そもそも、なぜ小室さんは「甲斐性をもっているべき」「社会的信用を築いているべき」「安定した職に就いているべき」「借金を抱えているなんて、もってのほか」など、諸々の点で「ちゃんとしているべき」と言われているのだろうか。こうした意見からは、「男として甲斐性がある」ことが「人としてちゃんとしている」こととイコールで結ばれるという、日本社会における暗黙の了解が感じられる。
性役割の押し付けや性差別の問題がこれほど大きな社会的関心を集めているにもかかわらず、こと小室さんに対してはそのルールが「適用外」とされているような現状を見ると、「少なくとも現時点では、この国で真の意味での『男女平等』など達成不可能なのではないか」という気がしてしまう。
世間一般どころか、この国の政治的・精神的・文化的象徴たる皇室でさえも、内心では「ちゃんとしていない男に、異性とパートナーシップを形成する資格などない」と考えているように見えることが、小室さんの存在によって浮き彫りになったのだ。
「これからは多様性の時代だ」とか「男女平等の時代だ」といったスローガンを貫徹するのであれば、これまで皇族方を妻として迎えた男性たちが持ちあわせていたような「経済的・社会的基盤」や「男としての甲斐性」をもたない小室さんのような人物であっても、ご本人たちが望むならば皇族と結婚できるべきだろう。祝福されこそすれ、ことさら反対されたり批判されたりする理由はないはずだ。
しかし、現状はそうなっていない。そこから透けて見えるのは、ひとことで言えば、「甲斐性のない男性は包摂しない」という、私たちの社会が抱える本音ではないだろうか。
「甲斐性のない男性は包摂しない」という暗黙の社会的合意が消えないかぎり、多くの男性は苛烈な競争に身を投じ続け、学校や会社などで他人を蹴落としてでも優位に立とうとするだろうし、また多くの女性は、そうして勝利の果実を得た男性をより積極的に選好することをやめられないだろう。
男女問わず、多くの人が選んだ均衡として「男女不平等」な社会が実現してしまうのだ。
執拗な小室さんへのバッシング、彼の「弱さ」やある種の「至らなさ」を「人として治しようのない欠陥」であるかのように批判するさまは、この社会全体が「男尊女卑」を強固に内面化していることの証左であるように思える。
つまり、こういうことだ。日本社会に蔓延する「男尊女卑」の問題の根源には「男性が女性を不当に抑圧している」というよりもむしろ、男女どちらもが「強くて頼りがいのある男性を選好し、また同時に弱い男性をさげすむ」という風潮が潜んでいるーー。