、少し落ち着いた所で理解した。
 これが嫉妬……。
 貴樹が自分以外の女性と寄り添い、微笑みあうことに嫉妬しているのだ。
 そんなはずは無い、そんなのは許されない。
 けど、貴樹は、もう自分と同じ世界には居ない。そう思いながらも、それでも、心の奥底では、自分との関係だけを思う。そんなことを期待し、心の何処かでそう信じていた。 そうならないのは、お互いの接点が無いから。お互いの住む世界が違ってしまったから。そう考えていたのだろうか? もし、二人が同じ世界に居るのなら。接点があるのなら。
 自分たちは寄り添ってすごしているはず。 そう信じていたのだろうか?
 けど、自分は貴樹との接点が持てない時間の間に、貴樹の居ない世界での関係を築いた。その関係を捨てることなど、現在の自分としては信じられないことだった。
 自分が二つに引き裂かれてしまいそうだった。
 貴樹を望む自分。 貴樹を望まない自分。

 幼い頃に抱いていた気持ちは、今も変わってなどいないのだろうか?
 あの気持ち……。
 
 ダメだ。その気持ちを想ってはいけない。 具体的に言葉にしたら逃れられなくなる。自分の中にこんなに激しい自分が居るなんて。
 とにかく、今、このまま悩んでも、出口が見えない。悩むのを止めないと。
 そうだ、体を動かそう。 体に染み付いたことを淡々と、注意深くやるんだ。 そうすれば、余計なことを考える暇はなくなるだろう。体が疲れれば、ぐっすりと眠れるだろう。
 ぐっすりと眠れば、今の悪夢のような状態から抜け出せるだろう。
 そう考えると、まずは部屋の片付けを始めた。片付けをしながら、次はお風呂掃除。あぁ、久しぶりに窓も拭いてみようか? そうだ、ベランダで少し観葉植物の整理をしてもいい。
 額に浮かび始めた汗を拭いながら、そんなことを考えた。
 そう。 このリズム。 このリズムで動き続けよう。
 そうしたら、そのうち夫が、雅和さんが帰ってきてくれる。 あ、そうだ。大事なことを忘れるところだった。 夕食も作らなきゃ。当たり前だ。そんなことを忘れるようでは主婦失格だ。今日の夕食はうんと手の込んだものにしよう。 何がいいだろう。夜になればまだ寒い。温まるようなもの、シチューにしようか? クリームシチューくらいなら、ルーから作るくらいの材料があったはず。
 何だ、やることはいっぱいある。 日常の、考えなきゃならない様々なことが自分を待ってるんだ。 さぁ、この調子でいつもの自分を取り戻そう。





楽しいひと時
    先頭

 私たちは幾つかの店を見てまわった後、最終的に魚料理の店を選んだ。
 席に着き、向かい合って座ると、まずは乾杯した。
「ふう。 それにしても、ホントに久しぶりだな。 それに、こんな所で会うなんて、本当に偶然だよなあ」
 彼の言葉に、一瞬どきりとした。見ると彼は本当に嬉しそうに笑っていて、その笑顔がまぶしくて、つい目を逸らしてしまった。そして、いっそ本当のことを言ってしまおうかとも考えたけれど、その勇気が出せず、話を合わせてしまった。
「そうね……。 私も最初は信じられなかったわ? でも、私のこと、よく覚えていたわね。 もうとっくに忘れてるかと思ってた」
 胸の高鳴りは抑えようも無かったけれど、自然に振舞える様、必死に平静を保ちながら、そして、今回、一番心配だったことを口にした。
「ひどいな。そんなに僕って忘れっぽいと思った? 忘れてなんかいないよ。 中学も、高校も一緒だったじゃないか。 でも、澄田こそ、よく僕のことなんか覚えてたね」
「やあね。 私が忘れる訳ないじゃない。 ずっと覚えていたわ……」
 私が遠野くんを忘れる訳がない。 いえ、いっそ忘れることが出来れば簡単だった。
 けど、それが出来なかったから、こうしてここにいるのだから。 忘れようと努力した日々のことが頭をよぎった。 そのせいか、声のトーンが下がってしまった。
「……」
「え?」
 思わず、聞き返した。今、遠野くんは何て言った? すごく小さな声だった。そして、何故か、彼は不思議なくらいに真剣で、思いつめた様な顔をしていた。
 そう遠野くんの言葉、私には「僕だって……」そう言った様に聞こえた。どうして彼がそんなことを言うのだろう? 私のことなど、単なる「お友達」だったはずなのに?
 けど、彼はかぶりを振ると、手にしたグラスをあおり、そのグラスを置いたときには、元の表情に戻っていた。 何だろう? 何を言おうとしたんだろう? 気にはなったけれど、そのことを追求する勇気がないのは確かだった。
「そうよね。 同じクラスになったことはあまり無かったけど、でも、ずっと同じ学校に通ってたものね。 あれだけの間、近くにいたら、さすがに忘れないかしらね?」
 だから、少し軌道修正した。
「そうだよな。 住んでた場所も結構近くだったしなあ。 そう言えば、一度、家の近くの神社で会ったことがあったよな?」
「え? そうだっけ?」
「何だ、覚えてないんだ。 お祭りでもないのに神社なんかに来るなんて、珍しいなぁと思ったんだけど」
 神社で出会ってた?
 あ。そうだ。思い出した……。
 今まで、記憶の底の方に沈んでいたけれど、一度、神社で出会ってた。 あれは確か、まだ中学生の頃だっただろうか。 私はどうして神社なんか行ったんだろう。高校の合格祈願でもしに行ったのかな。大分危なかったし。
 そう、あの時、確かに妙なところで会うなあ、私もそう思ったんだ。
「あ。 思い出した。 確か、中学三年生の頃じゃなかった?」
「そうそう。 僕は結構、よく行ってたんだけど、他人に会うのって珍しいからさ」
「ふーん。確かに、普段は行かないわねえ。 あの時は、きっと高校入試の合格祈願をしに行ったんだと思う。 私、遠野くんと違ってバカだから、結構、危なかったのよ?」
「へえ? でも、澄田はバカなんかじゃないよ。 それは知ってる」
「え?」
 突然の、その真剣な語り口に、ちょっとびっくりした。
「まぁ、得意科目はそんなに多くなかったみたいだけどな?」
 けど、そうまぜっかえされてしまった。 一瞬、この話題でどこにつながるんだろう。と緊張したけれど、ちょっとほっとした。 だから、軽く返すことができた。
「ふんだ。 いいじゃない、大器晩成なの」
 彼も安心したのか、その表情には笑顔が戻っていた。
「ははは。 でも、今でも時々思い出すよ。 高校の帰り道、時々一緒に帰ったよな? アイショップに寄り道して飲み物買ってさ。 澄田はいつもヨーグルッペだったよな?」
 他愛も無い話題だったけど、でも安心して共通の記憶を確認することが出来た。
「そんなつまんないことをよく覚えていられるわねぇ。そういう遠野君は、いつもコーヒー牛乳じゃなかったっけ?」
「そっちこそ、よくそんなこと覚えてるなあ。でも、コーヒー牛乳、おいしいんだよ? 懐かしいなぁ。 そう言えば、アイショップはまだあるの?」
「もちろんあるわよ。 結構良く行くわよ。やっぱりヨーグルッペよね?」
「僕は、だんぜんコーヒー牛乳がお奨めだけどね?」
 そんな他愛もない会話が嬉しかった。こんな風に話すことは夢だった。
 その後も、食事をしながら昔話で会話がはずんだ。高校の頃にやっていたこと、当時のテレビの話題。サーフィンのこと、これは今でもやってるけど。 そして家で飼っている犬のこと、などなど、とりとめの無い会話だったけれど、そんな会話がとても嬉しかった。

 そして、食事が終わると、お店をちょっと移動して、さらに飲みながら話し続けた。しかも、嬉しいことに、それは遠野くんの方から誘ってきた。何でも、仕事が一段落したから、そのお祝い、完了の前祝をする相手を探してた、ということだった。だから、詳しくは知らなかったけど、乾杯の言葉は「おめでとう」だった。
 私は遠野くんと再会出来て嬉しかったし、彼もまた仕事がうまく行ってるみたいで楽しそうだったし、どちらも嬉しいお酒で、私たちは二人とも笑顔だったけど、特に私は妙にハイテンションで、遠野くんはちょっとあきれ気味になっている様だった。
「遠野くんってば、今日はお休み? 平日の昼間っから公園なんてぶらぶらしてさぁ」
「しかも小学生に見とれちゃってさ? もしかして、変なおじさん?」
 そう言うと、彼の顔から一瞬だけど表情が消えた、すぐに元の優しい笑顔に戻ったけれど、何か触れられたく無いことだったのだろうか?
 少し酔ってる私は、そんな些細なことは気にせず話題を変えた。
 そう、酔ってるからこそ、するっとそんなことを言い出せたのかもしれない。私がどれだけ嬉しかったか、どれだけ酔ってたのか。とにかく、何かが外れていた様だった。
「でもさ、遠野くん。 昔とちょっと変わったよね」
「え……。  そうかな?」
「昔から優しくて、それは全然変わってないけど、高校の頃は一緒に話していても、時々どこを見てるのか分からなかったけど。 でも、今は、私を見て話してくれてるもの」
 そんなことを、本人に向かって言えるなんて、どれだけ酔っていたのだろうか?
「なんか、それがとっても嬉しくて。 だって、前は話をしてても、この人ホントに私と話しているんだろうか? ってちょっと不安だったもの」
 そんなことを言うと、彼はちょっと苦笑いしながら答えてくれた。
「そうだったかなぁ? 高校の頃って本当に毎日を生きるのに精一杯で、周囲のことなんて気にしてる余裕、無かったからなぁ」
 と、そこで手にしたグラスを飲み干すと、笑顔で続けた。
「まぁ、今でもあんまり余裕は無いけどねぇ」
 そう言いながらも、彼は穏やかに微笑んでいて、余裕が無いなんて信じられないと思った。
「そういえば、遠野くんってどんな仕事してるの? だって、平日の今日はあんな時間から公園をぶらぶらしてるし、でも、土日は忙しいって言うし、どんな仕事なの? 普通に会社員って訳じゃないよね?」
 遠野君は一瞬躊躇ったようだったけれど、すぐに疑問に答えてくれた。
「あはは。確かにね。 でも、浮浪者じゃないよ」
 でも、彼が微笑みながら語った内容は、そんなに軽い話には聞こえなかった。
「そう、今はフリーのプログラマだよ。 まぁ、ちょっと前までは、会社勤めのプログラマだったんだけど。 会社で色々在って、何ていうのか疲れちゃったんだ。その、まぁ、精神的にね……。  で、そのまま勤め続けることが出来なくて、この一月で会社は辞めちゃったんだ。  でも、幸い当時の知り合いがプログラムの仕事を世話してくれるんで、その仕事をしながら細々と暮らしてるって訳さ。 でも、おかげで時間は比較的自由に使えるんだ。昼間っから公園でごろごろしてても、締め切りまでにプログラムが出来てれば良いんだからね?」
 ちょっと余裕の笑みって感じで淡々と説明してくれた。でも、会社を辞めることになった原因って何なのだろうか? 精神的に疲れた、と言っていたけれど、何があったんだろう。
 でも、今の遠野君くんからは、そんなことは感じなかった。とても穏やかで落ち着いていて、精神的に何かを抱え込んでいる様にはとうてい見えなかった。きっと、もうすっかり立ち直ったのだろう、と思えた。
 むしろ、精神的に何かを抱え込んでいるのは私の方だった。そもそも、その抱え込んでいるものを何とかするために、ここまで来たんだから。
 けれども、そのことに触れるのはまだ怖かった。せっかく得た遠野くんとの夢の様な時間が、そのことを切り出したら終わってしまうかもしれない。
 そう思うと、切り出す勇気がもてなかった。
 何度、言葉をのみ込んだだろうか? 想いを口にするのがこんなに怖いなんて、やっぱり私は高校生の頃から何も変われていないのだろうか……。
 そう思いながら、私は、とりあえずの会話を続けるしか出来なかった。
「へぇ……。 でも、今日は前祝って言ってたし、今は締め切りまで余裕があるのね?」
 そんな風に軽く返したけれど、彼はとんでもないことを言った。
「実は、締め切りは明後日なんだ」
「え? でも、前祝って……。 あ! そう言えば、土日は忙しいって。 え? 明後日が締め切り?  今日は良かったの? こんなことしてて……」
 私はすっかり驚いてしまった。締め切りを間近に控えた彼をこんな風に連れまわして大丈夫だったのだろうか? 彼の仕事の邪魔をしてしまったのではないだろうか?
「もう、ほとんど出来ててさ、確かに、昨日くらいまではちょっと難しい所があったんだけど、そこも出来たから。だから前祝なんだ。 それに、あとは仕上げだけだから、もうそんなには時間はかからないさ。 多分、あと半日くらいで完成出来るよ。 だから、そんなこと気にしなくて大丈夫。 いい気分転換になったし、それにやっぱり楽しかったから」
 遠野くんはそう言ってにっこり微笑んでくれた。
「なら、いいんだけど……」
 でも、だとすると、いつまでもこうしている訳には行かない。突然、夢の時間の終わりが目の前に迫っていることに気が付いた。
 その後も、しばらくは他愛もない話をして過ごしたけど。
「うーん、さすがに今日はそろそろ帰ろうか……」
 とうとう遠野くんは、夢の時間の終わりを宣言した。
「そうね……。 さすがにちょっと疲れたかな」
 残念ではあったけれど、どうしようも無いと思った。そして、その認識と同時に一気に疲れた気がした。種子島からの到着初日に歩き回って体が疲れた、というのもあるのだろうけど、突然の夢の時間とその終わりに、そして、まだこの先につながるものが何も無い、という状況に落ち込んでしまっている、というのが大きかった。
 私たちは支払いをすませると、まずは遠野くんが私をホテルまで送ってくれた。
 それでも、まだ夢の時間が続いている様な感じだった。お酒を飲みすぎたのだろうか? 体中が火照り、妙な浮遊感があった。
 そんな浮遊感の中、漂うようにホテルまで歩いた。
 と言ってもすぐ近くだったので、あっと言う間についてしまったけれど……。

 ホテルに着くと、フロントで部屋の鍵を受け取った。いつ帰る、というのか。そればかりが気になったけど、彼は帰るとは言わず、なんと部屋の前まで送るよ。と言った。
 まさか、下心がある? 一瞬、そんな想像をしたけれど、何ていうか、まぁ、まさか口に出して言うことは出来ないけど、もし、彼が望むなら、私に拒むつもりはなかった。
 でも、まさか? 遠野くんが?
 そんな不安と期待。多分、期待の方が少しだけ大きい。 そんな妙な緊張をしながら、そして、何故か二人とも無口でエレベータに乗り、部屋の前まで歩いた。
 けれども、さすがにそこでお別れの時間のはずだった。
「今日は本当にありがとう。 楽しかったわ」
 けど、このまま終わりにする訳には行かないと思った。どんなことでもいいから、つながりを作りたかった。 だから、まずは、連絡先を。
 なので、かなり躊躇ったけれど、思い切って切り出した。
「あの……。 良ければ、連絡先、教えてくれないかしら?」
 一瞬の間があったけれど、遠野くんはにっこり笑って答えてくれた。
「もちろんいいよ。 じゃぁ、僕にも澄田の連絡先、教えてくれるかな?」
 私はその提案に表情を輝かせた。
「もちろん! 私の携帯は……」


 そうして、私たちは携帯の番号とメールアドレスを交換した。
 私は遠野くんの連絡先を自分の携帯に登録すると、その携帯を宝物の様に胸に抱いた。まだ、目の前に遠野くんがいたので、ちょっと恥ずかしかったけど、その嬉しさを抑えることは出来なかった。さっきから、漂うな妙な浮遊感があったけど、もう浮き上がりそうだった。
 遠野くんは「じゃぁ、また」そう言って踵を返そうとしている様だった。「なんだ、送り狼じゃないんだ」なんてことも思ったけど。うん、また。 そう言おうとした。

 けど、不意に悪寒を感じた。
 そして、その直後、今度は視界が揺れた様な気がした。
 ふいに自分がやはり相当疲れている、ということに気がついた。
 頬が熱かった。自分の顔はまた真っ赤になっているのだろうか? まだ、遠野くんがそこにいるのに、恥ずかしいな……。
 そんなことを思ったけれど、急に頭の中がぼやけて行く様だった。





葛藤
    先頭

 何だか別れ難くて、何か今後へのつながりが欲しくて、でもそれを言い出せずに、普通ならフロントまでで帰るのだろうけど、澄田が嫌がらないのをいいことに、部屋の前まで一緒に来てしまった。もしかして、このまま部屋に入れてくれるのだろうか? だとしたら、それはどんな意味なんだろうか? ぐるぐると色々なことが、まぁ、かなりの割合で送り狼的な考えが僕の中で渦巻いてしまったのは、仕方が無いことだろう。
 でも、少なくとも僕からそんなことを望んでいい関係ではないと考えていた。
 だからこそ、今後へのつながりを、連絡先の交換を言い出すことも出来ずにいた。
 けど、なんと澄田の方から連絡先の交換を申し出てくれたので、僕の願いは澄田の願いを受け入れる、という形で叶えられた。
 僕は、そのことで浮かれていた。
 が、その直後だった。
 目の前で起きていることが信じられなかった。
 僕と携帯のアドレスを交換し合った澄田が、突然ふらついた。 そう思うと、そのまま倒れていった。それはまるでスローモーションを見ている様な感じで、頭の中では「なんだ? どうしたんだ?」なんて疑問が飛び交ったけど、でも、それとは別に素早く近付き、澄田が倒れる前に受け止めて、支えることも出来た。
 彼女は少し朦朧とした様な感じで、自分の状態を理解してない感じだった。
「…… あれ……?」
 抱きとめてる僕にさえ、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、そんなことを囁いた。
「どうした? 大丈夫か?」
 そう言いながら、彼女の顔を見ると、相変わらず頬を上気させていたけれど、心なしか、先ほどより赤味が増し、顔全体が赤くなっている様にも感じた。
 ふと彼女の額に手を当てた僕は愕然とした。
「熱があるじゃないか!」
 とにかく彼女を寝かさないと、そう思った。幸い、もう彼女の泊まっているホテルだったし、部屋の鍵も彼女が持っていた。多少の迷いはあったけれど、とにかく、今は自分が何とかしないといけない。そう考えた。
「歩ける?」
 そう訊きながら、澄田の顔を見た。
「たぶん……」
 口ではそう言っていたが、息は苦しそうだったし、まっすぐに立つことも出来ない様子だった。おそらく熱で意識が朦朧としてるんじゃないかと思った。
 もう、澄田の部屋は目の前。少し迷ったが、彼女を部屋のベッドに寝かすことにした。
 先ほどまでは、まさか? もしかして? などと、多少浮ついたことを考えたりしていたことは否定しないけど、そんなことは僕の中から吹き飛んでいた。
「部屋の鍵、出してくれる?」
 僕がそう言うと、少しの間があったが、鍵を出してくれた。
 その間は、彼女が躊躇ったせいなのか、それとも反応が緩慢なだけなのか?
 それは判らなかったけど、とにかく彼女はこんな僕を信用してくれた。 だから、僕がその信用を裏切ることは有り得なかった。
「ごめん、勝手に入るよ」
 そう言うと、澄田を抱えたまま部屋の中に入った。
 彼女を支えながら、何とかベッドカバーをめくり、やっと彼女をベッドに寝かせた。

 そして、その時になって初めて、医者を呼ぶべきだと気が付いた。ホテルなんだから、きっと医者がいるだろう。
 フロントに電話して、澄田が熱を出していることを告げ、医者を呼ぶように頼んだ。

 程なくして、医者が現れた。
 簡単に症状を説明し、問われるままに、今日の自分たちの行動、そして彼女は、今日種子島から到着したばかりであることを告げた。
 そんなことを聞きながら、医者はごく普通に、澄田を診察したようだ。
 そして、出した結論は。
「過労でしょうね。 慣れない旅行で疲れていたこと。 東京は種子島に比べればまだ気温も低いでしょうから、それで調子も狂ったでしょう。 そして、ここから代々木公園まで歩いたとすれば、さらに疲れたはずです。 などなど、まぁ諸々の疲れが重なった為でしょう。 一晩ぐっすりと眠れば、明日は元気になると思います。 念のため、解熱剤を置いていきます」
 ということだった。
 つまり、僕が徒歩で彼女を引っぱり回して体力を消耗させたのが一番の原因、という訳だ。
 会いたい、そう思っていた彼女が、突然目の前に現れて、舞い上がっていた。彼女の状態に気を付くことも出来ずに、自分の考えだけで無理をさせてしまった。
 全く、僕は何をやってるんだろう。 澄田を傷つけることしか出来ないのか?

 気が付くと、ベッドから彼女が僕を見ていた。
「大丈夫かい?」
「うん……。 たぶん……。 ……なんだか、あつい……」
「熱さまし、飲むかい?」
「うん……」
 ベッドの上で起き上がった澄田に、熱さましと、コップ一杯の水を渡す。コップを渡すときに触れた手は、明らかに熱を持っていた。

「ごめんね……。 こんなことになっちゃって……」
「何言ってるんだ。 旅行の疲れが残ってる澄田を、引っぱり回して疲れさせたのは僕じゃないか。 僕がもう少し気を付けてれば……」
「ううん。 …… だって、わからなかったでしょ? …… だって、わたしも、きがついて、なかったもの……。 そもそも、わたしが、たのんだこと、じゃない……」
 熱のせいか、途切れ途切れの言葉で、でも必死に反論する澄田が痛々しかった。
「そうかも知れないけど……。 でも、僕もちょっと浮かれてたんだ。 歩いていく、僕がそんなことをを言わなければ、そんなに疲れなかっただろう」
「そんなこと……」
 このまま、こうして話し合っても、何だか謝罪合戦になってしまいそうだし、今の澄田は話すことも辛そうだった。だから、この話題は切り上げることにした。 それは僕の責任逃れの様な気もして、少し後ろめたかったけど、だが、その方が彼女も楽なのも確かだと思った。
「まぁ、とにかく。 まずは直すことを考えようか」
「うん……」
 部屋を見回し、部屋の隅にあった彼女の荷物を見つけると、ベッドサイドに移動させた。
 何か必要なものがあるかも知れない。
「何か飲むだろ? 何本か買ってくるよ。 ちょっと、鍵、借りるよ?」
「ええ……。 ありがとう……」
「ゆっくりしてろよ? じゃ、行って来るよ」

 やはり途切れ途切れだったけど、彼女の返答を確認すると僕は近くのコンビニまで行った。
 タオルは部屋にいっぱいある。 熱さましはもう飲んだけど、額とかに貼るタイプの熱さましもあったはず。 飲み物は、スポーツドリンクかお茶だろうか?
 あれこれ考えながら手早く店内を物色した。
 今、彼女はまだ落ち着いてない。もうちょっと落ち着くまではなるべく目を離したくない、そんな思いが大きく、買い物を済ませると、早足に澄田の部屋までも戻った。

 部屋に戻ると、澄田は目を閉じていたけれど、呼吸のリズムは速く、浅い様だった。 まだ、熱が下がってないのだろう。
「とおのくん?」
 やはり、眠っている訳でも無かった様で、僕が覗き込むと目を開けた。
「飲むかい?」
「ええ、ありがとう……」
 買ってきたスポーツドリンクのキャップを緩め、彼女に渡した。「ありがとう」そう言いながらボトルを受け取ると、何口か飲んだようだった。
「あと、これも」
 そう言い、貼るタイプの熱さましを彼女に見せ、パッケージを開くと、一枚取り出して、彼女の額に貼り付けた。
「あ、気持ちいい……」

 そんなことをしている内にやっと薬が効いてきたのか、彼女の顔から赤味が引いてきている様に感じられた。 気のせいか、呼吸も多少ゆっくりになっている様に感じた。
「少しは楽になったかい?」
 そう訊くと、彼女は目を開け、僕を見て微笑みながら頷いてくれた。
「うん、平気。 もう、今はすごく楽よ」
「良かった……」
 彼女の強がりも多少はあるだろうけど、ある程度落ち着いたのは確かだと思った。
 去り難い思いはあった。 そして、出来れば、翌日以降も会いたかった。予想外ではあったけど、奇跡の様な偶然で手に入れた、再会という出会い。
 何とか、今後につなげて行きたかった。
 だが、そんなことを考えながらも、もう一方で、整理し切れてない明里への想いもあった。大体、冷静に考えると、偶然とは言え澄田本人に出会い、何時間かとはいえ、同じ時間を共有してしまったことで、流されてるんじゃないか? もし、偶然の再会が明里だったら、同じことを明里に対して思ってるんじゃないか? なんてことも頭をよぎった。
 そんな中途半端な状態で、澄田との今後に関して期待するようなことを、僕から申し出るなんてことはありえない。
 第一、それじゃあ、高校の頃と何にも変わらない。中途半端な関係に彼女をつなぎ止めて、また彼女を傷つけることになったりしたら……。
 だめだ。そんなことは絶対に出来ない。 だから、何も言えることはない。
 大体、何を自分の都合の良い様に考えようとしているのか、呆れるほどだけど、今回、澄田は単に観光で来てるだけ。 僕に何かを期待してるはずがない。
 そもそも部屋の前まで付いてきたのも間違いなんだ。

 とにかく、僕が何時までも彼女の部屋に居座るなんてあり得ない。
「大分、落ち着いたみたいだな。 じゃぁ、僕はそろそろ……」
「あ……。 色々ありがとう」
「いいって。 じゃぁ、また」
 そう言い、部屋を出ようとした。
「あ……。 あのね……。 ………」
 その僕を、澄田が呼びとめ、何か言おうとした。 いや、言ったのかもしれないけど、あまりに声が小さくて僕には聞こえなかった。
「え? なに?」
 その言葉を聞き逃さないよう、彼女の近くまで顔を寄せた。 誓って言うけど、他意があった訳じゃない。本当に、ただ彼女の言葉を聞き逃すまい、そう思っただけだ。
 だが、彼女はシーツの裾を引き上げ、顔を半分ほど隠してしまった。
「何か言った?」
 重ねてそう訊くと、彼女はシーツから顔を出し、もう一度口を開いた。 それはやはり、ひどく小さな声で、たどたどしくもあったけど、今度は僕にも聞こえた。
「あのね……。 よかったら、だけど……。 あ、明日も、 ……会える?」
「え?」
 聞こえたけど、僕は聞き返してしまった。あまりに驚いたから。 どうして、と言えば、そんなことを言われるなんて予想外だったから。 いや、それ以上に、僕が言いたくて言えずにいた言葉だったから。
 だが、僕のその反応を、彼女は別の意味に取った様だった。

 そう。 澄田はひどく哀しそうで、落胆している様に感じられた。





希望
    先頭

 全く、私は何を期待していたんだろう……。
「やっぱり、だめよね……」
 遠野くんが優しいから勘違いしそうになった。 相変わらず優しくて、そして以前と違って私の目を見て話しかけてくれて、あんまり嬉しくて勘違いしてた。
 もしかしたら。
 もしかしたら、私の望みは、叶うのかもしれない。 なんて。

「明日は、お仕事なんですものね……」
 違う。 仕事だからじゃない。 私など、たまたま暇で、気分のいい時に、そんな時に出会ったから、久しぶりに高校時代をちょっと思い出して、その思い出話に興じただけ。
 一夜明ければ、彼は彼の世界に戻っていく。 私など、かろうじて彼の思い出の片隅に留まるのが精一杯。彼の現実の中に、私の居場所なんてない。
 調子に乗って、過ぎた望みを口にしまった自分が恥ずかしい。
 でも、その望みを叶えたくてここまで来たのも確か。
 そう。だから、そんな望みを口にする前に、ちゃんと想いを告げるべき。ここまで来た理由は正にその為なのだから。
 そんなことを思いながらも、私はシーツの裾を引き上げた。遠野くんが私を見つめているけれど、突然、馬鹿なことを言い出した私に、きっと呆れているに違いない。もう、出来ることならベッドの中に隠れてしまいたい。
 けど彼の表情は複雑だった。
 驚き、困惑するような表情で私を見詰めていた。 きっと、どう言おうか悩んでいるんだろう。どう言ったら、私を傷つけずに断れるか、そんなことを考えているんだろう。
 彼は私との関係なんか望んでないんだから……。

「澄田……。 僕は……」
「いいの!」
 そして、彼がその重い口を開こうとした時、私は彼の言葉を聴きたくなくて、彼の言葉を遮ってしまった。いや、ちょっと違う。もちろん彼の言葉が怖かったのは確か。だけど、本当は違う。このまま何も言えずにいたら、それじゃ高校生の頃の繰り返しにしかならない。
 私からきちんと言わなきゃ、きちんとぶつからなきゃ私自身が変われない。
 だから、私から言いたかった。
 少し深呼吸をして、心と体を落ち着けると、思い切って口を開いた。思い詰めていたせいか、ちょっと硬い口調になってしまったかもしれない。
「遠野くん。 私、あなたに言わないといけないことがあるの」
「な、なんだい?」
 私の口調のせいか、彼が身構えた様に感じた。何から言えばいいんだろう?
「あ、あのね。 今日はね。 えっと……。  楽しかった」
 私ったら、何を言ってるんだろう。 でも、止まらない。
「だって、遠野くんと一緒に歩くのなんて、本当に久しぶり。 一緒に歩いて、おんなじ物を見る。全然大したことじゃないけど、それが嬉しかったの。 それにね、実は……」
 ここで一歩踏み込まないと、永遠に踏み込めないかもしれない。
「私、今日は観光に来たんじゃないの」
 言えた。 まずは突破口は開いてしまった。

「え……。 でも……。 じゃぁ……、 なんで……?」
 その、私の言葉に彼は何故か動揺していた。もっと「へぇ、そうなんだ。 何か用事でもあったの?」なんて軽く訊き返されてしまうかもしれない、そう思っていたけど。
 そう言えば、今まで、こんな風に動揺している遠野くんなんて、見たことなかった。
 どうしてだろう? でも、そのおかげで、私は少し落ち着くことが出来た。
 そして、とうとう言ってしまった。
「遠野くんに会いに来たの」
「え?」
 その時こそ、彼の表情の変化は先ほどに比べてよほど複雑だった。
 相変わらず困惑しているような表情。驚いている表情。 そして、時折覗く笑顔。 けど、すぐに困った様な落胆した様な表情に……。
 どうしてだろう? 彼は、私の言葉に何を思ったのだろうか……。
「どうしても会いたい。 今、会わないと私自身が壊れてしまいそうで、それで、結果がどうなるとしても、会わないと。 そう決心して、あなたに会いに来たの」
 そう言うと、まっすぐに遠野くんを見詰めた。
 ここまで言うことで、私にはもう秘密はほとんどなくなった。 もう、後戻りも出来ない。そう感じることで、開き直りともいえる落ち着きも生まれていた。
 そして、心に秘めた気持ちを、消そうとしても消せなかった気持ちを言葉に。
「私、今でも、あなたが……」
「待って」
 けど、その言葉は彼に遮られてしまった。
 あぁ、結局は高校の時と同じ。 私がどんなに告白したくても、彼はその言葉を聞くつもりはないんだ。 聞いてももらえないんだ……。
 そう考え、がっくりと肩を落とした。
 決定的だ。
 彼の気持ちは何も変わってなどいない。私など眼中にない。いえ、入れる気もない。

 けど……。
 ふと気付くと、彼は真っ直ぐに私を見ていた。 え……。
 何かが違う。あの時とは、私が告白できなかった、させてもらえなかった、あの時とは何かが違う様に感じられた。 彼の視線には戸惑いが、表情が合った。 あの日の視線からは何も感じられなかったけど、この視線からは彼の戸惑う気持ちが感じられる様な気がした。
 けど、戸惑いは感じられたけど、それ以上読み取るのは難しかった。 それでも十分に感じられたのは、彼は悩んでいる、ということだった。
 私は、そんな彼を見詰めたまま、言葉を失ってしまった。 彼もまた無言だった。
 でも、彼は私を見てくれていた。 お互いの視線は絡み合っていた。
 それは、あの日とは確実に違っていた。
 あの日の沈黙は哀しかった。 けど、この沈黙は、何故か希望が持てる気がした。
 だから、そんな沈黙の中、私は彼の言葉を待った。
 きっと、この後のやり取りはお互いをぶつけ合うことが出来る。 やっと私の気持ちの行き場が出来る。なぜかその確信を持った。

「僕には、君の気持ちを受け止めることが出来ない」
 終わった。 やはり期待通りになる訳じゃなかった。
「今の僕には、君の気持ちを受け止める資格がないんだ。 だから……。 その……。 僕がこんなことを言うなんて、そんな資格はまるでないんだけど……。 つまり、その……」
 けど、続く言葉は不思議だった。 何か違うことを言おうとしているのだろうか?
 私は緊張と不安の中、続く彼の言葉を待った。
「僕に、少し時間をもらえるだろうか? ……」
 彼の言いたいことが判らなかった。 けど、希望の光が瞬いている様に感じられた。
 そう。 少なくとも、彼は私の告白を拒絶したんじゃない様だった。 理由は判らないけど、今は聞けない。 ってことは……? もしかして、今じゃないなら? もう少し時間が経ったら、私の告白を聞いてくれる、ということだろうか?
 それってどういうことだろうか? 断るために言わせるだけ言わせる? 私としては、それでも仕方が無いと考えていたけれど、でも、彼がそんなことを言う理由はないはず。
 じゃぁ、どうして?
 その、本当に期待していいのかどうか……。 一度考えてしまうと、止まらないけど、でも、私の気持ちを受け入れてくれる可能性がある、そういうことなんだろうか?
 私の中のつたない理屈をつなぎ合わせると、そんな信じられない可能性に行き着いた。
 本当に? そんなことを信じていいのだろうか?
 一度、舞い上がると、地面に叩き落されたときの衝撃は大きくなる。 だから、期待なんかしない方がいい。後で流す涙が増えるだけ。そんな理性の声もあったけど、私の真ん中の想いはそんな理性の声に耳を貸そうとはしていなかった。
 希望が見える。 その希望にすがりたかった。 元から僅かな可能性しかないのは判ってる。それでもいいから希望にすがりたい。 すがって、ダメだったら、今度こそ諦められる。
 だから希望を。





過去から未来へ
    先頭

 お互いの中で、どんな気持ちが、考えが飛び交ったのか、それは判らない。
 けど、結局、遠野くんは私に希望をくれた。

「僕に、そんなことを言う資格がないってことは十分に知ってるつもり。 高校の頃に澄田にした仕打ちを考えれば、それが当然だと思う。 一体どれだけ、僕が君の笑顔に救われていたのか? けど、僕は君に告白さえ許さなかった。恋人にはなりたくなかった。けど、君を失いたくもなかった。 でも、そんな中途半端な気持ちで、僕は一体どれだけ君を傷つけてしまったんだろう? そう考えると、僕が君に何かを期待するなんてあり得ない……。 でも、それでも、勝手なことを言うと、もう少し僕に時間をくれないだろうか……」
 彼が何を言いたいのかよく判らなかった。けど、幾つかの言葉を拾い出すことは出来た。
 私の笑顔に救われた。 私を失いたくなかった。
 その二つが本当なら、そして、もう少し時間をかけることで新たな可能性があるなら。それなら、私は可能性を追いかけたかった。
「遠野くん……。 私は、高校生の頃、私は遠野くんの役に立てていたの? もしそうなら嬉しい。 今まで、何もわからなかったけど、でも、もしそうなら、そして、これからも、もし私が遠野くんの役に立てるなら、私は役に立ちたい。 そして、傍にいたい。 その可能性があるなら、私は待てる。 もう何年も独りで待ったんだもの。 それが少し伸びるくらいなんでもない。 あなたを見ながら待てるなら、何にもつらいことはない。 私、待ってもいいの? 約束なんか無くていい。 私、待ちたい」
「澄田……。 ありがとう……。 そんな風に言ってくれるなんて、すごく嬉しい。 僕の勝手な希望だけど、澄田に待ってもらえるのが一番嬉しい。 けど、情けないことに、僕はすごく中途半端なんだ。 結局、高校生の頃と変われてなんかいないんだ。ただ、そのことに気が付いて、前に進みたい。 そう考えているだけなんだ」
 そう言いながら、彼は私を真っ直ぐに見詰めてくれた。 苦しそうな表情で、苦笑いすらなかったけれど、私を真っ直ぐに見詰めてくれた。
 だから、私は笑顔になれた。
「ううん。遠野くんは変わったよ? 私の目を見てくれるもん。 高校の頃はそうじゃなかった。けど、今は私の目を見て、そして話してくれる。 それだけ? って言うかもしれないけど、それはすごく大きなことだし、すごく嬉しいもん」
「ありがとう。 でも、僕の真ん中は結局あの頃のままなんだ。 その、つまり、小学生のときに好きになった女の子を、今でも忘れられない……」
 薄々知っていたことだった。
「澄田には全てを話さないといけないと思う。 いや、出来れば聞いて欲しいんだ。僕の言い訳にしかならないことだけど、出来れば聞いて欲しい」
「うん。 私、聞きたい。 遠野くんのことを知りたい。 教えてもらっていいかしら」
「もちろん、ちょっと長くなっちゃうけど、良ければ聞いて欲しい」
「ええ。 あなたのこと、聞かせて?」

 それから彼が話してくれたことは、ほとんどのことは予想通りのことだった。予想していたことに具体的な内容が与えられた。それが大半ではあった。
 けど、予想もしていなかったこともあった。
 予想通りのこととしては。
 遠野くんは小学生の頃にお互いの転校で出会った女の子、明里さんを好きになっていた。そして、少なくとも小学生の頃、二人の気持ちは一つだった。
 そう。具体的な根拠はなかったけど、あの遠野くん東京彼女説は本当だった訳だ。
 けど、お互いの転校は、今度は二人を引き離すことになってしまった。
 明里さんは栃木へ、遠野くんは私の居る種子島へ。 私が東京は信じられないくらいに遠いと思ったのと同じで、二人にとっても、その距離は絶望的に遠い距離だった。
 それでも、二人は文通することでお互いの気持ちを繋ぎ止め様とした。
 ある時点までは、それはうまく行っていると思えた。 けど、結局、文通では二人の間に生まれた距離を越えることは出来ず、結局、二人の文通は途絶えてしまった。
 その時、思わず口を挟んでしまった。「それって、高校二年生の夏くらいだった?」 けど、私のその言葉は彼を随分と驚かせた様だった。
 でも、私は知っていた。それくらいの時期に彼が酷く動揺していたことを知っていた。
 そう。それ以前から冷めた感じは強かったけれど、それまでは孤高というか、自分で自分を支えている感じがあった。けど、その時期を境に、何かを探している感じがした。何かを失ってしまった彼の目はより遠くを見る様になった気がしていた。そして、私がその何かになれたら、そう思っていた。
 だから、その時、私は遠野くんといる時は無理にでも笑っていようと思っていた。私なんかの笑顔が彼の助けになれるかどうか、自信なんてなかったけど、でも、そうしたかった。
 とにかく、その時期、彼が大切にしている何かに変化があった。それは知っていた。
 遠野くんの告白は続いた。
 文通は途切れてしまったけど、彼は明里さんを諦めることは出来なかった。忘れることが出来ず、でも叶えることも出来ず。彼の気持ちは行き場を失い、心を閉ざしてしまった。
 そして、東京に戻ってきた後も、心を閉ざしてしまった彼は、明里さんに連絡をとることが出来ず、行き場の無い気持ちを抱えたまま、ただ彷徨うに様に生きてきた。
 何人かと恋愛をした、したつもりだったけど、どこか本気になれていなかったのか、何かがずれてしまい、気が付けばいつも独りになっていた。
 まるで、私自身の想いをなぞる様な彼の体験は、痛々しかった。
 そして、去年くらいから仕事の内容に疑問を感じ始めてしまったことも重なって、自分を支えることが出来なくなってしまい、今年の一月に会社を辞めてしまったこと。
 そんなことを語る、彼の淡々とした口調も、そのことを乗り越えることが出来たからなのか、それとも、まだ、彼が心を閉ざしたままだからなのか、それも判らなかった。
 どちらにしても、最近の仕事のことは別として、ある程度は予測していたことが具体的に語られたことがほとんどだった。
 それでも、そんなことを私に打ち明けてくれたことが希望だと思えた。
 そして、彼の気持ちは痛いほどにわかった。
 だって、私も同じだったから。 叶うとは信じられないけど、忘れることも出来ない。行き場の無い気持ちのつらさは、私自身がよく知っていた。
 そして、私が予想もしていなかったこと、そして何よりも私に希望をもたらしたことは、彼のこんな言葉だった。
「あの当時、明里との文通が途切れて、もう何も見えてなかった。 けど、澄田の笑顔だけは見えていた。 あの笑顔があったから、僕は普通を装うことが出来ていた。 澄田が居てくれなかったら、僕はきっとおかしくなってたと思う」
 私が役に立てていたなんて……。 それも遠野くんを支えることが出来ていたなんて、そう。私は遠野くんに必要とされていたんだ。そう思うと、それがどんな形であろうと、それ以外に、彼から何ももらえなくてもいい。
 私は彼に必要とされていた。そのことだけで十分に報われた。
 だから、続く彼の言葉は、ずっと穏やかな気持ちで聞くことが出来た。

「つまり、僕はまだ明里のことを振り切れてない。 明里のことは、もう無理なんだ。それに何年も会ってないし、お互いにお互いの知っている相手じゃなくなってるんじゃないか、そう考えながらも、この間、踏切ですれ違ったとき判ってしまった。 判り合えるんじゃないか、そんな期待もし始めてる。 想いを整理したい、そう言いながらも、望みを持ちたがってる。もう、自分でも嫌になるくらいに情けない」
 その彼の気持ちはよく判った。そして、その気持ちを諦めるべき、なんてことを私には言えなかった。それは、私の彼への気持ちを諦めるべき、というのと同じだったから。
 結果がどうなるにしても、まっすぐにぶつからないとどうすることも出来ない。逆に、ぶつかると決めると、それだけで前に進むことが出来る。
「私なんかが言うのもなんだけど、一度明里さんに会うべきだと思う」
 だから、私はそう言った。 私がここにいる理由でもあったから。
「やっぱり、そうだよな……。 そうしないと、結局どこかで引っかかったままになる、そんな気はしてるんだ。 だから、今の仕事が一段落したら彼女と連絡を取ろうと思ってたんだ。そして、彼女のことが整理できたら。 そうしたら……。 そうしたら、澄田、君と会いたいと思ってた」
「え?」
「今、こんな状態で言うのは、自分でもおかしい、そうは思うんだけど、僕は君の笑顔に救われてきたんだ。 なのに、僕は君に何をした? 気持ちを知りながら、それを無視して、告白することも許さずに、曖昧な関係に繋ぎ止めてしまった。 まずは、そのことを謝りたかった。そして、口にするのも恥ずかしいくらいに無節操なんだけど、その、つまり、君との関係を新しく作り直したい。 そう願ってるんだ。 何を今さら。 そう呆れられても、どう詰られても、それは僕がしでかしたことだから仕方が無いけど、でも、本当なんだ。 君の笑顔が忘れられない。 君の笑顔に、君にそばにいてほしい。 そう思ってた……」
 まさか……。 その希望を、信じてしまっていいのだろうか……?
「だから、あの公園で出会った時は、本当に驚いた。 そして、動揺したんだ、なんで今。明里との気持ちを整理してからだったら、せめてもう少し真っ直ぐに君に接することが出来る、そう思ってたけど、今の状態では中途半端すぎて、何もいえない。 でも、それでも、あの偶然を逃したくなかった。 奇跡だと思った。 けど、今はまだ高校の時と変わらない……」
 私と遠野くんの心は少しだけ違っている様だった。
 でも、二人の気持ちが目指していることは同じことの様に感じた。そしてやはり、どんな答えを出すにしても、自分の気持ちに正直に、真っ直ぐにぶつかって得た答えじゃないと自分を納得させることが出来ない。
 だから、遠野くんはまずは、明里さんとぶつかり合わないと前に進めない。
 もし、万が一、それで遠野くんと明里さんが昔の関係を取り戻してしまったら? そうなったら、それはもう仕方が無い。 私としては哀しいけれど、でも、きちんと泣いて、きちんと諦めることが出来ると思う。 たとえ結果がそうなっても、それを目の当たりにすれば、私はここに来てよかったと言うことが出来る。
 それに、もう、私は十分すぎるくらいに報われる言葉を聞いた。
 どんな結果が出ても、私は前に進める。
 だから、彼にも前に進んで欲しかった。 それが、明里さんとの関係を取り戻すことに繋がるのか、それとも私の前に立ってくれるのか……。
 そのどちらでも、彼が後悔しない様にしてくれるのが一番。そう思った。
「ね。 遠野くん。 私は、今すごく嬉しい。 だって、私はもう、どんな答えが出ても前に進める。 そう判ったから。 だから、私は遠野くんを全面的に応援する。 明里さんに会いに行きましょう? そして、全てはそれから考えましょ?」
「澄田……」
「私も同じなのよ。 私はあなたが好き。それは結局変えられなかった。 そして、その気持ちを抱えたままでは辛くて、そのままでは自分が壊れてしまいそうだったの。 ならば、たとえどんな結果になろうとも確かめないとダメ。そう心に決めて、ここに来たの。 けどね、確かめる。遠野くんに会う。 そう決めただけですごく楽になったわ。 そして、実際にあなたと話すことが出来て、もう十分に楽になれた。 私は、もうどんな結果でも受け止めて前に進むことが出来るわ。 だから、出来ればあなたにもそうして欲しい」

 何を言ってるんだろう。明里さんのことを抱え込んだままでもいいから、それでもいいから、私と一緒にいて欲しい。それが私の願いのはず。 もし、その想いに正面からぶつかって可能性が見えたら? もし、彼の想いに可能性が見えたりしたら、私は……。
 そう。私は可能性が見えた。
 だとしたら、遠野くんの想いにだって可能性は見えてしまうかもしれない。ならば、そんな可能性は追わずに、私と一緒に……。 私は受け止められるから……。
 そう言いたいはず。
 でも、言えなかった。 それがどれだけ辛いか、私自身がよく知っていたから。
 私たちは無言のまま、じっと見詰め合っていた。

 ふと彼が苦笑した。そして、見るだけで頬を染めそうなほどに優しい表情になった。
「澄田はまっすぐだな。 本当に相変わらず、だな。 それがまぶしいよ。 そして、改めて思うよ。 澄田は優しい。 自分のことを棚に上げて、そんなにまで人のことを? 君に想われたら、それを受け止めることが出来たら……。 そう出来たら幸せだろうな」
 遠野くんってこんな顔もするんだ……。
 私は陶然としながらそんなことを思った。こんな風に私をすっぽりと包み込んでしまう様な優しさは、その新たに感じた彼の一面は、彼が変わったことを感じさせた。
 いいな。 素直にそう感じた。
 そんな遠野くんに想われてる明里さんが羨ましかった。





揺れ動く心
    先頭

 明里は、余計なことを考えないように体を動かし続けた。
 そして、それは成功した様に思えた。
 夫が帰ってくる頃、クリームシチューはちょうどいい感じにとろみが付いた所だった。
 着替えた夫がリビングで新聞を広げてる間に、下拵えをしてあったサラダを仕上げ、デザートのりんごも剥いて皿に盛り合わせた。 これでワインでも添えれば立派にディナーだ。
 残念ながら、ワインまでは用意できなかったけど。
「さ。 出来たわ」
 その呼び声にテーブルに着いた雅和さんは、明らかに驚いていた。
「あれ? 今日って、何か特別な日だったっけ?」
「ううん。 別にそういう訳じゃないけど、今日はちょっと暇だったから、いつもより手間をかけてみたの。 このシチュー、ルーから作ったのよ?」
「へぇ、凝ってるなぁ……。 おいしそうだ」
「ふふ。 それは食べてのお楽しみね。 じゃ、いただきましょ?」
「あぁ、いただきます」
 そんな会話を交わしながら、テーブルに着いた。もうすっかりいつもの自分だ。
 雅和さんと一緒の食事は楽しかった。 雅和さんは、今日一日のことを語りながら、私はその話に頷きながら、テレビから流れる番組についての感想をはさんだりしながら、楽しく言葉を交わした。それは心が緊張から開放された安らいだひと時だった。
 けど、雅和さんの何気ない一言に、明里は一気に緊張が高まるのを感じた。
 そう。テレビのニュースを見ながら、雅和さんは何気なく。 本当に何気なく口にした言葉なんだと思う。けど、その言葉は明里にとっては特別なことだった。
「お。 花見か、いいね。 桜、見ごろだよな。 今度、桜でも見に行こうか?」
「そ。 そうね……」
 自分の表情が強張るのが分かる気がした。 止まってはいけない。ここで止まったら、考えてしまったら深みにはまる。 手を、口を動かし続けなくては……。
 スプーンがカチャカチャと音を立てるのがひどく気になった。
 ああ、どうしてこんなに耳障りな音がするんだろう? 雅和さんが不審そうにこちらを見ている。自分のスプーンの音がうるさいのだろうか?
「……。 明里。 何があったんだい?」
「え? ……。 あ、ごめんなさい、うるさかった?」
 咄嗟にそう答えたけど、雅和さんの言ったことが別のことだとは分かっていた。けど、そのことを考えてはいけないと思った。考えれば考えるほど罠にはまっていく。抜け出せなくなる前に考えるのを止めなければいけない。
 そんな自分の答えから、雅和さんは何かを感じたようだった。しばらく無言で見詰められたけど、やがて、雅和さんの表情は、どこまでも優しい感じの微笑みになった。
「明里。 全てを話して欲しいとは言わない。 けど、一応言っておくと、僕はいつでも待ってるから。 吐き出して楽になれるなら、僕を使ってくれればいい。 ちなみに、どんなことを言われても受け止められるつもりだから」
 明らかにおかしい自分、そして、先日、その原因に関しては既に雅和さんに告白している。きっと、どうしてなのか、は大体分かってるはず。 であれば、普通なら、どういうつもりなのか、何があったのか、問い質さずにはいられないんじゃないだろうか? それでも、じっと待ってくれている。自分が、自分から解決しないと、結局何かが残ってしまう、それを分かっているのだろうか? そして、それを待ってくれる、というのは、それは雅和さんは自分を無条件に信用してくれている、ということ。
 その信頼に、優しさに応えたい。 明里はそう思った。
 そうすることが自分の本当の望みに、幸せにつながるはず。 そう考えることが出来た。

 やはり考えないといけないのだろうか……。
 確かに、自分で向き合って、きちんと結論を、いえ、自分の気持ちにきちんと決着をつけないといけない。考えるのを止め、自分の気持ちをごまかし続けたとしても、それでは、何時まで経っても何も変えられないかもしれない。
 それでは自分が耐えられないかもしれないし、それに雅和さんに対しても不誠実だ。
 それでも、その日は日中から体を動かし続けていたので、夕食を食べ、後片付けを終える頃には、もう体全体が疲れてだるい感じがしていた。 雅和さんに続いてお風呂から上がった時には、もう髪を乾かすのもどうでもいい、そう感じるほどだった。
 明日にしよう、今、この状態で考えてもきちんとは考えることは出来ない。幸い、あの想いは今は自分の片隅で、微かに燻っているだけ。 ぐっすりと眠って、すっきりとした頭で、きちんと考えよう。
 そう。とにかく、明日にしよう。 朝日を見れば、きっと新しい活力が沸くはず。
 自分にそう言い訳をすると、ベッドの雅和さんの脇にもぐりこんだ。
 雅和さんは、何かを読んでいる様だったけど、自分は何もする気力も残ってなかった。
「おやすみなさい……」
 そう言うと、目を閉じた。
 となりに感じる温もりが心地よかった。
 ほどなく、意識は遠くに消えて行った。 少なくとも、寝つきの気分は良かった。
 だから、油断しきってしまったのかもしれない。


 ここはどこだろう?
 真っ暗で何も見えない。 空から何かが降ってくる。 ということは、ここは外なのだろうか? ひらひらと舞い、ゆらゆらと落ちて来るそれは、まるで雪みたいだと感じた。
 何かが見えた。近付いてみると、それは何かの木だった。何も花は付けていない。 相変わらず、雪が舞い落ちてくる。それは雪の様でもあり、桜の花の様でもあった。
 あぁ、桜だ。
 この木は桜だ。 そう気が付くと、周囲は桜の木でいっぱいだった。
 すごい。 これだけの桜が、しかも全てが満開。周囲を満たしているものが雪なのか、それとも舞い散る桜の花なのか、やはりそれは分からない。

 あ……。 誰だろう? あちらの木の下に小さな女の子がいる。小学生くらいだろうか?
『その子に近付いてはダメ』
 そんな声が聞こえた様な気がした。でも、その子はひどく悲しそうに俯いている。
 放って置く訳にはいかない。
「どうしたの?」
 俯いていた、その子が見上げてくる。 どこかで見たことがある様な顔。
「行きたくない」
 その子は、泣きはらした目で、まだ止まらない涙を拭いながら訴えた。
「離れたくない。 一緒に居たいの」
「無理よ」
 突然の声に、その方を振り向く。
「あなたにはどうすることも出来ないわ」
 セーラー服を着たその少女の、何かを諦めたかの様なその表情は苦痛に満ちていた。
「でも……。 …… せめて、いつかまた一緒に……」
「人には時間と距離は越えられないのよ」
「でも、僕は超えられると思ってた」
 え? 新しい、でもどこか聞き覚えのある声。振り向いてはいけない。 そう考えたけれど、既に手遅れだった。 反射的に振り向いてしまった視線のその先に、その男の子はいた。
 学生服を着た、その少年は、ひどく悲しそうで、泣き出しそうな目で、それでも、何かを信じたい。そんな目をしていた。
「超えることは不可能よ」
「心さえ一つなら、超えられるはずじゃないのか?」
 いつのまにか、セーラー服の少女と学生服の少年が自分を挟んで会話している。
「そうかもしれない。 でも距離は、時間はその心さえ引き裂くわ」
「でも、信じることが出来れば」
 聞いてはいけない。 これ以上聞いてはいけない。 けど、どんなに耳を押さえても、目を閉じても、その声も、姿も消えてくれなかった。
「無理よ。 自分に、それだけの価値があるなんて信じられないから」
「僕だって自信がない」
「私なんかをいつまでも想ってくれるなんて。 無理よ」
「「こんなに好きなのに」」


「だめええ!!」


 飛び起きた私は汗でびっしょりだった。
 寝室は静まり返っていた。あの叫びは誰があげたのだろう?
「大丈夫か? うなされてたぞ?」
 となりから、雅和さんが心配そうに覗き込んでいることに気が付いた。
「えぇ、ちょっと変な夢を見ちゃって……。 ちょっと何か飲んでくるわ」
 そう言い繕うと、寝室からリビングに逃げ出した。
 けど、結局自分自身からは逃げることなど出来ない。 もう一度眠ったら、またあの夢を見てしまうのだろうか? もう、眠りにさえ自分の安らぎはないのだろうか……。
 リビングから、少しカーテンを押し開け、活動を始めようとしている街を見た。
 地平線がオレンジ色に染まり始めている。 そろそろ夜明けだ。
 自分は、貴樹への想いを諦められるのだろうか? そして、貴樹から想われていたとしたら、それを切り捨てられるのだろうか?
 その答えが分からなかった。自信がなかった。
「……」
 言葉にならない嗚咽が漏れた。
 突然、後ろから何かを掛けられた。それは私のセーターだった。
「風邪引くぞ」
「あなた……」
「私、自分が判らない。 どうすべきなのか、いえ、どうしたいのかすら判らない……」
 夫はそっと、私に寄り添ってくれた。抱き寄せられた訳じゃないけれど、それでもこれ以上ないくらいに近い位置。夫の温もりが、自分に寄り添うように佇んでいた。
 けど、それだけで、たったそれだけで、少し呼吸が楽になった気がした。何かを問い質される訳ではなく、話しかけられる訳でもなく、ただそっと寄り添う。 その空気から夫の柔らかい温もりが伝わって来るように感じられた。
 その温もりに、つかの間、安らぎを感じた。

 まだ、貴樹への想いが整理できた訳ではなかった。逆にその想いがあることがはっきりと分かってしまったと思った。昼間感じた、あのどす黒い嫉妬の思い。幸い、今はあの時ほどの激しい思いは感じなかった。 だから、冷静になれば、きっと正しい道が見える。
 そう。それは、正しいだけじゃない、それこそが自分が本当に望んでる道のはず。
 あの、雪の夜は正しさが自分の望みにつながるとは思ってなかった。 けど、それは違ったのかもしれない、そう考え始めていた。
 それぞれの境遇の中で精一杯に生きる。それが正しくて、実はそれこそ、自分が、そして貴樹が望んでいたことなんじゃないだろうか。
 今は、まだそこまで割り切れていない。
 久しぶりに感じた想いが、あまりに鮮やかで、まぶしくて、そして、自分の中にある、これまでは思いもしなかったさまざまな面を改めて意識することになった。
 けど、そんなことと正面から向き合って行けば、きっと自分は、より深い安らぎを手に入れることが出来る。それこそが、本当に望んでいることのはず。 そして、それは貴樹もきっと同じはず。一時の激情に流されて、その本当の望みを見失ってはいけない。
 もっと、自分をしっかりと持たなければ。 貴樹との関係に拘ることは決して自分が本当に手に入れたいものとは限らない。その為に、今の自分の何かを捨てなければいけないのだとしたら、何かを取り違えてるのではないか? 自分の本当の宝物は何なのか?
 きっと、周囲の人ときちんと向き合って付き合うことが出来るということ。一方的に怯えたりせず、自分の殻など作らないこと。そして、そうやって作り上げてきた今の自分。
 それこそが、貴樹との出会いで手に入れた、本当の宝物のはず。
 ならば、その宝物を見つめて、様々なことに、怯えることなく正面から向き合おう。
 そう思いついた瞬間、自分の中で何かが変わった様な気がした。まだ、ほんの少しだけだけど、確かに何かが変わった。顔が少しだけ上を向いた様な気がした。それまでは俯くばかりだったけど、ほんの少しだけ前を向けた気がした。

 ふと、となりに佇む雅和さんが、微かに微笑んだ様な気がした。





歩み行く先
    先頭

 一体、澄田はどれだけ僕のことを想ってくれているんだろう。
 高校の頃、彼女は明里のことなんか知らなかったはずなのに、明里と文通が途切れた時期をぴたりと当てた。そして、そんなことに気が付きながらも、僕に笑顔を向けてくれていた。
 それなのに、僕は一体何をしてきた?
 そんな彼女の好意をいいことに、それにすがり、利用するだけ利用して、彼女の想いに気が付きながら、無視して……。 改めて自分のしてきたことが信じられなかった。
 もし、自分が明里からそんなことをされたとしたら? 僕は耐える自信がなかった。
 そのことを考えるのに、未だに明里を引き合いに出してしまう自分が情けないとは思ったが、そうすることで、当時、澄田の感じた痛みを、僕のしてしまった仕打ちを生に感じることが出来た。なのに、澄田はそんなことも飲み込んで、僕を好きだと言ってくれている。
 その、信じられないくらいに優しい言葉に、僕は彼女の想いの深さを感じた。
 そして、どんなに格好悪くても、今はまだ、明里への想いが燻っているとしても、彼女を失いたくないと思った。
 既に高校時代のことはさらけ出した。けど、単に僕のことを話しただけ。僕のしてしまったことへの謝罪はしてない。
「今さら、だけど……」
 そう切り出した僕を、彼女はまっすぐに見詰めてきた。
「なに?」
「僕は、まず謝らなきゃ。 高校の頃のことを。 澄田の気持ちを知りながら、利用するだけ利用して、告白すら許さずに、曖昧な関係に繋ぎ止めてしまったことを」
 それまで、澄田はベッドの上に起き上がり、僕はその脇で立っていたけれど、どうしても、僕の方が上から語りかける形になっていた。でも、そんな視点で言える言葉じゃなかった。
 僕はベッドの脇に座り込み、頭を下げた。
「ごめん! 今さら謝って済むことじゃないのは判るけど。 でも、謝らずにもいられない」
「ちょ、ちょっと。 止めてよ。 立ってよ」
「当時、僕が君にした仕打ちがどれだけ酷いことだったか、自分のことに置き換えて考えてみることで、今になってやっと思い知った。 僕だったら耐えられなかったと思う」
「もう。 大げさだなぁ……。 私は好きなっちゃったけど、遠野くんは友達で居たかった、それだけじゃない。 それに、当時、私は全然酷い目にあったとは思ってないわ? 一緒に過ごせた時間は、今でも私の宝物よ」
「澄田……」
 なんて強いんだろう。 その強さがまぶしかった。
「もう、立ってよ。 落ち着かないじゃない」
 澄田が苦笑しながら、繰り返した。
「わかったよ」

 立ち上がった僕に、恐る恐る、といった感じで澄田が訊いてくる。
「で、明里さんとは連絡とれるの?」
 僕は苦笑するしかなかった。
「はっきり言って、判らない。 先日、この辺ですれ違ったから、もしかしたら、今はこの辺に住んでるのかもしれないけど、それがどこか知らないし。 まぁ、栃木に手紙を出すくらいしか思いつかないなあ」
「そうなんだ……。 でも、最近、出会ったんでしょ?」
「あぁ、あれは出会ったとは言わないよ。 踏切ですれ違っただけだよ」
「でも、踏切ですれ違った時、遠野くんは明里さんが判ったのよね? 明里さんはどうだったのかしら?」
「さぁなぁ。 確かに向こうも振り向いてる様だったんだけどなあ。 電車が通り過ぎたら、そこには誰も居なかったんだ。 やっぱり気が付かなかったんじゃないか?」
「そうかしら? だって、振り向いてたんでしょ? すれ違って振り向くってことは、何かを感じたってことだと思うけど。 確かに、遠野くんと気付いたのかどうかは判らないけど、でも、何かが引っかかったんじゃないかな。 何だか見たことがある様な気がするけど、誰だったかしら? ってね」
「でも、電車が通り過ぎたら居なかったんだよ?」
「そうね。 だから、何かが引っかかったけど、特に気にすることじゃないって思ったのかもしれないけど。 でも逆に、ちゃんと思い出したけど、でも、会うのが怖かった。 そんなことなのかもしれないわよ?」
「はは。 澄田は想像力が逞しいなあ?」
「だって、遠野くんは気が付いたんでしょ? 明里さんだって、状況は同じじゃないの?」
「ま、まぁ、そうなんだけど……」
「どうしてかなぁ……」
 澄田は真剣に考え始めている様だった。

 そんな澄田を見ていて、苦笑しながら、思わず訊いてしまった。
「澄田はさ、僕と明里に恋人になって欲しいの?」
 彼女の答えは、ある意味で意外で、でもよく分かる気もした。
「うーん。 ちょっと複雑。 でも、遠野くんと明里さんの間に、今でもお互いへの想いがあるんだとしたら、そうなって欲しい。 私としては、それは哀しいけど、今ならちゃんと諦めることができる」
「でも、明里は僕のことなんか覚えてなんかないかもな」
 そう言った時、僕はその自分の言葉をその通りだとは思わなかったけど、でも、もしそうだったとしても仕方が無い。 そう判れば、それはそれで受け止められる。そう感じた。
 だから、僕は安心していたし、澄田とのやり取りを楽しんですらいた。
 けど、続く澄田の言葉は、そんな僕を根底から揺さぶった。

「けど、遠野くんなら、きっと大丈夫だと思う。 絶対」
「え?」
 思わず、澄田を、澄田の目を真っ直ぐに見詰めた。 一瞬、中学生の、あの雪の朝の、別れ際の明里の姿が澄田に重なった。
 そんな僕の動揺には気付いた様子もなく、彼女は言葉を続けた。
 その言葉は、あの日の別れ際に、明里が続けようとした言葉だったのかもしれない。

「もう、あなたは、どんな結果でも受け入れる準備は出来ていると思う」
「そう、なのかな……」
 一体、僕は誰と話してるんだろう……。

「私がそうだったから。 あなたと会う、そう決めた時、その結果を受け止める準備が出来たんだと思う。 だから、きっとあなたも同じだと思う。 明里さんと会う。 そう決めることが出来たなら、その結果を受け止める準備が出来てるんだと思う。 ただ、そのことに自分で気が付いてないだけ」
「あぁ、そうかもしれない……」
 何だか、この子は本当に澄田なのだろうか?
 でも、目の前に居るのは間違いなく澄田だ。 明里じゃない。 けど、その姿が妙に重なる。少なくとも、容姿に関しては似ている部分などほとんどないのだけど……。
 だからだろうか、つい言葉が口を突いて出た。考えてなどいなかった言葉。それでも、心の奥底に渦巻いていた言葉なのかもしれない。
「一緒に受け止めてくれるかな。 つらいことがあったとしたら、僕は君の笑顔が欲しい。だから、僕のそばで、僕を支えてくれないかな……」
 そう言ってしまってから、自分でも何を言ってるんだ、そう罵りたかった。明里との関係を確かめるのに、澄田に支えて欲しいなんて、何を馬鹿な。さすがに澄田も呆れただろう。
 けど、澄田はそんなことなど、既に飲み込んでいる様だった。
「えぇ。 そう出来れば、私は嬉しい。 あなたに必要とされるのが嬉しい。そして、力になりたい。どんな結果が出るとしても、あなたが望む未来を叶える為、その力になりたい」
 馬鹿だ。 僕は本当に馬鹿だ。こんなに僕を真っ直ぐに支えてくれる。その澄田にどうして今まで気が付くことが出来なかったんだろう? 何年を無駄にしたんだろう?
 続く澄田の言葉には完全に参ってしまった。
「だって、私たち、友だちでしょ?」
 彼女の瞳には、優しくて、熱い想いがあふれている様だった。だから、僕は自分の願いを込めて答えるしかなかった。
「あぁ、友だちだよ。 今までは。 でも、これからは……」
「これからは?」
「うん。 これからは、もっとそばに居たい……」
 澄田に促された。
 でも情けないけど、今の僕にはそれ以上言えなかった。けど、そうしたら、また彼女に先に言われてしまった。 けど、ちっとも嫌じゃなかったし、それが心地よかった。
 まぁ、さすがに彼女もちょっと躊躇った様だったけど……。 その様子にすら僕は参ってしまったのかもしれない。

「じゃぁ……。 あの、ね……」
「うん?」
「これ、からは……。 わたしを……」
「きみを?」
「うん……。 その……。 花苗って、呼んで、くれたら、嬉しい、な……」
「え……」
 それは、その時、当に僕が望んでいたことだった。
「あぁ……、 わ、わかった。 じゃ、じゃぁ、僕のことも、貴樹って、呼んでくれる?」
「えぇ」

 多分、この時なんだと思う。 僕の心が決まったのは。

 だから、あとは決まったことに向けて歩いていくだけだった。そりゃ、少し振り返ってみたり、立ち止まったりはあるかもしれない。 けど、歩いていく先は決まっていた。

 その日は、もう十分に遅かったし、そこで帰った。
 もちろん、翌日に連絡する。 その約束をして。 澄田の部屋を後にしても、僕の心には暖かいものがあふれていた。 それは澄田の優しさや強さだったのかもしれない。





友達
    先頭

 翌日の朝、私はいつもより、かなり遅くまで寝ていた。前日のことを思い出すと、思わず顔から火が出るほど恥ずかしい気がした。 前日、食事から帰って来た時に、突然、熱を出して倒れてしまったけれど、彼が看病してくれた。
 その後のことは、熱のために見た夢だったのではないか? そんな風にすら思えた。
 だって、夢の様なことばかりだったから。

 貴樹くんと、色々なことを話した。
 貴樹くんは……。
 そう。 遠野くんではなくて貴樹くん。こんなことがあって良いのだろうか?
 私は彼と名前で呼び合うことになったのだった。それは大胆にも私が言い出したのだけれど、彼はちょっと顔を赤くしながらも、私の希望を受け入れてくれたのだった。
 名前で呼び合う関係、それは私が望んでいた関係そのものではないだろうか? 夢の様だった。いや、昨日の私自身の状態から考えれば、その可能性の方が高いのではないか?
 それもそうなのだけど……。
 けれど、自分の携帯に登録された貴樹くんのアドレスが、そして自分の額に貼られた熱さましが(ちょっと間抜けな感じだけど)、昨夜の記憶は決して夢ではないことの証拠だった。
 今さらのように、私は頬を染めた。
 一晩ぐっすりと寝たせいか、体の調子は良さそうだった。昨日感じた疲れは今は感じられなかった。今日、貴樹くんは仕事があるので、昼間は一人だった。何をして暇をつぶそうか?
 また近くの公園でも行って見ようか。 それとも、近くの町を見て回ろうか……。
 何を考えても私は微笑みが止まらなかった、微笑みだろうか?
 単に表情からしまりが無くなってしまっただけかもしれない。 ニコニコ?
 ちょっと違う、ニタニタ。
 ……そこまで変じゃ無いつもり。 ニマニマ。
 うん……。 まぁ、そのくらいな感じ?
 ちょっと情けない……。
 そんなことを考えている最中も、その笑顔は止まらなかった。

 洗面所の鏡を覗いて、馬鹿みたいにしまりの無くなった自分の顔を見た。
 その時、額にはまだ熱さましが貼られていることに気が付いて、吹き出してしまった。それでも止まらなかった。
 そう、とにかく、私と貴樹くんは、名前で呼び合う関係。つまり、友達以上……。
 でも……、恋人? きっと違う、少なくともまだ恋人とまでは行かない。友達以上。
 でも恋人未満……。 まだまだ半端だった…。

 起き抜けの馬鹿みたいな妄想から抜け出して、現実を見つめ始めた私は、貴樹くんの言葉を思い出していた。 そう、彼は確かに言った。『まだ、自分の気持ちは中途半端』だと、そして『明里への想いをきちんと終わりにすることが出来ていない』と。
 そう、まだ貴樹くんは昔の初恋の相手に対する想いが忘れられずにいる。
 私と恋人関係な訳は無かった……。
 けれども、そんな全てを打ち明けてくれた。そして、私の笑顔が必要、失いたくない、そう言ってくれていた。
 念願の関係になるには、まだもう少し時間がかかりそうだった。けれども、その望みがある様に感じられた。東京に出てくる時はそんな可能性は現実のものとしては考えられないくらいに低いと考えていたけれど、それが現実味を帯びてきている、そんな風に思えた。
 一昨日までは友達未満、昨日からは友達以上、今日は? まだ、きっと恋人未満、でもこうして一緒にくらしていれば、いつかきっと。 恋人未満から恋人へ、そう発展できる日が来るのでは無いのだろうか?
 とにかく、一昨日までと違って希望が持てるのは確かだった。
 まだ、昼前だったけれど、貴樹くんからの連絡が待ち遠しかった。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その日の夕方、僕はかつて勤めていた会社に向かっていた。
 仕事の締切りは翌日だったが、我ながら現金なもので、前夜の花苗とのやり取りの後は自分の気持ちが充実して、仕事もとんとん拍子に進み、思ったより早く完成出来た。
 顧客となっている元同僚に連絡したところ、完成しているなら早めに欲しい、ということだったので、そのまま納めに行くことにしたのだった。
 僕は、そのことを花苗に伝えようと電話をかけた。
 そう、花苗。澄田のことを花苗と呼ぶことになっていた。それはくすぐったくも嬉しいことで、僕は舞い上がっていた。
 とにかく花苗に連絡し、納品が終わったら会いたい。食事でも一緒に、そう伝えた。
 もちろん、というか、花苗は喜んでくれて、待ってる、と言ってくれた。

 今回の顧客は、元は僕が勤めていた会社であり、その担当は知り合いの顔なじみだった。
 三鷹まで電車で行き、この一月までは通いなれた社屋まで行くと、今回顧客となったかつての同僚に、完成したプログラムの媒体を渡した。 彼は早速それを全体のプログラムの中に組み込み、一通りの動作確認をした。結果、当然、問題ないことが確認できた。
「遠野、相変わらずさすがだな」
「まぁ、この辺の処理は慣れたところだからな、でもちょっと苦労したよ」
 それで仕事の実質の部分は完了だった。
 その日は休日でもあったし、早い時間に仕事も終わった。彼も、もう会社に居てもすることが無くて暇だ。だから、飲みに行こう。そう言い出した。そう言う機会は、会社に勤めている間の方が多かったはずなのだが、その頃は、最初の頃は、もう少しなじんだら、と思っていたし、そして、最後の頃はそんな精神的な余裕がなかった。つまり、僕がその会社に勤めている間にはそんな風に同僚と飲んで帰るということは、あまりしなかった。
 だが、いざ、その様な関係から離れて再会すると、勤めている間は、特に親しい間柄って訳じゃなかったはずだったけど、お互い妙な郷愁の念もあったし、それに、こんな僕に仕事を回してくれるありがたい友人でもあったし、僕はとても断ることは出来なかった。
 それに、以前だったら考えられないことかも知れなかったけれど、僕の方でも彼と飲み行くことは楽しそうだ、そんなことも感じていた。
 だが、僕は既に花苗と約束していた。
 今の僕にとって、花苗との約束を反故にする、それもあり得なかった。
 けど、僕が花苗を呼びたい、そう言った時、岡田の反応は予想外だった。「なに! 遠野、おまえの彼女? 会う! 絶対会う! ぜひ会わせろ!」かなりの勢いで、そう騒ぎ出した。
『俺に紹介しろ』って訳じゃない様だったけど、何をそんなに熱くなっているんだ? そう思いながら、花苗に連絡した。
 まぁ、予想通りだったけど、僕のそんな提案を、彼女が拒む訳は無く、予定とは違うことになってしまったけど、僕と花苗、そして元同僚の彼・岡田。その三人で軽く食事しながら飲む。そんなことになった。
 その時、僕と岡田は三鷹で、花苗は新宿。東京の地理に不案内な彼女が一人で三鷹に出て来るのは無理があるので、当然の結果として、僕と岡田が彼女を迎えに行くことになった。
 僕は、新宿に向かう途中、どうしてこんなことになるんだろう? と苦笑していた。そして、その間、岡田は、彼女はどこの誰なのか、どこで、いつ知り合ったのか? などなど、まぁ、彼は僕の高校の頃のことなど知る訳も無いから仕方ないけど、とにかく、花苗について質問攻めにされた。
 そして、当然と言えば当然だったけど、どうして今になって? という質問もあった。
 その質問に対する答えは、僕にも難しかった。
 ただ、偶然というか、奇跡というのか、二人の想いが、お互いに向いた時に、そんなタイミングで二人が再会したから、ということが大きいとは思った。
 けど、となると、そんな再会を生み出したのは、彼女の決意と行動な訳で、僕はと言えば、彼女が生み出した奇跡に便乗しているだけで、まだ何もしてないってことが思い出された。
 そして、その時僕は、水野理紗のことを、もうすっかり忘れていた。

 ホテルに到着して花苗を呼び出すと、彼女はすぐに降りてきた。
 花苗と岡田は、当然初対面で「初めまして」なんて挨拶を交わすことになった。で、三人でちょっと話した結果、まぁごく普通の居酒屋に、ということになった。
 僕としては、当初は軽く一杯、食事を主体に、なんてつもりだったのだけど、岡田はそんなつもりはまるで無かった様で、飲むは食べるは、おまけに、僕だけじゃなくて、花苗まで質問攻めにして大騒ぎだった。
 仕事が無事終了した。そんな安心感もあったせいか、いつの間にか、僕もそんなペースに巻き込まれて、三人で大いに盛り上がってしまった。
 花苗は、岡田の質問攻めに、最初は困った様な戸惑った表情だったけど、高校生の頃のこと、そして、つい最近の再会のこと。等々、照れながらも嬉しそうに答えていた。そして、そんな話の中で、僕は会社に入ってから、辞めるまでのこと、そして岡田に振られて話さざるを得なくなった理沙のこと、どうして彼女と破局することになったのか、などをいつの間にか話す羽目になっていた。
 他には、岡田の話としては、僕の今の仕事の話や、かつての仕事の話もあった。
 その話題のどこに興味があったのか知らないが、花苗は真剣に聞いている様だった。
 その花苗が席を立った時だった。 岡田は不意に真顔になり、ぼそりと言った。「お前、昔から酷いな」それは辛らつな物言いだったが、反論できないのも確かで、僕としては「確かに……」そう返すしかなかった。
 そう。反論のしようがない。確かに僕は昔から酷かったし、ずっと酷かった。そんな僕に、岡田は予想外のことを突きつけた。
「この間、打ち合わせで水野さんに会った」
 その唐突な言葉に、僕はただ岡田を見ることしか出来なかった。
 彼は酔ってなどいない感じで、そしてひどく真剣な目をしていた。
「強引にだったけど、彼女を連れ出して少し話したんだ。 彼女、まだ完全には立ち直ってないと思う」そこで、岡田はじろり、と僕を睨み付けた。
「なのに、お前はもう新しい彼女、とか言うんで、何調子のいいことを! そう思った。 まぁ、お前が会社を辞めた当時、色々と酷い目に遭っていたのは判る。 けど、悪いけど、それはそんなに特別のことじゃない。 誰だって、多かれ少なかれそんな目に遭ってる。 まぁ、お前は優秀だから、人よりは大目に酷い目に遭ってるかもしれんが。 とにかく、水野さんを苦しめたお前が調子こいてる様だったら許さない。 そんなことを思った」
「そうだったのか……。 彼女は……」
 けど、水野さんのことを聞こうとした僕の言葉を岡田はぴしゃり、と遮った。
「お前には、もう関係ない」
「……」
 その言葉にはやはり返す言葉が無かった。 けど、岡田の視線はふと柔らかくなった。
「だがな。 俺の知らないところでも、お前は苦しんでたんだな。 まぁ、自業自得の部分もあるんだろうけど。 でも、お前も苦しんでたんだな。 そう思えたんだ。 だから、お前と水野さんのことに関しては、誰が悪い、というよりは、運が悪かった、なのかな。 今日、初めてそう思った」
「岡田……」
 けど、不意に岡田は馬鹿みたいに笑顔になって宣言した。
「だから。 ん? だから、は変かな? とにかく水野さんは俺にまかせろ。 ま、彼女が俺なんかを見てくれるかどうかは判らんがな。 だが俺は彼女が泣くのは見たくないんだ」
「そうか……」
 僕にはもう口出しの出来ない話だと思った。
 そこへ花苗が帰ってきた。
 その後も、しばらくは三人で話し込んだ。 岡田は、あんなことを言った後だったけど、それまでとまるで変わらずに、色々なことを訊いて、話して、笑って、笑わせて。
 まぁ、要は、実にいい男なんだな、なんて思ってしまった。

 そして、いい加減話題も尽き、さらにかなり酔っ払った僕と岡田は、いつの間にか肩を組んで花見に行くぞ! なんて叫んでいた。
 今度こそ、花苗は呆れた顔をしていたけど、それでも笑顔だった。
 で、僕たち三人は、中央公園まで歩くことになった。
 公園の桜は、相変わらず満開で、大勢の人が花見を楽しみ、騒いでいた。
 僕も岡田もいい加減酔っ払ってたけど、特に岡田は完全に出来上がっていて、足元が定かではなかった。それでもとにかく、彼は上機嫌で、はしゃいでいる様でもあった。花苗は彼を指して「いつもああなの?」なんて苦笑してたけど、確かにその通りで「いやぁ、いつもはもうちょっとは大人しいけどなぁ」だった。とにかく、あんなに嬉しそうにしているのは珍しいなぁと思いながら、花苗と二人で並んで、彼の後について桜を見て回った。
 しばらく歩き回って、ちょっと疲れたので三人で並んでベンチに腰掛け、遠目に桜を見ていた時、突然、彼は真顔で言った。
「遠野、おまえは本当に立ち直ったみたいだなぁ。 っていうか出会った頃より生き生きしてるな。 それが元々のお前なのかな」
「え?」
「彼女のおかげか?」
「多分」
 全てが花苗のおかげ、と言ったら言い過ぎだろうが、でも、彼女のおかげ、という部分が大きいのは確かだった。
「澄田さん、こいつ、去年の暮れから、本当に辛そうだったんですよ。 会社辞めて、少しは良くなってたけど、でも、これまで、まだどこか元気が無かった。  まぁ、こいつ、良い奴だけど、何ていうか不器用でしょ? まぁ、余計なお世話かもしれないけど、俺なりに心配だったんだけど……。 今日は、最初からなんか印象が違うな、と思ってたんですよ。 でも、判った気がします」
 そう言うと、改めて僕を見て、続けて花苗に視線を移し、言葉を続けた。
「あなたが奴を立ち直らせたんだ。 それを判った気がします」
「そんな……。 岡田さん……」
 突然のそんな言葉に花苗は戸惑っていた。だが、岡田は気になどしてなかった。
「これからも、奴のこと、よろしくお願いしますね」
「おいおい、勝手に話を進めるなよ……」
 さすがに、僕が口を挟んだけど。
「ん? なんだよ、遠野。 貴様、なんか不満でもあるのか?」
 そう切り返され、僕は反論のし様がなかった。
「あ。 いや、そう言う訳じゃないけど……」
 花苗は、と言えば、ここに来て戸惑う必要はないと思ったようだった。ちょっと情けないことかも知れないけど、元より彼女が一番覚悟が出来ているのも確かだった。
「彼のそばに居たいと思ってます。 何が出来るか判りませんけど、よろしくお願いします」
 その、彼女の言葉は、僕の気持ちとほとんど一緒だった。 そんなやり取りで、岡田は満足したのだろうか、少なくとも、もう言うことはないと思ったのだろう。
「ああ、もう、熱いなぁ。ちきしょー。まだ独り者の俺には、やっぱつらいや」
 そう言うと、岡田は立ち上がった。
「うん。 今日は仕事も終わったし、遠野が立ち直ったのも分かったし、こんなところでいつまでも二人の邪魔をしてても仕方が無いから、邪魔者の俺は帰りますよ。 じゃ、澄田さん、遠野、おやすみ」
 そう言うと、歩き始めた。 その彼に向かって、僕は声をかけた。 それは、彼に対しての言葉ではあったけど、それ以上の想いも込めていた。
「岡田、またな。みんなによろしく。 そして、おまえもがんばれよ」
 その言葉に彼は振り返った。
「おお、がんばるさ。 遠野、次の仕事も頼むよ? じゃな」
 そう言いながらの、彼の下手なウィンクは、その言葉に込められた意味が、僕が言葉の言外に込めた想いへの了解と、彼自身の想いの宣言だと思った。
 とにかく、色々のことを伝え、確認した彼は一人で帰っていった。

 彼に頑張って欲しかった。 それが、彼自身の幸せに、そして理紗、水野さんの幸せに繋がることを思えば、本当に頑張って欲しかった。
 花苗は歩み去る彼に向かって頭を下げていた。そして、振り向いた表情は笑顔だった。
「ふふ。 何だか、すごく元気で嵐みたいな人ね。 でも、良い人よね。 けど、彼ちょっとだけ勘違いしてるみたいだけど……」
「そうだね、彼は良い奴だよ。 それに、彼は別に勘違いなんかしてないと思うよ」
「え?」
「昨日もそうだったけど、やっぱ花苗といると、気持ちが落ち着くなってことだけど……」
 心なしか花苗は頬を染めている様だった。
「まぁ、まだ、花苗って呼ぶのは照れるのは確かだけど、ね」
「ふふ。 私もよ? でも、嬉しいのも確か」
「それは確かに……。 なぁ、明日は昼間に、もう一度代々木公園に行って見ないか? また、花苗と一緒に桜を見に行きたいな」
「そうね、桜、きれいだったわね……」
「よーし、じゃぁ、また明日だ。 今日はもう帰ろうか?」
 僕はそう言いながら立ち上がり、まだ座っている花苗の手をとって立ち上がらせた。
「うん、そうね……」
「な、花苗……」
 僕はちょっと躊躇ったけれど、少し腕を体から浮かせた。そして花苗に向かい、目と腕の動きで、腕を組むことを訴えた。
 花苗は頬を赤らめ、少し躊躇った様だったけど、でも笑顔で僕の腕にすがって来た。そんな彼女を見ていると、心が暖かいもので満たされていくことを感じた。明里への想いがまだ完全に消えて無くなった訳ではなかったけれど、既にそれは僕を突き動かす想いではなくなってる。少なくとも収束させ、自分の一部に溶け込ませることは可能だと感じた。
 そう。明里と出会うことがあっても、僕は動揺しない。そう信じることが出来た。





桜の導き
    先頭

 日曜日、明里は夫と花見に行くことにしていた。
ここ何日か、貴樹のことを思い、塞ぎ込んでしまった。そして、毎年大好きだったのに、桜を見に行くことが出来ていなかった。
 どうしてなら、今年は、桜を見に行こうとすると、必ず貴樹に出会ってしまっていたから、桜を見たいと思うと、貴樹に出会ってしまう。出会ってしまうと自分が何を思うのか分からない。だから、貴樹に出会わない様に、桜を見に行くことも止めよう。
 昨日までは、それ以外に自分にはどうすることも思い付けなかった。
 けど、そんな想いは全て自分の内にある。所詮逃げ切れることじゃないと気が付いた。
 だから、向き合う決心をした。 そう心に決めてから、まる一日の時間が掛かってしまったけれど、まずは向き合うことを始めることにした。
 その為には貴樹に会いに行くこと、が一番だとは考えた。けど、いざそう考えると、どうすれば彼に会えるのか、は判らなかった。 だから、まずは桜を見に行くことにした。
 桜を見に行けば、また出会うかもしれない。 そうしたら、今度こそ向き合おう。
 とにかく、貴樹に出会うことを予測しながらも桜を見に行く、それがが大事だと思った。
 朝、そのことを決心した瞬間、自分の心が軽くなった様に感じた。
 そうだ、せっかくの休みなんだし、雅和さんと一緒に見に行こう。そして自分と貴樹の間にあることの結末を見てもらおう。いえ、近くに居てもらうことで、支えて欲しい、そんな想いもあると思った。
 そんなことを考えると、内側から元気が出てきた様な気がした。
 だから、朝起きると、いつも通りに朝食の準備をすると、まだ寝ている雅和さんを起こしに行った。普段にもまして元気な自分を見て、雅和さんは苦笑している様だった。
 その雅和さんに向かって、宣言した。
「ねぇ。 今日はお花見に行きましょう!」
 その言葉を聞いた雅和さんの表情が、苦笑から柔らかな微笑みに変わるのが判った。
 そして、何にも気が付かない振りをしてるつもりか、短く言った。
「そりゃいいね」
 そんな雅和さん、夫とのやり取りは、明里の心を十分に安心させた。
「さ、だから、早く行きましょ? もう、食事の準備は出来てるわ?」
「今日はまた、とんでもなく元気だね」
「それはそうよ。 桜を見に行くんだもの」
「まいりましたよ。 じゃぁ、さっさと食べて出かけようか?」
 苦笑しながら雅和さんは起き出した。リビングへと向かう雅和さんの後ろから自分の考えた予定を口にした。
「で、行き先は、代々木公園がよくない?」
「そうだね、近いし、あそこの桜はきれいだからね」
「そう。 そしてね、今日は明治神宮を通って、原宿の方から代々木公園を歩いてこない?」
「あはは。 そりゃ、結構な距離になるな」
「えぇ、ちょっとたくさん歩きたいな、なんとなくそう思ってるの。 いい?」
「ああ、もちろんさ。 一緒に歩こう?」
 そんな風に、その日の予定を確認しながら、微笑み合った。 それからは、二人で朝食を摂った。二人とも、いつもより急いで食べたのは気のせいだろうか? それでも、二人で一緒に食べる朝食はおいしくて、何よりも楽しかった。
 その後も、後片付けや出かける準備など、あわただしく動き回った。 それすらも、明里にとっては楽しいことの様に思えた。一昨日は、何も感じないために体を動かし続けた。
 けど、今日はそんなことにすら喜びを感じてる。自分の中で既に何かが変っているのかもしれない。ほんの僅かなことだけど、それでも何かが確実に変っている様に思えた。
 やがて、二人で手をとり合うと、代々木公園を目指して歩き始めた。
 だから、貴樹への想いがあったとしても、それは簡単に収束させることが出来る。もう、向き合う決心は出来てる。だから、もう何でもない。 そう考えた。
 ただ、その時はまだ気付いてなかった。 それがとても難しい、ということを。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その日、花苗と代々木公園に行く、そう約束をしていたので、僕はいつもより早くから起き出した。普段なら日曜日はもっと遅くまで寝てることが多いけれど、特別だった。花苗とは出かける時間までは約束してなかったけど、それでも、少しでも早く行きたかった。 いや、会いたかった、という方が正確かもしれない。
 手っ取り早く出かける準備をすると、花苗に連絡して時間を決めた。
 電話をかけた時、一回目のコールが終わる前に花苗は出てくれた。僕からの電話を待っていたのだろうか? そんなことを考えると、頬が緩むのが止められそうになかった。
 そして、実は僕はあることを考えていた。
 まぁ、それは実際にはこの間と大して変わる訳ではないのだけど、その意味が大きく違うことだった。 何か? と言えば、明里との思い出が、その欠片がいっぱいにつまった、かつての遊び場を、代々木の街中を花苗と歩きたい。 彼女と一緒にあの街を歩くことで、僕は何かを感じたかった。きっと感じられる、そう信じてもいた。
 ホテルに着いてみると、既に花苗がロビーで待っていた。
 僕を見つけると、小走りに走りよってくる彼女の頬は、少し赤いようだった。その少し大きめの瞳は、これまでより、一層輝いている様で、そして相変わらずのあの笑顔だった。 けど、その笑顔はこれまでに比べても、より嬉しそうで、そんな笑顔を向けられた僕は、とても嬉しいと同時に、少し照れてしまい、僕もまた頬が熱くなる様に思えた。
「おはよう。 …… た、貴樹、くん」
「あぁ、おはよう。 か、かなえ……」
 名前で呼び合う、というのはまだまだ照れてしまうことの一つで、同時にそれは、どんなに照れても止めたくない嬉しいことでもあった。
 その日の花苗は、濃いグレーのタートルネックのTシャツに、赤を基調に黒の千鳥格子模様のジャンバースカートと言ういでたちで、これまでに僕が知ってる彼女のイメージには無い装いだった。それは全体的に元気な花苗のイメージ合っていて、新たな彼女の魅力を気付かせてくれた様にも感じられた。だから、ついそんな花苗をじっと見詰めてしまった。けど、彼女は、そんな僕の視線を別の意味に捉えてしまった様だった。
「やっぱ、変かな……? お姉ちゃんと相談しながら、買ったんだけど……」
 その相変わらずと言えば相変わらずの自信のなさに、苦笑してしまった。
「あはは。 逆だよ。 思わず見とれちゃったよ。 今までは、そういう格好の君を見たことはなかったけど、似合ってるよ。 うん。元気そうで、すごく似合ってる」
 そう言ってあげると、頬を染めながらも、彼女は輝くような笑顔を見せてくれた。
「じゃぁ、行こうか?」
「うん」
 そう言いながら手を差し出した。
 僕たちは少し赤くなりながら、触れ合った、お互いの手の温もりに微笑みを交わした。

 ホテルから出ると、花苗にこれからの道について説明しながら歩き始めた。都庁の前を通り過ぎ、信号を渡ると別のホテルの敷地にずんずんと入っていく。花苗は勝手に入っていいの?とちょっと不安げだったが、僕は大丈夫だよ、これが近道なんだ。そう言い、彼女の手を引いてホテルの敷地を横切り、国道に出た。
「この国道を渡って、ちょっと行った所が、僕の行ってた小学校なんだ」
「へぇ……。 あ、その小学校って、もしかして……?」
「そう。 明里と出会った小学校さ。 そして、その小学校から、代々木公園近くの神社までの道って言うのは、当時の、僕と明里の遊び場だった所なんだ」
「そうなんだ……。 でも、いいの? 私なんかを連れて行って。 明里さんとの大事な思い出の場所なんでしょ?」
「あぁ、思い出としては大事だよ。 でも、思い出なんだ。 その思い出を、君と一緒に振り返ることで、それが思い出なんだ、そう確認したいんだ」
 そう。ある意味では、別の女性との思い出の場を見せて歩くなんてことは、馬鹿なことかもしれない。けど、その思い出の中を花苗と一緒に手に手をとって歩き、一緒に同じものを見ることで、その思い出はきっとまた別の形になっていく。そうやって、その思い出を感じながら、僕の一部に溶け込ませていきたい。そう思った。
「うん。 私も、貴樹くんが小学生の時に暮らした世界を見てみたい」

 そうして、僕たちは頷き合うと歩き出した。 まずは、僕の通った小学校に行った。
「こんな所に学校があるのねえ……。 何だか不思議な感じ」
 それが彼女の正直な感想だった。確かに種子島とはまるで感じが違うだろう。僕たちは手をつないだまま、小学校から近くの歩道橋を渡り、参宮橋近くの街中へと向かった。細い道を二人で歩き、参宮橋公園へと向かう。あの公園脇の道、あの日も、今日のように桜が舞い散っていた。あの日、明里は突然走り出した。僕は追いつくことが出来ずに、踏切で止められてしまった。けど、花苗は走り出したりせず、僕と一緒に、ゆっくりと歩いていた。
 やがて、参宮橋の駅へと向かうゆるいカーブの下り坂に差し掛かった。
「よし。 競争だ」
 そんなことを言って、僕が走り出すと、花苗も走り出した。文句をいいながらだったけど。
「え! ずるい! スカートなんだから、そんなに走れない!」
「あはは」
 それでも、走り出した僕を追って、彼女は走ってきた。坂を下り終わった所で立ち止まると、すぐに追いついてきた彼女は、鋭い指摘をした。
「もう。 この坂道で、明里さんとも駆けっこしたの?」
「よく分かったねえ。 突然仕掛けられて、僕は大抵負けてたけどね」
「私だって、突然じゃなければ負けないわよ?」
 そんなことを言いながら、僕たちはまた手を取り合った。

 ふと、花苗が道の周囲を見回した。
「あ、この道。 この間も通った道よね?」
「あぁ、そうだよ。 よく分かったね」
「あの日も、時々、道の向こうを見てたわよね……」
「はは。 気が付かれてた? この道を歩いてるとね、ああ、あそこの角では明里とケンカしたなあ、とか、まぁ、小学生の頃の思い出がいっぱいあってね……。 うん、楽しかったな」
 そう言った時、僕は自分でも自分が笑顔のままだと分かった。この間までなら、そんなことを考えたら、きっと気持ちが無くなってしまったかの様な無表情になってしまっただろう。
 けど、今日は、そんな明里と小学生時代を笑顔で思い返すことが出来た。
 しばらく歩き、先日とは違う道に向かう。
「この間は、ここを曲がったけど、今日は真っ直ぐ行こう」
「どこに行くの?」
「神社だよ」
 そう言いながら、二人で並んで歩き、懐かしい神社へと入っていく。
 明里と走り回った参道、境内、見回せば、様々な思い出が目に浮かんできた。その光景は時のフィルターを通り、少し色褪せて、セピア色、と言った感じに思えた。 先日感じた、鮮やかな、生々しい感情は鳴りを潜めている様だった。
「この神社は、僕と彼女の秘密の遊び場だったんだ。 あの小学校からは、小学生の足では結構遠い場所だからね、僕と彼女以外の子は、ここまでは来なかったからね」
「そうなんだ。 でも、神社って、どこも似たような感じなのね。 ここも、種子島の神社ともそんなに違わないわね?」
「うん。 僕も同じことを思ったよ。 ほら、あの家の近くの神社で出会った時、僕はそんなことを思ってたんだ」
「あ。 あの時? そうなんだ……」
 そのまま参道を歩き、鳥居をくぐると、右手に懐かしい光景が、けど、今はそこにはチョビも明里もいない。それは先日はつらい光景だったけど、今日は今の光景を、過ぎ去った時間の証拠を、穏やかな笑みを浮かべたまま受け止めることが出来た。
「あのコンクリートのたたき、あそこによくネコが寝そべっててね。 勝手にチョビなんて名前をつけて、よくなでてたんだ」
 そんなことを語る僕を見上げながら、花苗が優しく微笑んでいた。
「懐かしい?」
「あぁ、懐かしいよ。 ほんのちょっと前にも、独りでここに来たんだけど、その時はつらかった。 けど、今は笑うことが出来る。 それだけじゃない、ここに新しい思い出が生まれてる。 こうやって歩き回ることで、ここは僕と花苗の思い出の場所にもなってるんだ」
 そう。これは、単に明里との思い出を振り返ってるだけじゃない、この場所に、僕と花苗の思い出を刻みつけてるんだ。 そう感じた。
「ふふ。 そうね、そうよね?」
 その言葉は、花苗にとっても嬉しかったのだろうか? 彼女は嬉しそうだった。もしかしたら、彼女も僕と同じことを考えていたのだろうか?
「で、この神社までが、当時の僕の行動範囲かな」
「そうなんだ……。 やっぱり、種子島とは街の雰囲気とか、随分違うわね」
「まぁね? じゃ、そろそろ桜を見に行こうか?」
「えぇ」
 そう言うと、僕たちは改めて手を取り合い、代々木公園を目指して歩き出した。





再会
    先頭

 細い、まるで誰かの家の裏庭の様な道を通り、細い階段を抜けた。当時も明里とよく歩いた道だったけど、これは本当に通ってよい道だったのだろうか? そんな道を花苗と手を取り合ったまま、彼女の「ここ、通っていいの?」なんて言う言葉に「大丈夫さ」と何の根拠も無い返答を返して、二人で進んでいった。彼女は少しおどおどしてる様だったけど。でも、僕は訳も無く楽しい気分だった。
 神社から道に出ると、神社を覆う木々から出てきたせいか、それとも時間が経って日が昇ったせいか、空が一層青くなっている様に感じられた。 僕たちは、そんな空の下、小田急線の線路を超え、井の頭通りを渡ると、先日とは違う入り口から代々木公園へと入っていった。
 もう、そこからでも中央広場の周囲に咲き誇る桜が見え始めていた。
「きれいね……」
「あぁ、桜もきれいだし、今日は空もきれいだな」
「そうね。 でも、空は種子島の方がきれいかなあ……?」
「そうだねぇ。 でも、東京の空も悪くないでしょ?」
「そうね」
 そう言いいながら、二人の視線が絡む時、その瞬間に胸が高鳴る気がした。隣にいる花苗の存在が僕には不可欠な存在になってきている。 そう感じていた。
 彼女が微笑むと、気持ちが、心が暖かな想いで満たされていく気がした。こんなに穏やかで暖かな気持ちになったのは久しぶりのことだと思った。
 そうして、二人で満開の桜の間を抜けながら中央広場の方へと進んでいった。
 広場の反対側に大きな桜がそびえ立っていた。その桜はやはり満開で、四方にその花を舞い散らしていた。しばらくは、そのあまりに見事な桜に目を奪われていた。

 だが、花苗が僕に何かを伝えようとしていることに気が付いた。
「ん? どうかしたかい?」
「あそこの人が、ずっとこっちを見てるみたいなんだけど……?」
 そう言われて、彼女が指差す方角を見た僕は、自分の目を疑うことになった。
「あれは……」
 そう、そこには明里がいた。 そして、その脇には男性が立っていた。 突然のことだったけれど、僕は不思議と冷静さを保っていた。 僕のとなりにいた花苗は、僕の様子から感じるものがあったのか、その状況を正確に捉えている様だった。
「もしかして、あの女性、明里さんじゃないの?」
「すごいな……。 よく分かるな」
「彼女の様子と、あなたの様子を見て、なんとなく、ね」
「僕、ちょっと彼女と話してくるよ、ここで待っててもらえるかい?」
 その瞬間、花苗の表情には不安が浮かぶのが分かった。 僕はあわてて付け足した。
「必ず帰ってくるから」
「うん、 待ってるわ……。   あ。 でもね、貴樹くん」
「なんだい?」
「あのね……。 ……。 とにかく、貴樹くんの思った様に、感じた様にしてね? 後で後悔しない様にね?」
 その言葉を聞きながら、僕は花苗を真っ直ぐに見詰めていた。 一体、彼女はどれだけの想いを抱えているのだろうか、僕を想い、僕の気持ちを想い、僕の気持ちのことを優先して考えてくれる、その優しさに、強さに、その信頼に、彼女の想いの深さを感じていた。
 だから、僕は僕の本当の気持ちを告げることが出来た。
「ありがとう。 だからこそ。だからこそ戻ってくるよ。 じゃ、ちょっと行って来るよ」
「うん、いってらっしゃい」
 花苗の表情はとても複雑だったと思う。でも、驚いたことに、この状況の中でも、花苗は微笑んでくれた。僕では笑顔が作れる訳がない、そう考えたけれど、それでも彼女は笑ってくれた。それは、やはりあの笑顔だった。僕を勇気付け、支え、暖かい気持ちにしてくれる。
 あの笑顔だった。
 けど、この後、僕がまたここに、花苗のとなりに戻ってきた時には、もっと嬉しそうな、そう。飛び切りの笑顔が見ることが出来る、そう感じた。
 そんなことを考えながら、僕は明里のいる場所に向かい、一人で歩き出した。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 明里は夫と代々木公園を歩いていた。
 明治神宮の高い木々に囲まれた、昼間でも少し暗い道から出て代々木公園に入ると、視界が開けたような感じがしていた。そんな道を進んでいくと、正面に池が現れた。小さな池だけど、時折噴水が吹き上げて、太陽の角度が合うと虹が見えた。
 その池を越えると、中央広場、周囲に桜が咲き誇る。明里の大好きな場所だった。
 その中でも、ひときわ大きな桜が一番のお気に入りだった。
 その桜のそばで、夫と並んで桜を見上げていたけれど、ふと周辺に目をやった時に、自分の目は信じられないものを捉えていた。
 いえ、それこそが期待していたもの、いや人だった。
 そう。それは貴樹だった。 彼は、女性と、この間見たときと同じ女性と連れ立って桜を見ている様だった。 彼と一緒にいたその女性が、まず、自分が彼を見ていることに気が付いた様だった。そして、それを貴樹に伝えていた。
 さすがに今日は最初から覚悟していた為だろうか、それとも雅和さんがとなりにいる、という安心感からだろうか、自分があまり動揺してない様に感じた。
 これなら大丈夫。 そう思った。
 そして、じっと見詰めていると、とうとう貴樹がこちらを見た。
 彼は驚いている様ではあったけど、穏やかな雰囲気はあまり変わらなかった。どうやら落ち着いている様だった。 それに比べて自分はどうだろう? 動揺はしていない。そうは思ったけれど、それでも胸の高鳴りは抑えきれない様だった。
 自分の心臓の鼓動は普段に比べてかなり大きくなっている様に思われた。
 となりに立っている夫を見上げると、夫もこの状況を正確に捉えている様に感じた。
「あれ。 貴樹君かい?」
「ええ、そう。 よくわかったわね」
「それは、君の様子と、彼の様子を見れば、なんとなく、ね。 ……。 お、彼、こっちに来るね、どうする? 僕も一緒にいる?」
「ううん。ごめんなさい。 彼と二人で話がしたい。 いいかしら?」
「もちろん、君の納得の行くようにしなさい。 ただ、忘れないで欲しいのは……」
「何?」
「僕はいつでも君と一緒にいるよ。 君は一人じゃないんだよってこと」
 その夫の言葉には、微笑を返すことが出来た。 夫も笑顔を返してくれた。それはとても暖かく、自分を信頼し、全てを預けてくれている笑顔だと思った。
「うん、わかってるわ。 ありがとう。 じゃ、ちょっと行ってくるわね」
「ああ、いっておいで」
 夫、雅和さんがそう言うのを聞くと、明里も貴樹に向かって歩き始めた。


 その瞬間は、明里も、貴樹も、そんなに動揺することなんかない、もう自分の心は決まっている。だから、それを確認してくるだけ、そう考えていた。
 その考えは、結局間違っては居なかったのかもしれない。
 けど、その過程は予想したものとは全く違うものになっていった。





初恋
    先頭

 明里と貴樹は、お互いに歩み寄り、そのひときわ大きな桜の真下で向き合っていた。
 お互いとしては、ここ何年かで、一番近い距離だった。
 穏やかな笑みを浮かべたまま、まずは貴樹の口から言葉が滑り出た。それは、明里にとって、久しぶりの声だった。聞いたことがない声だったけど、でも、それが貴樹だ、ということが、とても自然に感じることが出来た。
「明里。 久しぶりだね。 元気だったかい?」
「ええ、私は元気よ。 貴樹君も元気そうで何よりだわ。 貴樹君、今はこっちにいるの?」
「あぁ、そうなんだ、今はこっちで暮らしてる。 何年ぶりだろう……。 十年以上は経ってるよね?」
「そうね、大体十四年ぶりね?」
 脇の桜を見上げながら、貴樹が言った。
「やっと。 やっと、一緒に桜を見ることが出来たね……」
「そうね……」
 彼の瞳には涙が光っていた。 けれども、彼の瞳は静かだった。 明里は、自分も涙を浮かべているのを感じていた。 そして、自分の中にくすぶっている初恋が、終わりきれずにくすぶっている想いをはっきりと感じることが出来た。
 その想いは、自分が予想していたよりずっと鮮やかな想いだった。 その想いの予想外の鮮やかさに動揺していた。 胸の高鳴りが抑えられない。 頬が染まる……。
 けど、貴樹の声で我に返った。
「一緒にいる男性は? 旦那さんかい?」
「ええ、そう、彼は加藤雅和、私は加藤明里よ」
「そうか……。 やっぱり結婚してたんだね? …… おめでとう……」
 そう言う貴樹の表情はやはり穏やかだった。 だが、先ほどの穏やかさとは微妙に変わっている感じがした。 そう、表情を無理に抑えている、そんな風に感じた。
「幸せかい?」
 貴樹は何かをこらえるかの様に、その目に何か光るものを滲ませながら、それでも、表面的には穏やかな口調で話していた。
 だから、明里も必死に表情を抑え、必死に平静を装いながら答えた。
「ええ、今年の一月に結婚したの。 今、とても幸せよ」
「そうか、それは良かった」
 貴樹は柔らかく微笑んだ。 明里は自分の胸が苦しくなるのを感じた。
「貴樹君は? 一緒にいる女性は、奥さんじゃないの?」
「ん……? ああ、僕はまだ結婚してないよ。 彼女は……、うん、彼女は僕のことを想ってくれている。 僕もそうしたいと思ってる。 けど、僕の初恋が終われないもんだから……」
 貴樹の表情は複雑だった。 切なさを押さえ、必死に微笑もうとしている、そう感じた。
「ずっと待たせちゃっているんだ……」
「あら……。 ダメじゃない……」
 そう言いながらも、その初恋とは自分のことに違いない。そう感じると心が乱れた。 そんなことは初めから判っていたこと。だけど、それをはっきりと言葉にすると動揺した。
 どうして今になって出会ってしまうのだろう……。
 どうして、もっと早く出会えなかったのだろう……。
 せめて、何年か前に出会えていれば、自分と貴樹の道は一つに戻っただろうに……。 つい、そう考えてしまう自分がいた。
 でも、既に、貴樹君と自分の道は別れていた。 たとえどんなに近くの道であろうとも、再び一つの道に戻ることは無いのだろう、そう考えた。
 けど、そう考えた時、明里の胸には鋭い痛みがはしった。

「でも、今日でやっと終わりに出来るかな……」
 そう言う貴樹の表情には、やはりつらそうな微笑が浮かんでいた。
「ここで明里に会えて、僕と明里の初恋はもう終わってるんだ、そのことを確認すれば。 そうすれば、これで、やっと前に進めるかな……」
 貴樹は微笑みながらも、お互いがずっと言葉にしてこなかったこと、ずっとずっと、心の中に大事にしまっておいた想いをとうとう言葉にした。
 その貴樹の様子は、必死に何かに耐えている様だった。
「明里、僕は小学生の時から、そして中学・高校の間、ずっと君が好きだった。 こういう一方的な言い方は卑怯かもしれない。 けど、僕の初恋は、やはり明里だし、それがあんな状態で中途半端に途切れたままになってしまったから……。 だから、僕の中では、ずっと君が忘れられなかった、ずっと引きずってしまった」
「私もよ……」
 明里は、思わず即答していた。
 危険だと思った。 自分の中の初恋が、貴樹への想いが、本人を目の前にしてあふれ出しそうになっていることを感じた。 こんなはずではなかったのに……。
「この間、参宮橋の踏み切りですれ違ったよね?」
「えぇ、やっぱり、あれは貴樹君だったのよね?」
「うん、そうだよ。 あれは奇跡だと思った。そして、なんて残酷な奇跡なんだって……」
「私も苦しかった。だって、私だってあなたとの初恋はちゃんと終われなかったから。 私の中にもあなたへの想いがくすぶっているのよ……」
 そのことを認めてしまった。言葉にしてしまった。 いけない、言葉にしすぎると戻れなくなる。自分の想いがコントロールできなくなる……。
「でも、私とあなたの道は、もう一つに戻ることはない、そうも思うわ。 たとえ、どんなに近くの道だとしても、もう、同じ道を歩むことはないのよ……」
 そう言いながらも、明里は感じていた。 今、自分は非常に危うい道を歩いていることを。そう自分で言葉にしないと、一気に想いが傾いていきそうなことを。 行くべき道は分かっていた。でも、自分が本当に進みたい道はどれなのだろうか?
 そして、貴樹はどの道を行きたいのだろうか……。
 そんな葛藤と不安の中、貴樹の言葉を待った。
「そうだね……。 そう言ってしまうと、悲しく聞こえるけど、それは正しいと思う。でも、その代わり、君の道は彼、えっと雅和さんだっけ? 彼と交わって一本になったんだよね?」
「そう、そして、あなたの道は、あの彼女と一本になったの?」
「彼女はそれを望んでいる。 そして僕も……、 そう望んでいると思ってる」
「曖昧ね……。 ちゃんとはっきり言葉にしないと、道が別れるわよ?」
 そう。それが自分と貴樹が歩んできた道。 もう、二人は本当にもとの道には戻れないのだろうか? 自分はもとの道に戻りたいとは思わないのだろうか?
「きびしいな」
 貴樹は苦笑しながらそう言った。
「でも、そうだね。 はっきりしないとね……」
「そう、言葉にされない想いは、それがどんなに強い想いでも、いえ、強いからこそ、自分に自信が持てなくて、相手の想いを信じられず、やがて想いは壊れてしまうわ」
 夫の先ほどの言葉を思い出した。『いつでも、一緒にいるよ』その言葉を思い出し、少しだけど気持ちが落ち着くのを感じた。 やはり言葉の力は大きい、そう感じた。
 だから、その気持ちが確かなうちに考えをまとめ様とした。
「私と雅和さんの道は、お互いの約束と想いでしっかりと一つになっているわ」
「うん」
 貴樹の表情は徐々に穏やかになっていく様だった。 もう、貴樹の中には自分に対する想いはなくなってしまっているのだろうか……。 その想像に一瞬で心がかき乱された。

「僕は、これからの人生を彼女と歩んでいくつもり。 今はまだ、彼女、花苗とは何の約束もしてない状態だけど……。 でも、想いは同じ」
「あ。 あの人、花苗さんって言うの?」
「そうだよ。 彼女とは高校の時に一緒だった子なんだ。 …… 君との文通が途切れた時に僕を支えてくれた子なんだ」
 そう言うと、遠くを見詰めるような目になった。
「ふう……」
 やがて、貴樹は深呼吸をすると、笑顔になった。
「何だか、こうやって明里と話してると懐かしくって、つい長話になっちゃうけど。 僕たちが、こうやって長い間話し込んでるのを雅和さんは、花苗はどう感じてるのかな……」
 何を急に言い出すのだろうか? 自分の周囲をきちんと見ろ。そういうことだろうか?
「そうね……。 二人で手をとって逃げ出すかもしれない、なんてはらはらしながら見てるのかしらね?」
 その言葉には、一片の真実が、いえ、自分の望みが混じっていたのかもしれない。 けど、貴樹はそれに気付かなかった様だった。
「そうなのかな?」
 いえ、気付かない振りをしているのだろうか……。
 ならば、自分もそうしよう。
「でも、そうね。 こうやっていつまで話していても、尽きないわね。 また今度、雅和さんも、花苗さんも一緒に四人でお話しする機会を作りましょ?」
 その明里の提案に、貴樹は笑顔で頷いた。
「そうだね、道が一つにならなくても、となりの道を歩くことは出来るからね」
 そう言うと、貴樹は一枚の名詞を差し出した。
「これ、僕の連絡先。 今はフリーのプログラマだから、こんなものも持ってるんだ。気が向いたら連絡して? 花苗と二人で待ってるよ」
 名刺を受け取った明里に、微笑を向けると貴樹は言葉を続けた。
「今日は会うことが出来て、そして話せてよかったよ。 またいつか、もっと気持ちが穏やかになったら。 そうしたら、また会いたいね」
 その言葉に明里は激しく動揺した。 この何分かの間の心の動揺を見透かされていたのだろうか? いや、違う。 きっと、貴樹も似たような心の動揺を抑えながらの会話だったのだろう。そう感じた。
 つまりは……。

「今回は、僕も色々な言葉を飲み込んでる、そして多分、君も。 それはつまり僕たち二人は、まだとても危うい関係だっていうことだと思う。 だから、もう少しお互いの、それぞれの人生を重ねよう。 そして、それぞれの人生がより確かになれば……。 そうすれば、僕たちは本当の友達になれるはず」
 その貴樹の言葉は全くの真実だった。 それは判った、お互いの心の中に、お互いを求める気持ちがある、そう言っていた。 それを認めながら、それでも貴樹は道を一つにするべきではない、そう言っているのだった。
「二度と会わない、っていうのはつらいけど。 でも、こうして二人だけで話すのは、もう少し待ったほうが良いと思う」
 貴樹の言うことはとてもよく分かった。
 けど、それだけに逆のことを思ってしまった。 そう、自分も、貴樹もお互いとの関係を取り戻したい、そう感じている。 どちらかがそう望めば、その方向に一気に二人の気持ちは傾いてしまうだろう。そして、一度その方向に動き出したら、おそらく、その想いは誰にも止めることは出来ないものになるだろう。
 つまり、自分たち二人が抱え込んでいる想い、というのはそれほどまでに、強く、鮮やかで、現在のそれぞれの関係に対する想いに比べても、全く劣ることの無い想いなのだと。
 自分たちはどちらも同じような状態なのだということを……。
 それでも、彼はとてもまっすぐに、自分たちそれぞれの、現在の関係を守ろう、自分たちの初恋はその可能性を考えるべきではない、そう言っているのだった。
 だからこそ、貴樹の言葉の裏を思うと胸が苦しくなった。 つまり、貴樹の中には自分への想いがあるんだ、そう確信した。 そして、自分も明らかに貴樹への想いを抱えている。それなのに、別々の道を歩もう、そう言葉を交わしている。
 表面的に交わされている言葉と、その裏の気持ちが全く違うもの。
 それをお互いに感じている……。
 貴樹は初恋を、その想いをここまでで終わりにしよう、そう言っている。
 そうできると言っている。
 自分は、本当に初恋を終わりに出来るのだろうか?
 見上げる貴樹の表情は限りなく優しく、そして同時につらそうに見えた。
 自分の目に涙が溜まり始めるのが分かった。 声を上げて泣きたかった。そのまま、貴樹の胸にすがりたかった。終わりにしないで。行かないで、やっぱり自分には貴樹への想いを捨てることなんて出来ない。花苗さんと別れて! そう叫びたかった。
 その激情に、その瞬間、雅和さんのことは明里の頭の中から消えていた。

 その衝動を抑えるのが限界に達しようとした時だった。
 貴樹が、明里に近付いてきた……。
 あぁ、やはり貴樹も想いは同じだった。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『あなたの思う様に、後悔の無い様に』そうは言ったけど、そんなのは私の強がりだった。
 貴樹くんが明里さんと話し込んでいる姿を見るのはつらかった。
 遠目にも、二人がお互いの様子を探りながら言葉を交わしているのが分かった。こちらから見える明里さんの表情はつらそうだった。
 何がそんなにつらいのか? それは一つしか思い付かなかった。
 貴樹くんとの初恋が終わりになるのがつらいんだ。 つまり、明里さんも貴樹くんのことがまだ好きなんだ。 あの二人の初恋は終わってなんかいないんだ。
 そのことが、遠目にもはっきりと感じられる様だった。
 だから、そんなことを感じている私が平静を保つのはとても難しかった。
 出来れば、貴樹くんに早く戻ってきて欲しかった。 こんな状態では私自身が貴樹くんを信じきれない。彼の言葉は嘘じゃなかった。けど、それは明里さんに出会う前の彼の言葉。明里さんに会ってしまったら、彼女の想いを確認してしまったら、彼の心は千路に乱れているはず。だって、彼だってまだ明里さんが好きなんだから。
 とにかく、貴樹くんと明里さんは、とても、とても長い間話していた。 それは、私には無限の時間の様にさえ感じた。
 早く戻ってきて、どんなにそう考えても、彼は中々帰ってこなかった。
 そんな極限の不安の中、貴樹くんが明里さんに近付くのを見た。 二人の顔が近付き、まるで口付けを交わそうとしている様に見えた。明里さんの手が貴樹くんに向かって伸びるのが見えた。お互いを抱きしめようとしている。あぁ、やはり彼女も貴樹くんを求めている。
 見てなんかいられなかった。 目を逸らすしかなかった。

 やはり、私の想いは届かない。 彼ら二人の間に割り込むことなんて出来なかった……。
 目の前が真っ暗になる様な気がした。
 そう感じると、何もかもが変わってしまった。 先ほどまでの心地よい春の陽気も、暖かい日差しもまるで別世界のように遠く、寒さだけを感じた。
 いくら望んでも届かないことっていうのがある。
 それを思い知らされたと感じた。





想いと距離
    先頭

 貴樹も自分の想いには抗えなかった、やはりこうするのが自分たちの運命。
 明里がそう思い、貴樹に向かって手を伸ばし、その胸に飛び込もうとした、その時。
 その明里の耳元で、貴樹が囁いた。
「明里、泣かないで……。 今、それ以上泣かれると、僕と君は離れられなくなる。 お互いの、それぞれの幸せのために、今は我慢して? そして君は雅和さんの胸で泣くべきだ」
 見ると、貴樹の目も真っ赤で、抑え切れない涙があふれていた。それでも、震える声で、お互いの正しい道を主張していた。
 明里も目に涙をためながら、必死に嗚咽を堪えながら答えた。
 その瞬間、それまでの激情が引いていき、周囲に現実が、そして、心の真ん中に雅和さんが戻ってきた様に感じた。貴樹に向かって伸ばしかけていた手が、元に戻った。
「貴樹君……。 強くなったのね……」
「はは……。 まぁ、色々あったからね……」
 貴樹は少し笑顔をほころばせてそう言うと、何事も無かったかの様にもとの位置に戻った。
「僕はそろそろ花苗のところに戻るね。 彼女、さすがに本当に心配してると思うから」
 明里が必死に涙を堪えていると、貴樹は手を差し出してきた。
「じゃ」
 明里も恐る恐る手を差し出し、そして二人は握手した。
「うん。 友達なんだから、別れ際は握手くらいしないとね?」
 貴樹の笑みは悪戯っ子の様だった。 明里も必死に気持ちを落ち着かせて答えた。
「そうね……。 また……、 ね」
 その明里の返答に貴樹は満足げにうなずいた。
「うん、また」
 そう言うと、貴樹はあっさりと踵を返し、花苗さんのいる場所へ戻っていった。
 明里はしばらくそれを見ていたけれど、貴樹が花苗さんの許に着くのを、そして彼女が貴樹に抱き付くのを確認すると、雅和さんを振り返った。
 そして、自分の場所、夫のとなりの場所に戻っていった。


「ただいま……」
 雅和さんのとなりに戻ると、何とか言葉を押し出した。
 けど、今は話すことも、いえ、立っていることすらやっとだった。
「おかえり。 大丈夫かい?」
 明里は、先ほどから必死に耐えていた想いが噴き出してくるのを感じていた。
「だめ……。 全然大丈夫じゃない……」
 雅和の表情は穏やかで、微笑んではいなかったけど、それでも限りなく優しかった。
「明里、おいで……」
 明里は素直に雅和さんにすがった。そうすると、先ほどまでこらえていた想いが、涙が一度にあふれ出してくる様だった。やはり、雅和さんの胸は温かい。
「ごめんなさい……。  今、彼とお互いの初恋は終わった、そう言ってきたけれど……。 でも、本当は違う。 まだ終わりきれない、終わらせたくなんてなかった。 私、彼のことが好き、それは今も変わってなかった。 それは彼も同じだった。 でも、私と彼はもう一緒に居ることは出来なかった……。  だから、悲しい……。 そして苦しい……」
 そんな明里を柔らかく抱きとめた雅和は、穏やかで、限りなく優しかった。
「あぁ、無理はしなくて良いよ。 僕はいつでも君を支えている。 君がいつ飛び出しても、いつまでも君を待っている」
「私は彼が好き、それはずっと変えられないけど……。 でも、私はここに居る。 だって、それ以上にあなたを愛してる。 あなたと離れたくない。 それが大事なの」
 泣きながらも、自分の混乱した想いを、そして希望を吐き出した。
「だから、こんな私でよかったら一緒にいて欲しい……」
「もちろん。 僕たちはいつまでも一緒だよ」
「ありがとう。 あなた……。 私をしっかりつかまえていてね」
 明里はそう言いながら、夫、雅和の胸に顔をうずめると嗚咽を漏らした。それは次第に泣き声になっていった。雅和の胸で声を出して泣いた。涙を流すことで、声を出して泣くことで、自分の苦しさが徐々に軽くなって行く様に感じられた。
 そうして泣きながら明里は感じ取っていた。貴樹が如何に多くの言葉をのみ込んでくれていたか、もし彼がその言葉を飲み込まずにいたら、いえ、自分の激情に応えていたら? 自分はこの場所には戻って来れなかっただろう。 貴樹の理性に救われた、そう感じていた。
 想いに逆らった訳じゃない。 一時の激情に惑わされず、本当の想いを守ったんだ。
 やはり、距離は怖い。 遠く離れたことによって、想いが途切れた。 逆に、近寄りすぎたことによって、想いが爆発した。 同じ距離で、冷静に想いを比べれば、きっと自分の本当の望みを間違えなかったはず。
 それを、私は間違えそうになった。 けど、彼は間違えなかった。
 そう思った。
 それでも、今日は悲しい、想いがあることに間違いは無かったから。 だから、明日もまだちょっと苦しい。 でも……。
 もう少し経てば、そうすればきっと悲しさは徐々に消え、嬉しさが残る。
 一緒に苦しさに耐えた嬉しさが残る。 そう信じることが出来た。
 だから今は泣こうと思った。 そうすることで、やっと初恋を終わらせることが出来る。
 夫の腕に抱かれ、明里は泣きじゃくりながらも、幸せを感じようとしていた。





色々な涙
   先頭

 無理だった。やはり、私の望んだ通りになんかならない。そんなことは最初から分かっていたはず。けど、一度希望を持ってしまった。 だから今は余計につらい。
 涙が止まらない。 今は、泣かなくてはいけない。
 この涙の勢いで、今度こそ、この想いを押し流さないといけない……。
 顔を上げていることなんて出来なかった。
 俯くしかなかった。 目の前の地面に、私の涙が落ちていくのが見えた。もっと泣かなければ、声を上げて泣くことが出来れば、この想いを押し流せるかもしれない……。
 こんなに好きなのに、けど、叶わない想いなら、抱え込んでいてはいけない。
 嗚咽が込み上げては来たけれど、でも声を上げて泣きじゃくることは出来なかった。

 どれだけ時間が経ったのか判らなかった。
 ふと、気が付くと、目の前に人影が立っていた。
 恐る恐る顔を上げると、そこに貴樹くんがいた。涙で頬を濡らし、目を真っ赤にした私の目の前に貴樹くんが立っていた。 どうして、こんな所に貴樹くんがいるんだろう? どうして、貴樹くんは私に笑いかけているんだろう?
 望みが無いんだから、もう私に優しくしないで……。
 混乱する頭で、そんなことを思ったけれど、けど、彼は、そんな私に向かって、穏やかに、限りなく優しく微笑むと、こう言った。
「ただいま」
 その言葉の意味が判らなかった。 それでも、彼は続けてよく分からないことを言った。
「僕の初恋は、今、やっと終わったよ」
 その彼の言葉は聞こえていたけれど、でも心にまでは届かなかった。
 さっき、貴樹くんと明里さんはキスして、抱き合っていたはず、それがどうして、こんな所にいるのか? あぁ、そうか、一応のけじめとして、最後通告を突きつけに来たんだ。
 そんなことしなくて良いのに、その真面目さは酷だよ。そして、最後通告の時まで、そんなに優しい顔をしないで。諦められないじゃない……。
 けど、彼の表情は変わらず、じっと私を見詰めていた。
 その時、私は何も考えられなかった。ただ絶望していた。そのくらいに、あの光景がショックだったから。もう、私を独りにして。止まらない嗚咽を無理に止めようと、口を抑えたけれど、それでも嗚咽は、涙は止まらなかった。彼の顔を見ていることが出来なかった。だから、私はまた俯いてしまった。頬を伝い落ちる涙が、地面を濡らすのが見えた。
 その私の様子がさすがにおかしいと思ったんだろう、貴樹くんが心配そうに声をかけてくれた。そう。私は、その時とんでもない勘違いに捉われていた。後になって、随分とからかわれることになるけれど、でも、その時の私は本当に分かっていなかった。
 どうして貴樹くんが目の前にいるのか、どうして私に笑いかけているのか……。
「花苗……。 どうしたんだ? 戻ってきたよ。 時間がかかりすぎたかな?」

 その言葉がやっと私の心に届いた。戻ってきた? どうして、そんなことを……? 少し頭が動き出した。俯いたまま、嗚咽は止まらないけど、少しずつ彼の言葉を振り返った。
 最初、彼は何と言った? そう言えば、ただいま、そう言った。 その次の言葉は何だったろう? あぁ、そうだ。初恋は終わった、そう言っていた……。
 え?
 初恋は終わった? え? 明里さんと想いを確認し合ったんじゃなかったの?
 確かに、キスしてもおかしくないくらいの距離まで二人の顔が近づいたのは見た。 けど、そう言えば、キスしているのを見た訳じゃない。明里さんが手を伸ばすのを見た。けど、二人が抱き合うのを見た訳じゃない。 見ていられなくて、私が目をそらしてしまったから。
 え? まさか……。
 現金なもので、その瞬間、とめどなく続いていた嗚咽も止まった。
 目の前で静かに佇む貴樹くんを、おそるおそる見上げた。 彼の表情は苦笑いだった。
 そんな彼と目が合った。
「もしかして、何か勘違いしてない?」
 彼が苦笑のまま言った。 私は、ちょっときまりが悪くなりながら頷いた。
「そうかも……」
「じゃ、もう一度言いたい。  花苗、ただいま」
「おかえりなさい……」
 それでも、それだけ言うのがやっとだった。笑顔を作りたかったけど、後から後から湧き出てくる涙が頬をぬらして笑顔にならなかった。けど、その涙は先ほどまでの涙とは違った。
 たまらなくなって、貴樹くんに抱きついた。
 そんな私を、貴樹くんはやさしく抱きしめてくれた。悲しくなんて無いはずなのに、うれしいはずなのに、なぜか涙が止まらなかった。
 自分でもどうして泣いているのか分からなかった。
 いつの間にか、さっきまでよりも、あふれる涙は増えている様だった。
 貴樹くんが戻ってきてくれた。それはうれしいことなのに、彼は私の笑顔を必要としているのに、それはよく解っているのに、でも私は泣きじゃくることしか出来なかった。 この十年間の、貴樹くんを好きになって、ずっと耐えてきた、その十年間のつらさが、今すべて報われたんだと判った。
 彼への想いを清算しようと告白し、島に残って日常の生活に没頭しようとした日々。
 それでも、日々の生活で、その場所のあちこちで、彼との思い出を見つけてしまって、彼のことを忘れられずに苦しかった。誰にもすがることが出来ず、一人で声も出せずに涙を流す日が続いた。
 そんなつらい時間が、その時まで私の中に溜まっていた様々なつらさが、今、涙となって体の外に汲み出されて行く様に感じた。
 貴樹くんが優しくささやいてくれていた。
「花苗。 今までごめん。 もう離れたくない。 一緒に生きてくれるかい?」
 私は泣きじゃくりながら何度も頷いた。 そして、泣きながらもやっと念願の幸せを手に入れたことを感じていた。
 彼にすがってどのくらい泣いただろうか? やっと気持ちが落ち着いてきた。気がつくと、貴樹くんの目にも涙が浮かんでいた。その瞬間、貴樹くんは、たった今、初恋に終止符を打ってきたところだったことを思い出した。
 私は慌てて自分の涙をぬぐいながら彼に話しかけた。
「ごめんね、私がこんなに泣いちゃって……」
 彼の状態を思うことも出来ずに、ただ自分自身の感情に流されてしまったことが急に恥ずかしくなった。それでも貴樹くんは、そんな私をしっかりと受け止めてくれていたけれど……。
 彼はちょっと悪戯っ子の様な笑みを浮かべると、からかう様に言った。
「大丈夫。でも、女性に抱き付かれるのって、気持ちいいね。 まぁ、ちょっとだけ恥ずかしいけどね?」
「もう! 意地悪!」
 そんなやり取りで、張り詰めていた気持ちがちょっと楽になった気がした。でも、やはり、彼の気持ちはまだそんなに穏やかなはずは無いと思った。
「でも……」
「貴樹くん、大丈夫? つらいんでしょ?」
 貴樹くんは真顔になり、少し躊躇った様だったけど、素直に告白してくれた。
「うん、今はまだつらい……。 やっと今、明里との初恋を終わらせて来たけれど。 まだ僕の心のあちこちに明里への想いがこびりついてる感じがする……」
 私を真っ直ぐに見詰め、少しつらそうに目を細めて、彼は一言ずつを大事に、確認する様に言葉にしてくれた。
「今日、今すぐには笑うことは出来ないかもしれない……。 明日もまだつらいかもしれない。でも、きっとそのうち。 近いうちに、このつらさを乗り越える。 そうすれば、より大きな喜びにたどり着ける。 そう信じてる」
 そして、今度は私の目を真っ直ぐに見詰め、少し微笑みながら言ってくれた。
「でも、それには、花苗、君と一緒に生きて行きたい。 一緒に生きていくことで、つらい時は支え合いたい。 そして、一緒に喜びを感じたい。 そういう風に、君と生きて行きたい。それが僕の幸せだと思う」
 その言葉を信じていいのだろうか? 私の想いそのものの様な、そんな言葉を。
 でも、私は知っていた。 信じればいい。信じきればいいんだ。 お互いに信じきれば、それは本当に本当になる。
「私も…。  私も、あなたと一緒に生きて行きたい、それが私の幸せ」

 気が付くと、私と貴樹くんは手をつないでいた。手をつないで、同じ方向を向いて、同じものを見ていた。 見上げると、いつの間にか、空は抜けるような優しい青さを見せていた。そんな空を見上げながら、徐々に自分が落ち着いていくことを感じた。
 貴樹くんも私と一緒に空を見上げている様だった。
「島の空みたいだね……」
 貴樹くんがぼそりと言った。
 きれいな、優しい空に包まれて、いつの間にか、私は貴樹くんの腕にすがっていた。
「そうね……」
 また、自然と涙があふれて来た。 今日の私は泣き上戸らしい。
 貴樹くんは、今度の私の涙は心配するようなものではないと分かった様だった。 だって、私は笑顔だったから。
 それに、彼だって目には涙を溜めていた。だから、私も気にしないことにした。
 私たちはどれだけの時間泣いたのか分からなかったけれど、私は自分の気持ちがこの十年で初めて、純粋な幸せでいっぱいになっていくことを感じた。

 私のとなりには貴樹くんがいた。
 私は彼を見ていた。 そして彼も私を見ていた。
 遠い昔、彼の視線は私を突き抜けてどこか遠くを見ていた。けれども今、貴樹くんは私を見ている。心の底から笑顔が沸いてきた。
 彼も微笑んでいた。
 だから、嬉しかった。

 彼の微笑みが近付いて来た。彼の体温を間近に感じ、私は頬を染めながら目を閉じた。
 彼の唇が触れた瞬間、私の頬にはまた涙が流れていた。
 それはこれまでの涙とは違うものだった。 穏やかで優しく、そして暖かかった。
 それは私の中をいっぱいにしてあふれてきた涙。


 そう、それは幸せそのものだった。




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