日めくりプロ野球 1月

【1月18日】1983年(昭58) 「切れで勝負できるうちに」福士敬章 初の韓国移籍投手に

[ 2010年1月1日 06:00 ]

チェンジアップ、フォークを使いこなす軟投だったが4度2ケタ勝利を挙げた福士。韓国時代は4年間で55勝79敗18セーブだった
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 プロ野球が始まって2年目の韓国に日本で実績を残した在日韓国人が入団を決めた。広島・福士敬章投手は仁川に本拠地を置く、三美スーパースターズと3年契約をソウルで結んだ。日本のプロ野球投手として初の韓国移籍となった。

 契約金、年俸ともに4000万ウオン(約1400万円、当時)。日本球界で通算91勝をマークした投手にしては、やや物足りない額だったが、当時の韓国球界のこれが上限の金額。福士も33歳。今行かなければ、チャンスは今後訪れないかもしれない。「まだボールの切れで勝負できるうちにと思って…。母国で野球をやることができるのなら」金額についてそれほどこだわりはなかった。日本での通算100勝よりも海を渡る道を選んだ。
 ハングル語は全く分からないまま渡韓した福士は、もともと松原姓を名乗っていた。1968年(昭43)、「松原明夫」投手は鳥取西高のエースとして、プロ各球団がマークする存在だった。ストレートの威力もあったが、変化球の制球が抜群。特に巨人、広島、大洋の3球団が熱心に誘ってきた。
 韓国籍であるため、ドラフトの対象外。勝負は自然と条件面になった。いち早く動いた巨人が契約金800万円を提示。続く広島はそれを上回る1000万円を提示し、さらに鳥取と広島の地理的な近さを訴え、これから若手を中心に大きく成長していくチームであることを強調した。遅れをとった大洋は高校の先輩である、藤井勇2軍監督(前身の鳥取一中出身)が出馬。逆転を図った。
 本人は進学するつもりだった。甲子園の夢破れた後、早大の練習会に参加。今度は神宮で投げることを目標にしたが、プロ側のアタックは激しかった。その後、巨人は契約金を上乗せ。松原も「それだけ買ってくれるのなら」とファンだった巨人に入団した。
 しかし、層の分厚い常勝巨人の1軍マウンドでそうチャンスは回ってこなかった。入団2年目に初登板を果たしたが、0勝3敗。72年まで1勝もできず、整理対象選手のリストに名前が上がった。
 そこへ救いの手を差し延べたのが南海の野村克也捕手兼任監督だった。巨人にトレードを申し込むと、山内新一投手とともにホークス行きが決まった。73年、野村は若手の各球団でくすぶっていた投手の才能を引き出し、巨人での5年間で通算14勝の山内を20勝投手に変身させ、未勝利だった松原も1完封を含む7勝をマーク。新戦力で27勝15敗と大きく勝ち越した南海は7年ぶりにリーグ制覇を果たした。
 77年に今度は広島に移籍。78、80年に15勝をマーク。2度の日本一に貢献し、80年は勝率1位のタイトルホルダーとなったが、腰を痛めた82年に3勝に終わると、韓国行きを決意。1年目に30勝16敗6セーブとチームの52勝の6割を稼ぐ好成績を残したが、契約でもめて以後成績は下降。86年に移籍したものの1勝18敗という惨たんたる成績で引退した。
 その後、投手コーチの口がありながら、これも契約の行き違いからわずか就任1カ月で辞任。引退後の生活はすさみ、91年は麻薬所持使用により韓国で逮捕。日本に戻った後、和歌山でマージャン店の店長をしていたが、05年4月13日に同店で急死。徹夜マージャンを続け「体調が悪い」と店のソファーで横になっていたが、知人男性が気がついたときは既に死亡していたという。

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