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阿南惟幾陸軍大将は、昭和の軍人であり、人格識見ともに世界的に尊敬される名将です。
そして終戦時には陸軍大臣を努め、あくまで戦争継続を主張し、最期は切腹をして果てられた方です。
この阿南陸軍大将の割腹の衝撃が、日本陸軍をして昭和天皇の玉音放送ととに戦闘活動を停止に至らせた最大の理由であるともいわれています。阿南惟幾大将の遺書
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)これからご紹介するのは、平成12年8月13日に、国際派日本人養成講座で伊勢雅臣さんが書かれた文章です。
昭和20年8月11日のChina派遣軍総司令官岡村寧次大将の電文から始まるこの一文は、阿南惟幾陸軍大将のことを書いた文章です。
阿南惟幾陸軍大将は、昭和の軍人であり、人格識見ともに世界的に尊敬される名将です。
そして終戦時には陸軍大臣を努め、あくまで戦争継続を主張し、最期は切腹をして果てられた方です。
この阿南陸軍大将の割腹の衝撃が、日本陸軍をして昭和天皇の玉音放送ととに戦闘活動を停止に至らせた最大の理由であるともいわれています。
当時の情勢として、日本軍は米国より先に原爆の開発を終え、この原爆投下によって米太平洋艦隊を壊滅させ、さらに米本土への核攻撃によって終戦の活路を見出す作戦を立ててていましたが、陛下の御聖断によって、原爆の制作と使用は厳禁となりました。
結果として日本は沖縄を米軍に奪われ、制海権制空権とも失い、日本本土はB29による空爆の餌食となる状況に至りましたが、日本側は新たに新型ジェット戦闘機の開発を終え(B29はその後の朝鮮戦争でも使用されましたがジェット戦闘機のミグの登場によって、ただ空に浮かぶのろまな的(まと)になり、現役を完全引退しています。日本がジェット戦闘機を昭和20年の8月下旬から用いていれば、戦況は大いに変わった可能性があります)、さらに9月には、海軍による米本土への空襲が計画されており、仮にもしこれが実施されていれば、米国内の厭戦気分が一気に高まり、和平への別な道が開けたかもしれません。
要するに何が言いたいのかというと、昭和20年8月15日の時点で、日本は万策尽き果てていたわけではなくて、最悪の状況を最善の状況に転換する策が、ちゃんと用意してあったということです。
また陸軍は、Chinaから満洲を押さえていましたが、8月9日にはソ連がだまし討のように参戦してきていました。
戦闘を放棄すれば、Chinaや満洲にいる邦人たちにどれだけの被害が及ぶやもしれず、この時点での戦いの停止は、きわめて大きな危険を伴うもの(実際にそうなりました)でもありました。
日本は、この時点で断固戦うべき状況にあったともいえるわけです。
このようなことを申し上げると、「歴史にIFは禁物だ」とおっしゃる方がおいでになりますが、史実を検証する際には、なるほど「IFは禁物」です。
けれど歴史を学ぶときには、自分ならどのように決断するか、どうしたらこの段階で活路を開けたのか、なぜそうなったのか等を、思い込みではなく反復可能な再現性を持って考えることが大事です。
これは企業研修のケーススタディと同じです。
そして再現性というのは、科学的な思考で、もっとも大事にされるところです。
話が脱線しましたが、我が国には歴史上、あまたの英雄豪傑偉人がいますが、私が「この人から学びたい(教えを請いたい)」と思う歴史上の人物は、明治以降の人物では、その第一位が阿南惟幾陸軍大将です。
トップに貼った画像は、その阿南陸軍大将が割腹自殺されたときに遺された血の飛び散った遺書です。
そこには次のように書かれています。
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一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣阿南惟幾(花押)そしてその横に辞世の句がしたためられています。
神州不滅ヲ確信シツヽ
大君の深き惠に あみし身は
言ひ遺こすへき 片言もなし
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣 惟幾(花押)ちなみに、我が国の明治以降の憲政史上、現職の閣僚の自決は、阿南陸軍大臣が最初です。
我が国の武士道は、権限と責任を常に等しい関係に置くというものです。
それを明治以降に身をもって体現された現職閣僚は、この阿南陸軍大臣と、第一次安倍内閣のときの松岡利勝農水大臣(当時)の2名だけです。
松岡大臣は、我が国の農家の所得倍増を企図した農水大臣であり、また日本の農業生産物の革新や、農政によるバイオ燃料の促進を図ろうとして、自殺に追い込まれています。
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■国際派日本人養成講座■
平成12年8月13日
題名:「阿南惟幾~軍を失うも国を失わず」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html~本土決戦を避け、全陸軍550万を終戦に導く責務は、一人の陸軍大臣の双肩にかかっていた。
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1.もしもあの時、一歩を誤って軍が暴走していたら
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昭和20年8月11日、外電が日本の降伏受入れ予想を報道し始めると、China派遣軍総司令官岡村寧次大将は次のような激烈な電報を陸軍中央に送ってきた。
数百万の陸軍兵力が決戦を交えずして降伏するが如き恥辱は、世界戦史にその類を見ず、派遣軍は満8年連戦連勝、・・・百万の精鋭健在のまま敗残の(蒋介石の)重慶軍に無条件降伏するが如きは、いかなる場合にも絶対に承服し得ざる所なり
海軍の戦力はほとんど失われていたが、当時の陸軍兵力は内地237万余、外地310万余。特にChina派遣軍は「満8年連戦連勝」の状態で、いきなり無条件降伏せよ、と言われても「絶対に承服」できないのは当然であった。
もしもあの時、一歩を誤って軍が暴走していたら、、、
または陸軍が抗戦派と和平派の二つに割れて友軍相撃となり、そこへ米軍やソ連軍が入ってでも来たら、日本はどうなっていたことか、、、
そしてどれほど多くの日本人が犠牲になっていたことか、、、。
そんなことにならずに済んだのは貴様のおかげだ。
よくぞ無事終戦に導いてくれた。
もと参謀次長・沢田茂中将がこう感謝するのは、終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)である。
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2.他愛ない父
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父は戦争がなかったら”他愛ない父”として終わったであろうと思います。
長男・惟敬(これひろ)の言葉である。
阿南は大変な子煩悩で、日曜日は子どもたちをピクニックやデパート、映画などに連れて行き、常に一緒に夕食をとった後はトランプをし、子どもたちが勉強を始めると、羽織をかぶって寝てしまう。
家族の団欒にこのうえなく満足している平凡な父親であった。
父は陸大(陸軍大学)の入試に3度落第し、4度目にやっと合格していたと聞いていたので、私共も落第や浪人を苦にしなかった一方、「父は頭は余りよくないのだ」と漠然と思っていました。
陸大受験の頃、阿南は中央幼年学校の生徒監であった。
この職はかなりの自由時間があるので、上司が陸大受験の配慮からつけてくれたポストであったが、阿南は受験は私事として、生徒指導に全力を尽くしていた。
数学の出来の悪い生徒に個人教授をしたり、生徒の日記をよく読んで、注意や批評、時には和歌までも書き込んで指導した。
阿南が4度目にとうとう合格した時は、かつての教え子達は歓声をあげて、祝賀会を開いた。
結婚してからは、演習地から妻に自らの騎乗の姿をスケッチしたはがきを送り、その中には「演習の野に咲く萩を馬蹄にかけまいと」などと書いている。
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3.不思議な縁
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昭和4年、42歳の時から4年間、阿南は侍従武官として昭和天皇に使えた。
その半年前に海軍軍令部長であった鈴木貫太郎が予備役編入と共に侍従長として赴任していた。
二人はこの期間に互いに深い尊敬と信頼を抱いた。
後に鈴木が首相として組閣作業を始めた時、最初に陸軍省を訪問して、阿南の陸軍大臣就任を要請している。
昭和天皇も阿南の無私にして思いやりの深い性格をよほど信頼されたようだ。
8年後の昭和13年、阿南は第109師団長としてChinaに出征するが、この時に昭和天皇は阿南を呼んで二
人だけで夕食をとられた。
阿南は感激して、次の和歌を作った。
大君の
深き恵みに浴(あ)みし身は
言い遺すべき片言(かたこと)もなし
さらに7年後の昭和20年8月15日、阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した純白のワイシャツを身につけ、この和歌を辞世として自決する。
終戦は昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相の見事な連携で実現するのだが、その十数年前から三者が相互に深い信頼で結ばれていたことは、まことに不思議な縁であった。
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4.軍人は政治に拘わらず
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昭和天皇が阿南を信頼されたもう一つの理由は、阿南が「軍人は政治に拘わってはならない(政治ニ拘ラス)」という明治天皇の遺された軍人勅諭に忠実だった点にもあるであろう。
当時の軍部内には様々な派閥争いがあったが、阿南には声もかからなかった。
昭和11年の226事件の時に、阿南は陸軍幼年学校の校長をしていたが、全校生徒を集め、「農民の救済
を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と顔面を紅潮させ、激しい口調で語った。
この訓示を聞いた生徒の一人は、「校長閣下は侍従武官として天皇のおそば近くに仕えたお方だから、陛下のお心を悩ませた将校たちに対して、こんなに立腹しておられるのだろう」と思ったという。
幼年学校長は「陸軍3大閑職」の一つとされ、平時ならこれで予備役入りする所であったが、226事件が阿南を陸軍中枢に引っ張りだすきっかけとなる。
事件後、綱紀粛正のために兵務局が新設され、その看板として人格高潔な阿南が局長に抜擢されたのである。その後は人事局長、陸軍次官、航空総監などの要職を歴任し、陸軍内の誰からも信頼を寄せられた。
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5.陸相就任の覚悟
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昭和20年4月、昭和天皇のご意志により、鈴木貫太郎が首相を拝命し、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけた。
これまでにしばしば見受けたことだが、大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を逃れたとするような態度は私は絶対にとらない。
将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫び申し上げる覚悟だ。
陸相就任の数日後に、親しい友人に阿南はこう語っている。
鈴木内閣で終戦を実現し、その時は全陸軍を代表して、死をもってお詫びしようという覚悟で就任したのである。
しかし、その覚悟をすぐにもらしては、全陸軍がついてこない。
阿南は鈴木首相と息を合わせつつ、公式の会議の場では本土決戦を強硬に主張し、陰では終戦に導くために、議会での内閣打倒の動きに水を差したり、米内海相の辞意をなだめたりと、細やかに手をうっていった。
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6.御聖断下る
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8月6日広島が原爆攻撃され、9日にはソ連が中立条約を破って満洲侵攻を開始した。
9日深夜の第一回御前会議では、「天皇の国法上の地位を変更する要求を含んでいない」という了解のもとにポツダム宣言を受諾しようとする東郷外相案と、さらに占領、武装解除、戦犯処置などの条件をつけた阿南陸相らの案が対立して、結論が出なかった。
阿南は
「本土決戦に対しても、それだけの自信がある」
「一億枕を並べて斃れても大義に生くべきである」
と陸軍を代表して強硬意見を述べた。
やがて鈴木首相から、意見の対立がある以上、陛下の思し召しをもって会議の決定としたい、との動議がなされ、昭和天皇は初めて意見を述べる機会を得た。
私の任務は、祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。
今日となっては、ひとりでも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。天皇が涙を拭いながら語られるお言葉を、全員がすすり泣きながら聞いていた。
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7.反対の行動に出ようとするものは、まず阿南を斬れ
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翌朝、阿南は各課の幹部を全員集めて、御前会議の内容を説明した。
御聖断によりポツダム宣言受諾という結果に、一同は愕然とした。
私が微力であるため、遂にこのような結果になったことは諸君に対して申しわけなく、深く責任を感じている。
しかし御前会議の席で、私が主張すべきことは十分主張した点については、諸君は私を十分信頼してくれていると信ずる。
このうえは、ただ大御心のままに進むほかはない。
として、阿南は、和戦両様の構えで皇室保全の確証が得られるかどうか、連合国側の回答を待つと述べた。
さらに次のように、鋭く言い切った。
「今日のような国家の危局に際しては、
一人の無統制が国を破る因をなす。
敢えて反対の行動に出ようとするものは、
まず阿南を斬れ。」
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8.クーデター計画
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アメリカの回答は12日午前1時頃もたらされた。
「天皇の国法上の位置」に関する日本側の唯一の条件に対しては、「最終的の日本国の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」という曖昧な答えだった。
中堅将校たちは、このまま国体護持の確約もないまま和平派によって降伏が決定してしまうことを恐れ、クーデター計画を立てた。
陸軍大臣の治安維持のための兵力使用権を利用し、東部軍と近衛師団を動かして一挙に和平派の要人を監禁し、大臣の上奏によって天皇に戦争継続の決意をしていただこう、というものであった。
クーデター計画を説明された阿南は、決起反対者もいることから、「今のような時は、お互いが信頼し合ってゆくことが一番大事である」と静かに述べた。
頭ごなしに反対せず、血気にはやる部下たちを掌握したまま、終戦に導いていこうという態度である。
決起を促す中堅将校たちの気持ちは、「立たば阿南大臣を首領として全軍一致、しからずんば個々の散発をさけてただ大命(天皇の命令)のままに」ということであった。
全軍の阿南への信頼がかろうじて暴発を引き留めていた。
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9.苦しかろうが我慢してくれ
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第2回の御前会議が開かれたのは、8月14日午前11時過ぎからであった。
阿南は国体護持の確約が得られなければ戦争継続という立場から、もう一度連合国側に照会すべき、と主張
した。
昭和天皇は、阿南らが反対する気持ちはよく分かるが、「自分の身はどうなってもよいから、国民の命を助けたい」と語られた。
御聖断は再び下された。
午後、陸軍省に戻った阿南に、若手将校20名ばかりが集まり、「大臣は、国体護持の確証がなければあくまで抗戦と、主張してこられたはず、決心変更の理由をうかがいたい」とつめよった。
阿南は絞り出すような沈痛な声で答えた。
陛下はこの阿南に対して、「お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれ」と涙を流して仰せられた。
自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることはできない。
阿南が天皇との個人的な信頼を通じて語る言葉は、よく大御心を若手将校たちに伝えた。
この後、「陸軍はあくまでも聖断に従って行動す」との承詔必謹の方針が明確に打ち出された。
その夜、数人の若手将校が近衛師団長を殺害し、一時、宮城を占拠したが、東部方面軍によってすぐに鎮圧された。
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10.ポツダム宣言受諾への電撃的ショック
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翌15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言受諾が伝えられた。
同時に全陸軍は阿南陸相の自刃を知った。
阿南が終戦処理を託した荒尾興功軍事課長は次のように述べる。
陸軍は昭和20年8月14日朝までは、戦争を継続すべきであると考えていた。
然しこの日から、ポツダム宣言受諾の天皇の命令に即刻添わねばならぬことになった。
この天皇の命令に全陸軍が直ちに従うためには、単なる命令だけでは徹底しない。
電撃的ショックを必要とするのである。
全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最もつよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。
之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。
それまで激烈な戦争継続要請の電報が前線から来ていたが、ピタリと止んだ。
換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった。
かくて全陸軍内外550万の将兵が一日にして矛を収め、無事に戦後の日本再建に向かう道が開かれた。
「軍を失うも、国を失わず」
阿南が14日夜、最後の閣議へ向かう時につぶやいた独り言である。
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※この記事は、2011年8月の記事のリニューアルです。
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日の丸舞踏家のたけぞうと申します。
いつもこちらのブログや書籍で勉強させていただいております。ありがとうございます。
ところで、ねずさんは2ヶ月後に控えた「退位礼正殿の儀」についてどのようにお考えでしょうか。
陛下が仰せの「譲位」ではなく「退位」という言葉からは「お譲り為される」のではなく「退かされる」という意味にしか受け取れません。
しかも、退位礼正殿の儀から翌日の剣璽等承継の儀までに時間の空白があり、一説には今上陛下から剣璽を取り上げて退位させ、翌日に時の権力者である内閣総理大臣から皇太子殿下に授ける謀叛とも言える暴挙が執り行われるのではとの疑いまであります。
もし本当にこんなことが起きれば、いつもねずさんが仰っておられますウシハクを内包したシラス統治が逆転してしまうのではないでしょうか。
また、公式名称が退位礼正殿の儀では、いくら国民が御譲位と言ったところで、反天連や日本を貶めたい周辺諸国から「日本の皇位継承は断絶した」と情報戦を仕掛けられれば、世界はそう思ってしまうのではないでしょうか。
自分なりに調べてみたところ、今回の一連の儀式は皇室の伝統にはまったく則してなく、むしろ今使っている占領憲法に忠実であるように思えてなりません
ご多忙のなかたいへん恐縮ではございますが、ねずさんのお考えをご教示いただければと思い、コメントさせていただきました。
まだまだ寒い日が続きます。ご自愛くださいませ。
敬具