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2014/07/23

伊藤剛さんを偲んで

 先日、94歳で亡くなられた伊藤剛氏の御子息、育夫様よりお便りを頂戴した。我らがゴーさんの生前の御様子をお伝えいただいたので、皆さんにもご披露したい。【画像はクリックで拡大】

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コックピットの様に手を伸ばせば何でもできるのが自慢でした

99img793a このたびは父の逝去に関し、写真をお送りいただき、さらにブログで父の作品を紹介いただき、ありがとうございました。あの写真(右のもの)は、私が小学生だった頃ですね。父と母がずいぶん若く、こんなすばらしい思い出があったことに改めて気づきました。

  父は約2年前に川崎へ転居以来ずっと、ツルハシを振るう保線作業者の動く人形模型作りに専念しておりました。

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ほら、スムースに動くよ、とすごく嬉しそうでした

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 移り住んだマンションは鉄道好きには絶景の、横須賀線や貨物列車が通るJR線沿いで、ベランダから信号機が切り替わる様子などを見て楽しんでいました。
 好きな秋葉原が近くなったので、しょっちゅう、部品を求めて通いました。また、数ある東急ハンズの中でも池袋の店が品数が多い、などと言って、喜んで遠くまで出かける元気な老人でした。

 先日の健康診断ではほとんど問題が無いと診断され、それを私に自慢しておりました。バリアフリーが進む世の中だけれど、バリアを避けてばかりいたら運動能力が退化するから、階段もアスレチックジムだと考えよう、と言いながら動き回っていました。出掛けた帰り道に、川崎のショッピングセンター・ラゾーナで販売している「名古屋飯」弁当を買って帰ることが楽しみだったようです。

 そんな父も、歩行力が徐々に衰えて、歩みが鈍くなってきていたことは気になっていたところです。そろそろ杖を持つのを勧めようかな、と考えましたが、かつて母の使っていた杖を持ち歩くことはしませんでした。もちろんあの日、杖を持っていたら怪我程度で済んだのではないか、と悔やまれます。
 父は6月17日の11時頃、マンション2階にあるクリニックからの帰りに階段を踏み外したようで、発見されたときには心肺停止だったそうです。救急車で搬送されて川崎病院に入院以来、ずっと危篤状態が続きましたが、別れの日までに一週間の猶予をくれました。

 これからまだまだ元気に模型運転会などに出席し、余生を楽しんでもらいたいと思っていただけに、階段の踏み外しで逝ってしまったことは甚だ残念です。素晴らしい模型仲間に囲まれて、生涯、徹頭徹尾、模型作り人生を過ごせた父は、本当に幸せ者だったと思います。長い間お付き合いいただきましたこと、本当にありがとうございました。(伊藤育夫)

 一部、個人的な個所を省かせていただいた。
Dscf3091 思い出の中で一番印象に残っていることは、小坂狷二(おさか・けんじ)氏を御存じだったこと。当方がかつて実車の設計の参考に使った「客貨車工学」1948年刊の著者である。同氏が日本車輛に転職後に、会社の中で講義を受けたという。そのときに使った教科書がまさにこの本とのことで、新たに入手して進呈させていただいた。(同書については「ムラサキ・コホナオスマカの由来」)

 それから、雑学振りには唖然とさせられた。特に言語学的な日本語の特徴にお詳しかった。当方のアメリカ型鉄道模型大辞典で、「ビッグボーイ」の次の記述は、氏からの受け売りである。
…年配者に“ビッボーイ”との発音、および表記が見られる理由は、促音「っ」の次の語は濁音とならない日本語の性質によるという。ハンドバックhandbag、ドッチボールdodgeball、ブルドックbulldog等々…

 それと、操舵台車では盛り上がった記憶もある。例の、主台枠を連結ロッドもろ共に曲げてしまうというOゲージの8620等々。その背景に、広範な知識と見識が拡がっていることを知って溜息が出た。
 2013年には 「日本鉄道模型の会」から鉄道模型功労者賞を受賞された。この顕彰文を引用しておく。

 我が国の社会が戦後の復興から経済成長に転じた昭和30年代、鉄道模型の世界もまた、その表現追求において長足の進歩を遂げました。
 それ以前、まだ模型というものが趣味とは捉えられなかった時代から、貴殿はモータや車輪に至るまで全て手作りの創意工夫に満ちた模型を数多く製作し、また工作における数々の工夫・ヒントを専門誌に発表して多くの鉄道模型人に影響を与えてきました。
 近年においても、実物のような慣性を伴う車両走行を再現するのための工夫や、台車の等角逆捻り構造に代表される、安定した走行性能を得るための数々のアイディアを発表され、今も数多くの後進が新しい刺激を受け続けております。
 今年、「昭和の鉄道模型」を振り返るにあたり、その功労は永く記念されるべきものとして、ここに感謝の意を贈ります。

 ところで、お名前の「剛」の読み方をお尋ねしたことがあったけれど、お答えはいただけなかった。この表彰式では、何と呼びかけられのだろうか。(2018-01-01追記)

 一番肝心な、鉄道模型趣味誌に投稿された記事を列挙してみる。なお"NMRC"は、名古屋模型鉄道クラブの略称で、明らかに、米国の"NMRA"をモジっている。同クラブの創立メンバーだったゴーサンの茶目っ気か。

■1948-05(No.6) p38 Oゲージレイアウト用自動操縦自動車
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■1949-08(No.15) p34 第1回デザインコンクール"長距離急行電車"
 最優秀作品(賞金1000円) 0番3両編成 (模型車輌デザインブックに再録)

■1950-03(No.19) p57 電車製作の新機軸アングル車体の作り方

■1950-05(No.20) p88 8ミリゲージの流線型ディーゼル列車“サンビーム号” (鉄道模型作品20題に再録、JAM 2013で展示)
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■1950-06(No.21) p114 O番ゲージ・ブリルMCB台車を作る

■1950-10(No.25) p248 実物知識・電車のトラック、ブレーキ装置(模型車輌デザインブックに再録)

■1951-07(No.34) p28 NMRC形ポイント・マシンの作り方

■1952-04(No.43) p140 青写真原図の作り方(模型車輌デザインブックに再録)

■1952-06臨時増刊(No.46) p218 市電のトラック

■1952-09(No.49) p75 模型人の横顔(1)(F氏執筆)
 伊藤剛は、名古屋というより吾国鉄道模型界きってのハリキリ・マンである。名古屋模型鉄道クラブの創立以来、鈴木会長を助けて、会務にヤードの編集にと大活躍を演じ、NMRCを今日あらしめた功は大きい。
 名古屋高工機械科を卒業後日本車輛に入社、現在は私鉄電車用台車の設計が主な仕事であるが、日車の新型台車が生まれないのは、決して彼が居眠りしているからだけではないそうな。

Tms195209p75  ここでゲージ歴を見ると、まず小学校3年の時にトランス・レールと共に48ミリの大型軌道モーターを買ってもらったのがこの道の始まり。さすがに子どもの時から車体無しの台車だけとは恐れ入る。中学2年で35ミリ1/40となり、架線集電・真鍮ガラレールの屋外鉄道の社長に収まった。高工入学時代はOゲージの勃興期、しかし1/45はどうもなじめなかったらしい。昭和16年日車入社、下宿で8ミリゲージの流線型ディーゼルを作ったことは既に本誌No.20でご存じの筈。これを子供の科学の第7回展に出品して文部大臣賞を獲得した。しかし、この時は吉田剛の名前であったので、戦後、8ミリの伊藤剛といっても、ピンと来なかった連中も少なくなかった。昭和20年の復員後は32ミリ1/40。NMRC結成後はOゲージとなって現在に至る。
 酒は決してきらいでない方、モデル以外にこれといった趣味は無く、本で好きなのは宮沢賢治の詩集などとの話だが、コンクールの審査員として「超精密とは言えないし、巨大な豪華車両でもない、しかし、どことなく豊かな詩情が漂っている、そんな作品に接することができたら」と云っているのは、やはりというべきか。
 5歳の令息一人あり、親父に似て汽車ポッポが好きな由だが。(F)

 ■1952-09(No.49) p76 Oゲージ4-6-4ハドソン シンデレラ(高級モデルノート再録)
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■1953-05(No.57) p128 凸電通信

■1953-05(No.57) p186 Oゲージ4-6-2 白雪姫 SNOW WHITE(高級モデルノートに再録、当ブログ記事を参照)
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■1953-10(No.62) p382 GARAKUTAという名の材料 モデルマニア心得帖

■1953-11(No.63) p420 NMRC作品展示会を見る(山崎喜陽氏執筆)
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コンクール審査風景 左より中尾豊TMS、池田葵一。右手前より荒井友光、伊藤剛、加藤清の諸氏

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伊藤剛氏作品のレールジープ カメという名のゲテモノ。模型のパーツは車輪ぐらいのもの、あとはガラクタを利用した。

■1954-01(No.65) p28 シンデレラの馬車
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■1954-04(No.68) p150 レールファン・メモ 地下鉄の新線は何故静かなのだろうか? 波状磨耗について

■1954-12(No.76) p492 O番レールにゲタをはかせる
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■1955-01(No.77) p36 安井さんへの手紙(X2F NMRAの標準カプラー)

■1955-05(No.81) p199 グリコのオマケで0番スクーター
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■1955-11(No.88) p456 パキスタン便り
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■1956-01(No.90) p28 パキスタン便り(2)

■1956-02(No.91) p88 鉄道模型という名の趣味

■1956-08(No.98) p335 O番ホッパー電車(辻坂信一郎氏作品の紹介)

■1956-12(No.102) p494 Oゲージ名古屋市電1901と制御装置(羽柴光俊氏作品の紹介)

■1957-05(No.107) p193 Oゲージのアトランに付けた煙出装置について
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(本モデルは、MR誌1964年10月号p33で紹介)

■1957-07(No.109) p276 伊藤剛の話題(山崎喜陽氏との対談)

■1957-12(No.114) p494 3点支持
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■1959-11(No.137) p484 実物そっくりに動くOゲージのパワーショベル
tms1959_11p484

■1960-02(No.140) p70 脈流を再検討!

■1960-03(No141) p130 ブレーキ弁型脈流装置製作法

■1960-12(No.150) p532 牽引力の測定にダイナモメーターカー
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■1961-09(No.159) p421 バイブレーター駆動のケーブルカー
Tms196109p421
Hawk製プラモデル利用、RMC誌がヒントでAC電源の無接点。本モデルは、MR誌1964年10月号p33で紹介)

■1962-08(No.170) p427 鉄道ファンでない模型鉄道ファン(「ミキスト」中に引用)

■1962-12(No.174) p688 模型用語「作る」をこう考える

■1963-11(No.185) p621 ロコ・スタンドはいかが

■1981-04(No.400) p66 2軸単車はデ・デーンとゆれて 瀬戸電21号OJゲージ
Tms198104p70

■1981-05(No.401) p50 OJゲージの2軸単車 瀬戸電21号[第2回]

■1982-05(No.415) 私の単線自動踏切装置(1)

■1982-06(No.416) 私の単線自動踏切装置(2)

■1982-09(No.420) 弱め穴の効能

■1985-10(No.464) p104 パンタグラフの平衡装置

■1991-03(No.540) p86 天野工場(現日本車輛)図面によせて

■1991-04(No.541) p58 RCでパンタ昇降 名鉄デキ400

■1994-05(No.584) p84 1番ゲージでR390のカーブを通過する究極の4-4-0
Tms1994_05p84

■1994-06(No.585)p30 やさしいハンダ付け(1)

■1994-07(No.586)p92 やさしいハンダ付け(2)

■1994-08(No.587)p62 やさしいハンダ付け(3)

■1994-09(No.588)p56 やさしいハンダ付け(最終回)

■1994-11(No.591)p71 平田町界隈-市電と模型と昔の街並と-(1)?

■1994-12(No.592)p78 平田町界隈-市電と模型と昔の町と-(2)

■1995-01(No.594)p85 平田町界隈-市電と模型と昔の町と-(3)

■1995-02(No.595)p48 平田町界隈-市電と模型と昔の町と-(4)

■1995-03(No.596)p48 平田町界隈-市電と模型と昔の町と-(5)

■1995-04(No.597)p47 平田町界隈-市電と模型と昔の町と-(最終回)

■1996-09(No.617) 私のクロコダイル

■1997-03(No.624) p106 車体支持法の一考察 イコーライジング・ボルスター

■1998-別冊 名古屋特集(6月10日発行)
  キューキョクの急曲線対策、3軸心向台車(古典客車)
  1枚の写真に寄せて(マッチ棒で作った電車と凸電貨物列車)
  50周年記念座談会NMRC胎動期を語る

■2000-03(No.666) p104 OJ:8620可動化改造記(R460を曲がる)

■2001-04(No.681) p36 客車の戸がひらく

■2002-07(No.698) p98 日車PCC-NSLのバタフライ台車枠

■2002-09(No.701) p110 シーケンス自逆のガバナー・コントロール

■2003-11(No.717) p116 カートレインヘの乗込み・積降し自動装置?

■2004-07(No.726) p44 郷愁NYC電関レプリカ作成の記

■2009-12(No.802) p90 OJ:私の8620 その後

 そして、2014年8月号(No.868) p106に、鈴木茂臣氏による追悼文が掲載された。

 パラパラと目次を拾っただけなので、見落としがあるはず。欠落を御教示いただければ幸いである。なお、鉄道ファン誌1962年9月号 p32 に、「“(篠原正瑛氏の)メルクリンと私”を読んで」という寄稿があるとのこと(ヤマさんのコメントを参照)。

【追記1】伊藤育夫様に2点、確認させていただきたいとお便りを差し上げたところ、次の御返信をいただいた。2014-07-24

 生れは、大正10年(1921年)1月12日で、満で93歳と5ヶ月12日でした。お寺さんからは一階級特進させていただき、「享年94才」となりました。

 平成20年(2008年)11月に、旭日単光章という叙勲をいただきました。それは簡易郵便局の仕事に従事し、愛知県簡易郵便局連合会の事務局長を長年勤めたことによるものと承知しております。皇居での拝謁で、たまたま天皇陛下の一番近くに位置していたらしく、直接「ご苦労様でした」とお声がけいただいたそうで、大変光栄に思い、そして恐縮したそうです。その日の叙勲者の中での最高齢者だったことが、栄誉のお声がけになったやに聞いております。

 昨年はJAMにて鉄道模型功労賞をいただき、実に喜んでおりました。今から思うと、たいそう立派な花道をご用意いただいたのだな、と感慨深く思い起こしております。多くの模型仲間に囲まれて、極めて幸せな人生でありましたこと、父の自慢話となりました。ありがとうございました。(伊藤育夫)

【追記2】検索したら「模型少年」という雑誌にも寄稿されている。同誌は「教誠社科学教材」というところの出版で、詳細はウィキペディア日本語版を参照。中身は鉄道模型オンリーのテイで、TMSに対するライバル誌の様相? 2014-09-29

■1949-10 p24 零番自由形客車(国立国会図書館サーチ

■1950-01 p16 展望車の作り方(国立国会図書館サーチ

■1950-03 p8 Alco-GEジーゼル(国立国会図書館サーチ

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よしなし事」カテゴリの記事

コメント

お目に掛かることはかないませんでしたが、ご高名は子供の頃から(TMS誌経由で)拝見していました。具体的な場所は存じ上げないですけれど、お住まいの場所は拙宅から自動車で20分くらいの場所だったようです。ご冥福をお祈りいたします。

>>ご本人は「ゴーサン」と呼ばれるのを好まれていました。コメントありがとうございました【ワークスK】

投稿: 松本哲堂@風雅松本亭 | 2014/07/23 00:41

伊藤剛氏が鉄道ファンに寄稿されたのは、1962年9月号のP32です。
元になったのは1962年5月号P54で著者は篠原正瑛氏となっています。
目次から確認しました。

>>お調べいただきありがとうございました。さっそく訂正させていただきました。TMS記事もよろしく‥‥【ワークスK】

投稿: ヤマ | 2014/07/23 02:43

子供の頃、伊藤氏が開業されていた郵便局によく遊びに行ったものでした。
一方的かもしれないのですが、本当に僕にとっての”じいちゃん”でした。
彼の郵便局は彼の作った鉄道模型のみならず、お客さんを楽しませてくれるギミックで溢れていた記憶があり、また小学生だった僕にそれらの仕組みを熱く、嬉しそうに語っていただき、時には仕事半分、おしゃべり半分、閉めるギリギリの時間までお話していたのを記憶しております。
特に、製作途中であった静態のクロコダイルの模型を動態に改造する途中であったり、
型式は失念してしまったのですが、Rのきつい彼のゲージに機関車の模型を走らせるための仕組みを模索している最中のお話を聞かせていただいておりました。
それらを地元の公民館での作品展や、名古屋市科学館での展示でのひと際、凝りに凝った素敵な作品で見る人を引き付けアッと言わせていたことを鮮明に覚えております。
(それを隣で聞いて、自分のことのようにうれしかった記憶があります。)
あと、彼の話で今も記憶しているのが、彼の設計した名古屋市の市電が海で漁礁になったんだよ、ってお話しされていたことを記憶しております。
社会人になり、地元を離れじいちゃんと会うことはなかったのですが、鉄道模型を地元で見る機会があり、伊藤氏の名前から貴殿のブログにたどり着き、伊藤氏がお亡くなりになられたことを今さながら知り、とても残念に感じている一人であります。
こうやって知ることができたこと、とても感謝しております。ありがとうございました。

>>貴重な思い出をありがとうございました。こうなると、郵便局の様子を写真か何かで拝見したくなりますね。【ワークスK】

投稿: 晃平 | 2015/08/19 04:49

伊藤剛さんを偲ぶ貴文、興味深く拝見しました。TMS掲載の記事ですが、小生が私的に作成中のデータベースで検索した範囲では、次の3件が漏れているようです。
1954-04(68)p150 レールファン・メモ 地下鉄の新線は何故静かなのだろうか? 波状磨耗について
1985-10(464)p104 パンタグラフの平衡装置
1991-03(540)p86 天野工場 (現日本車輌) 図面によせて
ご確認ください。
ところで模型少年の記事、懐かしかったです。TMSに出会う前に購読していました。特に展望車はガラス板を側板と妻板のサイズに切ってそれにペーパーの側板を張り付けて組み立てることで大窓でも強度を持たせるという剛さんらしいアイディアのものでした。
良く調べられたこと感謝です。

>>御教示、ありがとうございます。さっそく追加させていただきました。構築された完璧なデータベースには頭が下がります。また、「模型少年」誌を同時代に購読されたとのこと、驚きました【ワークスK】

投稿: 岸本 剛一 | 2017/06/14 15:06

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