| 広瀬川に架かる牛越橋から亀岡文殊に向かう坂の途中、その道から分岐した路地は丘の斜面を直登するように奥に向かって延びている。
 
 その路地に沿って亀岡山の急な斜面になんとか基礎を打って建物が建てられている。その姿を見ると、限られたスペースをどうすればより有効に活用できるかが見えてくる。
 
 川内三十人町というこのあたりは名前の通りに足軽の三十人衆が居住していたらしい。またその造成時に山を切り開く際木の根を掘り返しながら町屋敷としたために根子町とも呼ばれたらしい。
 
 重機などで一気に掘り返すことが可能な今とは違って、相当な事業であった事だろう。伊達の殿様はどんな都市計画の構想でこのような場所に家臣を住まわせたのだろう、牛越渡戸から攻め込む敵に備えたものだろうか。
 
 地名としては残っていないが、このあたりは夫婦坂という俗称があったらしい。いったいどんな理由だったのか、その由来はいまのところ手元に資料もなく勝手な想像を楽しむ以外にはない。夫婦にまつわるなんらかの出来事があったのか、もう一本別の坂道が並行して取りついていたのか。
 
 沿道の路地の中には、途中で突然石段が組まれていたりする所もあり、またその石段の最上段に神社の狛犬のような一対の石像が鎮座していたりして、なかなかに不思議な場所でもある。
 
 ここに住むことになれば、やはり、対岸の八幡町や、北山から国見への丘陵と川面を眺められるように北に大きな窓を持ちたい。とはいえ、みたところ、もうそのスペースは残っていないようだが。
 
 あと一ヶ月もすればこの坂の下の川原では芋煮会というアウトドアイベントを楽しむ人でごったがえす事になる。なかなか楽しいイベントではあるのだが、川原に点々と焼け焦げた竈の後が長々と残り、美観としてはちょっと疑問でもある。
 
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