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なぜ普天間の返還決まった? アメリカの思惑通りか?

2019年2月14日 07:38

そもそも辺野古~県民投票を前に(3)

 約9万5千人の暮らす宜野湾市の真ん中に、ドーナツの穴のように存在する米軍普天間飛行場。地域の振興を妨げるだけではなく、騒音被害や事故の危険性が指摘されてきた。なぜ返還が決まったのか。

そもそも辺野古

普天間飛行場返還合意の一つの契機となった1995年10月21日の県民大会。8万5千人が集まった=宜野湾海浜公園

そもそも辺野古

普天間飛行場返還合意の一つの契機となった1995年10月21日の県民大会。8万5千人が集まった=宜野湾海浜公園

普天間飛行場返還合意の一つの契機となった1995年10月21日の県民大会。8万5千人が集まった=宜野湾海浜公園
そもそも辺野古

 保守の西銘順治知事は1985年6月、沖縄県知事として初めて訪米し、ワインバーガー米国防長官に普天間を含む基地の整理縮小を求めた。95年5月には、革新の大田昌秀知事が訪米し、要請項目に普天間の早期返還と具体的に盛り込んだ。

 95年9月の米兵による凶悪事件の発生をきっかけに大きく動き出した。翌10月21日、宜野湾市で超党派の県民大会が開かれ、約8万5千人が参加。登壇した女子高校生は「私たちに静かな沖縄を返してください」と訴えた。

 米軍用地強制使用の代理署名を大田知事が拒否するなど「沖縄」は、政府の重要課題だった。反米軍基地感情が高まったこともあり、日米両政府は同年11月、日米特別行動委員会(SACO)を設置、沖縄の基地負担軽減の議論を始めた。

 96年1月に就任した橋本龍太郎首相は、当時の諸井虔(けん)秩父セメント会長を那覇に送った。大田知事は「まずは普天間の返還が最優先」と迫った。橋本首相は同年2月、米サンタモニカでのクリントン大統領との初会談で、普天間返還を切り出した。日米は4月12日、県内の代替施設に機能を移転することを条件に5~7年以内の返還に合意した。

 「米側が移設を望んだ」という見方もある。宜野湾市が入手した92年6月作成の米軍資料では「普天間の既存施設ではオスプレイ配備に不適格で代替施設を検討しなければならない」と明記していた。

 さらにさかのぼると66年には名護市辺野古の海を埋め立て、滑走路2本を持つ飛行場の建設計画を米海軍が作成。米統合参謀本部議長が承認したが、財政難で見送ったとみられる。

 つまり日本側に「普天間を返して」と言わせ、60年代から米軍が望み続けた普天間に代わる基地を、日本の予算で造らせようというのが狙いだったのではないかという指摘も出ている。(政経部・福元大輔)

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