前方後円墳の起源

邪馬台国畿内畿内説では前方後円墳は畿内発祥で 
前方後円墳が次第に全国に広がっていく事から、前方後円墳が邪馬台国畿内の証拠で 
前期の大型古墳である箸墓が卑弥呼の墓である、とする人が多い。 

最近、年輪年代法により勝山古墳の周濠から出た板片の年代が三世紀初めと測定され、 
従来、4世紀と言われていた箸墓の築造が三世紀中葉に繰り上がる可能性が出て来た 
として俄かに畿内説が活気付いてきた。 

しかし、前方後円墳は倭人伝に記載された倭人の墓制とは相容れないものである事を
無視した議論である事に思い至らない馬鹿な話。 

前方後円墳こそが畿内は邪馬台国たり得ない事の証拠である。 
前方後円墳の存在が畿内が邪馬台国ではなく、畿内が外来勢力の国だった証拠なのだ。 

起源は高句麗積石塚 

邪馬台国畿内畿内説では前方後円墳は畿内発祥で 前方後円墳が次第に全国に広がっていく事から、前方後円墳が
邪馬台国畿内の証拠で前期の大型古墳である箸墓が卑弥呼の墓である、とする人が多い。 

最近、年輪年代法により勝山古墳の周濠から出た板片の年代が三世紀初めと測定され、従来、4世紀と言われてい
た箸墓の築造が三世紀中葉に繰り上がる可能性が出て来たとして俄かに畿内説が活気付いてきた。 
しかし、前方後円墳は倭人伝に記載された倭人の墓制とは相容れないものである事を無視した議論である事に思い至
らない馬鹿な話。 

前方後円墳こそが畿内は邪馬台国たり得ない事の証拠である。 
前方後円墳の存在が畿内が邪馬台国ではなく、畿内が外来勢力の国だった証拠なのだ。 

前方後円墳の原型とも言われる積石塚墳が今の北朝鮮側に沢山ある。 
何故そう言われるかと言うと前方後円墳に似た祭壇を備えていた。 
祭壇がついているかどうかが起源を一緒とするかどうかを決定づける。 
祭壇付きの古墳が両方にあって、一衣帯水とも言うべき距離にあるのに無関係に偶然似たものが出来たなどと考える
方が無理。

積石塚は墓全体が石で出来ている。積石塚の定義は土を一切使わない事にあり,ちょっとでも土が使われれば積石塚
とは呼ばれない。
考えてみよう。 
3世紀に低湿地帯だった奈良盆地では決定的に石が不足し。結果として石を節約する為に土盛りの上に葺き石を貼っ
たとも考えられる。箸墓の築造に際し生駒山方からも石を運んだと言う伝承があり、実際に生駒山の石も使われてい
る。

四国には積石塚型前方後円墳と言うのが多数存在する。徳島の萩原一号墳は積石塚と呼ばれている。ホケノ山とほ
ぼ同時期に作られたものと推定されている。ホケノ山の石囲木槨というのも朝鮮半島北部由来のものだ。中身が来て
いるのだから外形が似ていたら全体が来たと考えるのが妥当だろう。しかし日本の考古学者はこれを認めようとしな
い。 

前方後円墳の大部分は土を盛ってその上に石を葺いたものだ。弥生時代の墓は墳丘墓と言われる低い土盛りの墓
だ。 

四隅突出墓以外に墓に川原石を貼り付けるような墓はなかったし、前方後円墳は高句麗と江南の折衷と考えればすっ
きりする。その四隅突出墓さえも半島の付け根、吉林省辺りにルーツがあるのではないかと考えられるようになってき
た。

無槨有棺と有槨無棺が合わされば有槨有棺の前方後円墳になるのだから。 
今は亡き江上教授が調査して鳥取などの弥生時代の四隅突出墓まで高句麗支配地域にあった事が判っている。 

弥生後期に鳥取、吉備などに四隅突出墓が作られていた事は何を意味するか? 
弥生時代後期はこれらの地域は倭人の国ではなかった事になる。 

今まで畿内論者も北九州論者も銅鐸が朝鮮半島から来たものである事も知らずに前方後円墳が畿内発祥であるとい
う事を前提に考古学年代を組み立ててきた。 

畿内が大陸とは比較的隔絶されており大陸のから来た物もいつのまにか変化してしまう。 
北朝鮮の積石塚も日本に来て変った。そしてそれは中国史書に倭国の記述のない四世紀の事である。 
初めは北朝鮮にある積石塚とあまり違わないホケノ山古墳や萩原一号墳のような形で。 
第二段は南朝鮮の影響を受けて変化した箸墓のような形になった。 

「古代朝鮮の考古と歴史」  編:李成市・早乙女雅博, 雄山閣 
朝鮮の学者が数人表題について研究結果を発表しそれについて日本の研究者が質問をする、というシンポジュームの
記録である。 
司会は大塚初重教授。 
書店で「古代朝鮮の考古と歴史」と言う本を見つけてパラパラとめくってみた。 
朝鮮の学者が数人表題について研究結果を発表しそれについて日本の研究者が質問をする、というシンポジュームの
記録のようだ。 

その中でやはり朝鮮の学者から高句麗の積石塚と四隅突出墓についても言及があり、写真もあった。 
その写真の高句麗積石塚はまぎれもない前方後円墳だった。印象としては方部が柄杓の柄を少し短くしたような形で
柄鏡式古墳というのに似ている。 

ところでこの本をめくって見て驚いたのが日本の研究者から積石塚の事に対して何の質問も出ていない事だ。 
 もはやそれは事実として認めているのか?それとも自分達の史観にとって都合が悪いからあえて無視したのか?
ひょっとすると出席者の間では前方後円墳が高句麗起源である事はもはや常識なのか?それとも敢えて無視している
のか。 邪馬台国畿内説も前方後円墳畿内発祥説も研究者が真実に目をそむけて 
いる事から成り立っているような気がする。

北朝鮮の学者が前方後円墳だと言う古墳。tentyukun氏提供

高句麗西大墓

集安にある西大墓という積石塚(新井直樹のホームページより借用)
解説によれば
 高句麗中期・329年に亡くなった15代・美川王の王陵で、辺長57m・高さ10mの方形積石墓となっています。
 左は山、右は鴨緑江、その間の風水の地です。
とある。
これは普通に方形積石塚なのだろうか?
右側にやや低い出っ張りがあって、前方後方墳であった可能性があるのではないか?
日本の前方後方墳のように前方部が発達していないが、初期古墳にみられる柄鏡形前方後方墳のような気がする。
ただしこれらの形式の墓は後に示すように高句麗が発祥と言うわけでもない。

「封土作冢」 

葺石に覆われた古墳は土で封じて冢となすという記述と合っていない。日本の古墳は封石作冢というのだろうか? 
ホケノ山は土を盛ったというより削ったと言う方があっているし、石囲い木槨は石を積んだと言うに相応しい。完成した
姿は正に高句麗の「石を積みて封と為す」そのものに見えたはず。
つまり東夷伝にある高句麗の「積石爲封」の方が妥当な表現だろう。

また箸墓以前にもホケノ山や石塚など全長100m前後の大きい墓があるが、倭人伝には邪馬台国には魏や高句麗
や韓国にも無い巨大な墓についての記載はない。
むしろ巨大古墳こそが畿内が邪馬台国でない証拠だ。

「大作冢徑百餘歩」 

「大作冢」といっても大きい墓を作ったと言う意味ではなく、大いに墓を作ったと言う意味だ。 
大いにとは、民衆がこぞって墓作りに参加したと言う事だ。 

徑百餘歩は一般には一歩が140cm程度と言うことになっているが、短里75mの300分の1であれば25cm位になっ
て100歩は25m位になる。(短里の項参照)
当時の中国の墓のサイズがどの程度であったかを見れば25mでも十分大きい墓である。ちなみに諸葛孔明の墓は径
20mである。
 
東夷伝に沃祖の墓制の記述がある。「其葬作大木槨、長十餘丈」とある。当時の単位と言われる「丈」であれば長さが
23m以上と言う事である。幾ら大木槨と言っても25mは長すぎであろう。五分の一で5mくらいの長さでも大木槨で十
分通用する。沃祖は洗骨を実施して小さな骨壷として並べ、家族の墓としていたのだから。

弥生の墓制との連続性

弥生時代の墓はその主体はいずれも地下または半地下である。初期前方後円墳は土盛り墳丘部の頂上に槨室を設
け主体を埋葬する。そしてその位置は丘陵部に設けられる事が多かったのに纏向では低湿地帯ある。 
葺き石を貼ると言うのも四隅突出墓以外には弥生墓制にはないものだ。そして九州北部や韓半島南部にもなかった墓
制なのだ。(三世紀末伽耶地域には表れる。日本でも古墳時代になって現れる。)

突然変異的にこれほど大きな変化が起きるものだろうか?起きたとすれば異民族の到来しか考えられない。 

四隅突出墓と言えば高句麗があったと言われる鴨緑江の流域で見つかっている事から 大陸起源であることは間違い
ないだろう。四隅突出墓以外に墓に川原石を貼り付けるような墓はなかったし、葺き石付きの前方後円墳もまた高句
麗起源である可能性が高いのではないか。 

【注目されるのは鴨緑江中流沿岸において紀元前1世紀頃の前方後円形、前方後方形、四隅突出形の積石塚が築か
れたこと。】 
という記事にも要注目だ。 

私は畿内高句麗説にこだわっているので高句麗積石塚が前方後円墳のルーツであろうと考えている。 
箸墓より古いホケノ山とか殆んど前方後円形積石塚といっても差し支えないものだし、 

ほぼ同時期に四国で萩原一号墳などの前方後円形積石塚が作られている。 

奈良盆地では石が足りなかったので石を節約する為、土盛りを多くして葺き石を貼ると言う形にしたのではないかと 
睨んでいる。 

遊牧民族の墓制
それから積石塚という墓制はモンゴルにも共通した形式だったようでこれも尻尾付きのものだったようだ。 
国士舘大学の調査隊の記録によると
【ヘレクスルはみな方形の石囲いをもち(最大で74×92m)、その北・東・南側に石堆が多数あるが、とくに東側に多い。
中央の円形積石塚(最大で直径20m、高さ3m)から東方に牛角のように曲がって石列が伸びている(最長で長さ14~
15m)。円形積石塚(クルガン)から東方に石列が伸びる例はカザフスタンに多く見られる。ロシアの考古学者たちは石
列を「ひげ」に見立てて、このタイプの遺跡を「ひげ付き」クルガンと呼ぶ。】 
早稲田大学調査隊の記録では
【方形・円形ヘレクスルの東側に(方形では北側と南側にも)直径3~5mくらいの石堆や環状配石が付属している。】 
これには 
【方形ヘレクスルでは、四隅にも石堆がある。】 
と四隅突出墓を思わせる記載も注目すべきだろう。 高句麗よりも更なるルーツはモンゴルにあったかもしれない。 
モンゴルのように砂漠草原地帯では墓のようなモニュメントは土では見分けがつかなくなってしまうので 石で墓を作る
のは必須だったと思われる。 

多分、この蒙古式積石塚が高句麗に伝播し、更に日本にも伝わった。
「クルガン」と言う言葉も「沸流江」と繋がる可能性がある。発音は「k」が「h」に変わっただけ。 
クルガンの語源はクルガン人という古族がキルギスあたりにいて彼等が墓に拘る人種で 土饅頭型の墓を作った事か
ら土饅頭型の墓をクルガンと読んだらしい。キルギスと言う言葉もクルガンから変化したのかもしれない。 
匈奴時代以前に遡ると推定される石を円形あるいは方形に積んだ囲いをもつ墓が多数あり、ヘレクスル(キルギス人
の墓の意)と呼ばれてる。 

納棺室「木槨」の跡   前方後方墳で発見    滋賀の神郷亀塚古墳
 最古級の前方後方墳とされる滋賀県能登川町の神郷土亀塚古墳(全長36.5㍍、2世紀末ー3世紀初め)を発掘してい
る同町教育委員会は13日、木造の納棺室「木槨(もっかく)」の跡を見つけたと発表した。前方後方墳で木槨を確認した
のは初めてという。
木槨を用いる墓は従来、朝鮮半島から九州や瀬戸内・山陰地方を経由して畿内に伝わったとさ
れていた。同町教委は「朝鮮半島から直接伝わったのだろう。大陸との交流を考える上で本州の
日本海沿岸から琵琶湖を経由するルートの重要性が浮上してきた」としている。

 木槨は2基あり、古墳前方部で並んで見つかった。長さはそれぞれ4.6㍍と3.5㍍、幅は1.3㍍
と1.15㍍、高さは1.2㍍と1.1㍍。木材は残っていなかった。土の状況から、粘土で包み込んだ
木棺の外側を厚さ8㌢程度の板材で囲い、小部屋を作ったとみられる。(日経03・02・14朝刊) 

つまり以前より私の主張してきた「高句麗人が九州を介さず畿内へ入った」と言う 
主張を裏付ける証拠である。 

以下も参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
クルガン(кургaн;Kurgan)とは、トルコ語起源のロシア語で、日本で言えば「古墳」や「墳丘墓」に近い青銅器時
代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓のことをいい、そこから発展してしばしば樹木を組んで
作った玄室のような施設までを指す語として使われる。
1956年にマリヤ・ギンブタス Marija Gimbutas は、彼女の「クルガン仮説」を「クルガン考古学」と言語学を結びつけて、
原インド・ヨーロッパ語を話す人々の起源に位置付けて提唱した。ギンブタスは、明確な墳丘を伴う墳墓を持った「文
化」を仮に「クルガン文化」と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへの伝播していったことをつきとめた。この仮説
は、インド・ヨーロッパ語族の研究に重要な影響を与えた。ギンブタスを支持する研究者たちは、クルガン文化には、紀
元前5千年紀から紀元前3千年紀にステップやヨーロッパ南東部に存在した原インド・ヨーロッパ語族の民族的特徴が
反映されていると考えている。
ロシアのいくつかの町には、クルガン州のように「クルガン」の名前を冠する町がある。

フィンランドにも同じような積石塚があり、「フィン」と言う言葉は「フン」族を思わせる。
http://www.moimoifinland.com/basic/wh-sammallahdenmaki.php

サンマルラハデンマキ青銅器時代墓地遺跡 3000年前の墓

オラーン=オーシグIの遺跡
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~steppe/mongolia.1999.html 草原考古通信 No.11
ウランバートルから北西へ約600km、ムルン(Moron)市から西へ約20km、デルゲル=ムルン(Delger- Moron)川北岸にあ
る、オラーン=オーシグ(Ulaan-Uushig)山周辺の遺跡である。この山は直径7~8kmの独立丘で、「赤い肺」を意味するこ
とからわるように赤っぽい花崗岩からなる。この山の周囲に遺跡が多数分布している(図1)(なお西隣には白っぽい花
崗岩からなるツァガーン=オーシグ山があり、こちらにも遺跡がある)。

赤い花崗岩と白い花崗岩・・・。
高句麗王族も新羅王族も本当は同族であったはずが、好む色が赤と白と分かれたのは出自がこの二つの山に起因し
ているからだろうか?
「オラーン=オーシグ」の「オラーン」と言うのはウランバートルの「ウラン」と同じで「赤」と言う意味なのだろう。とすると
「ツァガーン」と言うのは「白」を意味するのか?

(b)1号ヘレクスルKh-1の発掘
Kh-1は遺跡の北部に位置する。中央の積石塚は直径12~13m、高さ2m弱で、その周囲を1辺25~30mの不整方形石
囲いがめぐる(図8, 9, 10)。
 墳丘の東にある張り出しは、清掃前には2つの弧をなすかと思われたが、円弧をなすのは南の張り出しだけで、北の
張り出しはほぼ方形で弧をなさないことがわかった(図17)。南の張り出しは石囲いの東辺を壊して北に伸び、最後に
やや西に曲がる。東辺を壊していることから、この張り出しは後世の改変である可能性が高いことを確認した。
つまり、これも前方後円墳形をしていることが判るのである


文面から判断して、右下のような積石塚が後の加工で左のような積石塚になったのであろうと思われる。


4号ヘルクスル
赤い矢印で示したところは前方後円墳の前方部に発展する可能性があるのではないか?

『前方後円墳の源流』と言う本
に載っている写真は
四隅突出墓については突出部のみの写真で、全体のイメージはつかめないが石が出っ張っている様子はわかる。
北朝鮮にある四隅突出墓のルーツではないかと言う積石塚




『アジアの歴史と文化』北アジア史 
同朋社 監修 竺沙雅章 1999年 
という本に匈奴の墓の絵がある。 

この画像の解説には
【匈奴の最盛期の王侯の墓はまだ発見されていないが、紀元前後の匈奴が一時的に勢力を盛り返した頃のものと思
われる王 墓がモンゴル高原の北部のノイン・ウラ(モンゴル語で「王侯の山」の意)で発見されている。 ノイン・ウラはモ
ンゴルの首都ウランバートルから北へ焼く120kmの所にある。 
・・・中略・・・・ 
調査されたのは古墳群の中でも比較的大きい12基の古墳である。墳丘は土を盛ったものであるが、表面には石が敷
かれていて、日本の古墳によくみられる葺き石と似ている。 
墳丘の形は各辺が東西南北を向いた正方形に近く、一辺の長さは15~25mのものが多いが最大は35mに達する。
高さは2m以下の低いものがほとんどであるが、一辺35mの古墳は高さも3.5mに達する。 
方墳はユーラシア草原の古代遊牧民にはきわめてユニークな墳形であり、中国からの影響があったのかとも考えられ
る。
(私注:普通は円形積石塚で方形は珍しいと言う意味) 

墳形のもう一つの特徴は一例を除いて方墳丘の南辺に長方形の張り出しが付いていることである。 
旧ソ連の考古学者ルデンコはこれを「しっぽ」付き古墳と呼んでいるが、日本の前方後方墳にも似ている。】 

モンゴルのような草原砂漠地帯では石は多くなく、乾燥しているから地下に埋葬したのだろうが 
高句麗では草原のような場所はないから河原に作られた。 
河原は石が多く水も出るので地下に墓室を作れず、石を積み上げ地上より高い所に槨を作った。 
奈良盆地では石が不足したが水が出易いという所で一致している。 
従って土で墳丘を高く盛り、石を貼り付け外見を積石塚に見えるようにした。 
四国の香川・徳島にある前方後円型積み石塚は石が十分あったから高句麗の積石塚と同じように作れたのである。 

前方後円墳のルーツだと断言しても良いだろう。 
ちなみに前方部が細いのを柄鏡型前方後円(方)墳 という。 

奥野正男『邪馬台国の東遷』より 


呼和浩特市 和林格爾壁画墓:後漢:(土専)築多室墓。全長19.85m。57壁画。墳墓壁画の一級品。140~170年頃○  
墓主生前の経歴・車馬出行・幕府官庁・城市荘園・農耕牧畜・宴飲厨房・楽舞百戯・歴史故事・四神図・瑞祥図など 
これは一時期 匈奴は漢に支配されていた時期があって漢の影響を強く受けた墓と思われるが、それでも 
前方後円型を守っている。 

このような墓が日本の近くに日本に前方後円墳が作られる前から存在しているのに、 
調べもせずに前方後円墳の日本発祥を主張している学者は一体なんだろう。 
都合の悪い所に目をつむり、耳を塞ぎ何の根拠もない妄想にふけっている。 
おおよそ研究者とは言えない。 

綾部山39号墳
http://www.keyton-co.jp/gensetu/03ayabe39/doc1.htm
はノイン・ウラの積石塚に近いものなのかもしれない。

「中央ユーラシアの考古学」藤川繁彦編 同成社
【匈奴の墓は円形あるいは方形を呈し、基本的に土壙墓であって、土壙のなかに二重の木槨を造営し、中に木棺を納
める中国漢代の墓葬と類似したものもある。その場合、土壙に達する傾斜道を南側に掘り、その上に土盛をする事に
よって前方後方墳のような外形を示すものもある。】

もう一つ「中央ユーラシア史」小松久男編 山川出版
【ノヨン・オール遺跡は・・・中略・・・山林中にあり、約70基の古墳が点在している。そのうち比較的大きいには12基で、
墳丘は盛り土であるが表面に石が敷かれている。これはスキタイ時代の古墳にも見られ、日本の古墳の葺き石と似て
いる。】

似ているのは日本の古墳のルーツだから。
若干違うのは、匈奴の墓は草原にあり、地下に墓室を作ったが、高句麗では川原で墓室を地下に作れないので石を
盛って高くした。大和も湿地帯で時折洪水が起きるところだから土を盛って高くした。
山地の尾根に作られた香川では床を平らにして石を敷き棺を置いて上に石を盛った。



大和の古墳の数
大和には誰のものとも知れない巨大な沢山の古墳がある。
これらは4世紀に作られたと言われている。
大和王朝の創生期と考えられる時代に作られた大きな古墳は何を意味するのだろうか?
一方、高句麗の故地、桓仁、丸都にも膨大な数の古墳がある。
高句麗の研究者はこれを評して【高句麗人は国土の半分を墓に費やす】と言った。
大和王朝の創生期には各氏族が、それぞれ墓を作りに精を出し競い合っていたのではないか?
高句麗も同じだったのではないか。

前出のクルガン人は墓にこだわるので墓の呼び名を種族名にされている。
クルガンの「クル」と「句麗」は関係あるのではないか?
高句麗とは言うものの本来の名前は「高氏」の「句麗」である。
高句麗人も墓に拘る人々だった。
大王でなくても出来るだけ大きな墓を作った。
そして、墓はすべて生前に用意した。
寿陵である。
三国志東夷伝には「高句麗人は結婚と同時に葬式の準備を始める」と書いてある。
畿内の箸墓のような巨大古墳は寿陵でなければ作れないだろう。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/0400.html

箸墓は積石塚
箸墓の構造が一部明らかになった
40年以上前に宮内庁が後円部の頂上付近を調査していた。それが今年の九月に発表されたのだ。
それによると頂部には分厚く石が轢かれ、積石塚のようであったらしい。
箸墓が倭人伝に記された倭国の墓ではなく、卑弥呼の墓でもなく、とうぜん畿内が邪馬台国の所在地ではない証拠で
ある。倭人伝には「土を盛りて冢となす」とあり、「石を積て封となす」と書かれた高句麗の墓によく似ている。
積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓も五世紀に築造されたと考えるのが正しいだろう。

都塚古墳
2014年8月に都塚古墳の発掘結果の発表があった。それによると都塚古墳は方形の階段状になったピラミッド型古
墳で、遼寧省にある高句麗の将軍塚古墳によく似ていると言う。蘇我氏の始祖稲目の墓であると言うのが有力な説で
ある。蘇我氏の出自ははっきりしない。継体天皇が即位した後、暫くして史書に名が出てくる。継体天皇もその墓今城
塚古墳の出土品などから見て、高句麗とは関係の深そうな人物である。
蘇我氏が本拠とした明日香からはオンドル遺跡、高松塚古墳、キトラ古墳の壁画など高句麗と関係が深そうな遺物も
発見されている。文献では百済人が居住した事になっているが、何か理由があって高句麗人の居住区であった事を隠
蔽したのではないか。

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