逝去前に食欲不振・のどの渇き
「高宗の逝去は医療事故?」
1919年1月21日に逝去した朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝の高宗の死因をめぐり、学界では日本による「毒殺説」と、これを否定する「脳出血説」が対立していた。ところが、このほど「医療事故説」を主張する新たな学説が登場した。独立記念館韓国独立運動史研究所のユン・ソヨン学術研究部長が28日に「三・一運動(独立運動)100年、過去 現在 そして未来」(韓国歴史研究会・韓国学中央研究院共催)学術大会で発表する「高宗毒殺説再検討」という論文での説だ。
高宗毒殺説は三・一運動当時の街頭に張り出された檄文(げきぶん)や地下新聞だけでなく、朴殷植(パク・ウンシク)大韓民国臨時政府第2代大統領の著書「韓国独立運動之血史」にも記述されるほど広まった。乙巳条約(第二次韓日協約)に反対し、ハーグ密使事件で強制退位した高宗が、1919年1月25日に予定されていた英親王(李垠〈イ・ウン〉)と日本の皇族だった李方子(イ・バンジャ)さんとの結婚に反対したという話まで飛び交ったためだ。
ユン・ソヨン部長は高宗の逝去をみとった日本人女性医師・戸川錦子氏の当時の証言に注目した。「4-5日前から高宗は食欲がやや落ち、不眠症と口渴症(のどの渇き)を感じると訴えたが、(担当の医療陣は)なおざりにしていた」。数日前から脳出血の前兆を示していたのに、医療陣が見逃したということだ。毒殺説の根拠とされている頸部(けいぶ)や腹部の黒い線や遺体の膨張などについては、「遺体が腐敗している様子を説明しただけで、毒殺を立証する根拠にはならない」と批判的な見解を示している。
同論文には、日本が高宗逝去の発表を遅らせようとしたという見方も掲載されている。1919年1月25日に予定されていた英親王と李方子さんの婚礼を前に、当時の朝鮮総督や高官たちはほとんどが日本に向かった。このような状況で高宗が突然逝去したため、李王職事務官の権藤四郎介らが婚礼を強行するため、高宗逝去を秘密にしたというものだ。日本の発表延期は高宗毒殺説の拡散をかえってあおり、民族的な怒りを刺激して三・一運動の口火となったとしている。