2年前の春が今生の別れとなった。WBC日本代表は、ドジャースタジアムで準決勝に臨んだ。小久保ジャパンの投手コーチが権藤博さんだった。
「セレモニーのときに目が合ってね。『ドン!』って言ったら覚えていてくれてね。『ゴンドーじゃないか! いくつになったんだ?』って聞くから78だよって。そしたら『ヤング!』だってさ。残念だよな」
1月に野球殿堂入りが決まり、4月2日の本拠地開幕戦では立浪和義さんと始球式に登板することも発表された。そんな伝説のOBが死を惜しんだのがドン・ニューカムさんだ。92歳だった。
大リーグ初の黒人投手。サイ・ヤング賞の初代受賞者にして、代打でも頻繁に出場した二刀流。ニューカムさんは、初めて中日でプレーした元大リーガーでもある。引退していたニューカムが異国での復帰を決意したのは、打者としてのオファーだったからとも言われている。1962年6月に来日。そのとき、球団首脳とともに名古屋駅で出迎えたのが権藤さんだった。
「私の姉が当時サンフランシスコに住んでいてね。ニューカムに『中日には弟がいる』って言ってくれてたんだ」。前年、ルーキーながら35勝を挙げた権藤さんだが、ニューカムさんが全身から発する本物の雰囲気に魅了された。
「迫力に圧倒されたね。貫禄が違う。それでいて横柄な態度は取らない。重厚感とでもいうのかな」。12本塁打を放ち、1年限りの在籍だったが、権藤さんには元投手として「すべての球種を同じ握りで投げ分けろ」とアドバイスした。「大リーグは走者が握りを見て、打者に指笛で教えるぞって」。権藤さんはその技術を習得した。
冒頭のセレモニーに、なぜニューカムさんはいたのか。亡くなるまでドジャースは会長付特別補佐というポストを用意していたからだ。19日に死去を発表したのもド軍だった。歴史を紡いできた名選手を大切に扱う風土。これがリスペクトということだと思う。