無料の日本語学校、灯は消さない 創設者の遺志継いだ校長の決意
■ボランティア頼み、綱渡りの運営
「ウズベキスタンでは最近、韓国や中国が経済的な存在感を増していますが、私は日本を応援したいのです。ウズベキスタン人に日本のいいところをもっと知ってほしい」
そう話すのはウズベキスタン東部のリシタンにある日本語学校「NORIKO(ノリコ)学級」の校長、ナジロフ・ガニシェルさん(55)。昨年の大みそかに来日し、2月下旬まで日本に滞在。学校運営への支援を求めるとともに、各地で出身者の活躍ぶりを見て回った。
リシタンは、首都タシケントから車で約5時間。絹や陶器が有名なフェルガナ盆地にある、人口3万人余りの地方都市だ。
この地にNORIKO学級ができたのは1999年。建設機械大手コマツのエンジニアだった大崎重勝さんが、フェルガナ盆地の他の街にできた自動車工場で重機操作を指導するため、ウズベキスタンと日本を行き来していた。その大崎さんが退職金を元手に、妻の紀子さんと開いた学校だ。学校名は、紀子さんから取った。
ガニシェルさんは工場で運転手や世話係として働いていたが、滞在していた日本人と接しながら独学で日本語を身につけ、開校時には資金も出した。学校ではこれまで約5000人が学び、100人以上が日本に留学。商社や銀行など日本企業で活躍している卒業生もいる。
大崎さんは体調を崩して2001年に帰国。その後05年に病没した。ガニシェルさんは、大崎さんの遺志を継いで学校を続けることを決めた。
現在、講師はウズベキスタンを観光で訪れる大学生などの日本人ボランティア頼み。観光シーズンはいいが、寒さが厳しい冬場はほぼいなくなる。講師が学校内の宿泊施設(3食付き)に泊まる際に支払う1泊30米ドルだけが収入だが、支払えない人からは無理には徴収していない。あとはガニシェルさんが材木業で稼いだ持ち出しの資金と有志からの寄付だが、経営は厳しい。
「大阪大学に留学して、将来はダイハツの工場をここに持ってきたい」
記者が昨年12月に学校を訪れると、大阪府豊中市にホームステイしたことのある17歳の男性はそう日本語で夢を語った。学校では、約15人の生徒が記者を迎えてくれた。ただ、資金難から暖房も付いていなく、室温が10度を下回っていた。
群馬県富岡市に滞在したことがある19歳の女性は「Hey! Say! JUMPの歌を歌うのが好きです」と話した。また、生徒らに知っている日本人を訪ねると、「本田圭佑」「柔道の野村忠宏」「E-girls」などとの名前が上がった。
暖かい季節は150人近くの生徒が通うが、冬場は10分の1に減る。講師もいなくなるため上級生が下級生を教えている。悩みの暖房だが、以前、石炭ストーブを試すと室内が真っ黒に汚れてしまった。薪は高価で手が出ない。最近まで不安定だった電気が安定供給されるようになり、ガニシェルさんは次の冬からは電気暖房を使いたいと思っている。しかし、変圧器を買う資金はない。
昨年、日本語学校に対して綿花畑などに使われていた近くの国有地の使用許可が出た。3ヘクタールの広さがある。ガニシェルさんは庭園や建築など日本文化を紹介する「日本村」を作りたいという夢があるが、資金のめどが立たない。
ガニシェルさんは今回の来日で、支援を求めて各地を歩いた。富岡市の国際交流協会などから桜と桑の苗木をそれぞれ100本寄贈されたが、企業など大口の支援者は見つかっていない。
ウズベキスタンはいま、変革期を迎えている。1991年の独立以来、カリモフ大統領のもと孤立主義的な外交を展開してきたが、カリモフ氏は16年に死去。後任のミルジョエフ大統領は善隣外交に転換し、経済開放も進めている。
ガニシェルさんは、日本企業にとっていまが進出のチャンスだと強調する。そして、「大崎さんのお陰でみんなの人生が変わりました。NORIKO学級はどうしても残さないといけません」と力を込めた。