基本的人権の尊重 一 人権の観念 憲法第11条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と示しています。ここから、人権の固有性・不可侵性・普遍性という重要な観念をみることができます。 人権の固有性とは、人権が憲法や天皇から恩恵として与えられたものではなく、人間であることにより当然に有するとされる権利であることをいいます。 人権の不可侵性とは、人権が原則として公権力によって侵されないということを指します。 人権の普遍性とは、人権は、人種、性、身分などの区別に関係なく、人間であるというただそれだけで当然にすべて享有できる権利であるということを意味します。 これらをみると、どれも当たり前の考え方のように思われるかもしれませんが、このような考え方は1789年のフランス人権宣言の考え方が広まった結果であり、日本においては第二次世界大戦後になってようやく普及した考えであります。 以上のように考えると、日本国憲法が保障する基本的人権とは、(人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、尊厳性を維持するため、それに必要な権利が当然に認められることを前提として、)憲法以前に成立していると考えられる権利を憲法が実質的な法的権利として確認したもの、ということができます。まさに尊重に値する権利といえましょう。 なお、この人間尊重の原理は「個人主義」とも呼ばれています。昨今、全体よりも個人を大切にしよう、といった考え方をよく見受けるようになりましたが、これは、憲法第13条において宣明されているところであることをご確認ください。 ニ 日本国憲法における人権 ここでは、人権の内容についても少し触れておきます。 日本国憲法における人権の分類には諸説ありますが、1.包括的基本権(13条)、2.法の下の平等(14条)、3.自由権、4.受益権、5.参政権、6.社会権の6つに分ける考え方が通説かと思います。近時は、自由権的性格と社会権的性格とをあわせもつ人権も少なくなく、この分類を絶対的なものだと考える必要はありません。 では、6つの中でも特に注目されることの多い自由権と社会権について、もう少し詳しくみてみたいと思います。 まずは定義をみてみたいと思います。 自由権とは、国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除して、個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権のことをいいます。21条1項の言論、出版、集会、結社その他の表現の自由が典型的なものです。 また、社会権とは、社会的・経済的弱者が、「人間に値する生活」を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることのできる権利をいいます。典型的なものに、25条の定める「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」を挙げることができます。 さて、自由権はさらに精神的自由権・経済的自由権に分類されることがあります。分けるからには理由があるのですが、精神的自由権と経済的自由権とに分けるのは、人権を制約する立法が憲法に適うものかどうか判断する時に、基準を変えた方が良いのではないかと考えられているからです。つまり、法律が憲法に適合するかどうかの判断基準(違憲審査基準といいます)は、その法律が精神的な自由にかかるものか経済的な自由にかかるものかによって変えた方が良いのではないかと考えられているのです。 これについては訴訟法を勉強していないと難しいので簡単に読んでおいてもらって構わないのですが、現在、精神的自由の規制立法については、経済的自由の規制立法についての違憲審査基準よりも厳格な(厳しい)基準が妥当すると考えられています。二重の基準論といいます。憲法訴訟を勉強する時には重要な概念となります。 では、社会権では、いかなる違憲審査基準が用いられているのでしょうか。社会権については、先ほどの定義のところでもみたように国家の積極的な配慮を求めることが必要になります。ゆえに裁判所は、具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は立法府、つまり国会の広い裁量に委ねられているとして、基本的には司法権が判断するのに適さないものだと考えています。確かに国会がつくった法律は民主的な基盤に支えられた合憲性の高いものだとは思いますが、三権分立制度の趣旨を考慮する時、裁判所の態度は今一つ立法府に遠慮しすぎかなと思われる節がないでもありません。 三 人権の享有主体性 人権の享有主体性とは難しいですね。つまりこれは、憲法が第三章で「権利及び義務」としているところの「権利」の保障が何に対して及ぶかということが問題になっていると思ってください。具体的には1.外国人 2.未成年者 3.法人 4.天皇・皇族に第三章で保障する権利がどの程度及ぶか問題になるということです。
|