社会

座り込まなくても 分断望まず、本音は胸に <辺野古で生きる>下

「辺野古の海を埋めてほしくない」と20年以上続く新基地建設問題のことを語る島袋妙子さん=21日、名護市辺野古

 辺野古に住む女性たちが優しい顔をして並んでいる。島袋妙子さん(90)は、この日の正確な日付を覚えていない。「70歳くらいだと思うんだけど」と家の押し入れから古いアルバムを引っ張り出しながら言った。「この時、女の人が多かったよ。おばぁたちが頑張ってたから」。妙子さんの家から数軒隣、金城ハツ子さん(75)に聞くと「えぇ、懐かしいねぇ。市民投票の時じゃないかなぁ」と言った。

 22年前、銀髪の女性陣はつえをつき、腰を曲げて、テントに歩いてきていた。辺野古の暮らしは海と共にあった。この海に生かしてもらった。先代から続く暮らしを守りたい。女性たちは、あの時、新基地建設は必ず止められると思っていた。

 今はもう、辺野古の浜のテントに行かなくなった。22年の間に、1人、また1人と離れていった。


海を埋められたくなかったため辺野古の浜のテントに辺野古の先輩陣と一緒に訪れた島袋妙子さん(左)=撮影年月日不明

 「これに耐えきれないわけよ」。妙子さんが言う。辺野古は小さな集落。いとこや親戚が多い。地元に根を張って暮らしていくからこそ、賛成、反対で二分されることを誰も望まない。暮らしにくくなるなら、本音を押し殺した方がいい。

 ハツ子さんの夫、祐治さんは「ヘリポート建設阻止協議会(命を守る会)」の代表を務めた。自分の身を削り、国に体を張って反対を通し続けた。2007年に亡くなり、今年で十三回忌を迎える。ハツ子さんは表だって気持ちを表現しなくなった。「私もここで生活していくから。隣近所、部落を頼るさぁね。この家も守っていかないといけないでしょう」。ただ、今も孫に聞かれると、こう伝える。「辺野古の住民が中心となって、守る会ができて、大きい船が来てもみんなで押し返してきた。ずっと、くぎ一本打たせずにここまで来たんだよ。それがじぃじの誇りだよ」

 普天間返還から新基地建設に問題がすり替わり、解決策が見いだせぬまま、20年余で集落の多くの人がこの世を去った。「こっちに基地ができてもできなくっても、もう年も取って…。反対も賛成もできないさぁ」。妙子さんが言った。しばらくして「本当は寂しいんだけど」と、深い悲しみに満ちた瞳で、じっと昔の写真を見つめていた。

 市民投票から20年以上が過ぎた。妙子さんとハツ子さんは、県民投票に行く。妙子さんは一言「もちろん反対さぁ」。それ以上、多くを語らなかった。昔のように行動はできなくなった。声も上げなくなった。それでも、気持ちは変わっていない。 (阪口彩子)