2015年10月25日

形而上者謂之道、形而下者謂之器

形而上者謂之道、形而下者謂之器」(形より上なるもの、これを道といい、形より下なるもの、これを器という)という文があります。形として目に見えるものの以前のもの、それを「道」と言っています。ここで言う「道」とは、人としての生き方、すなわち「時」を知ること、変化を知ることという「兆し」であり「幾」であるのです。それが、「陰」と「陽」の世界なのです。「一陰一陽これを道と謂う。」という文言になるのです。そして、形になって、目に見えるようになったものが「器」です。これは、形だけでなく、行動や言葉での表現も含みます。私たちは、このような「器」を通して、「道」を学んでいくのです。これが易経なのです。
 哲学の世界で、アリストテレスに代表される、現象を「超越」してその背後にある本質や根本的な世界、存在を純粋な思考や理性、あるいは直観によって探求・研究する学問をメタフォジックスと言いますが、これは、「形より(而)上のものを考える学問」ということで、易経のこの部分をとって「形而上学」と訳されています。易経の中で、それについて書かれているのが「繋辞伝」(けいじでん)なのです。
「一陰一陽これを道と謂う。 これを継ぐ者は善なり、これを成す者は性なり。仁者はこれを見てこれを仁と謂い、知者はこれを見てこれを知と謂い、百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮し。」
世の中が一定ではなく、変化していきます。また、世の中のものは同じものでも見方によってはその価値は変化します。その変化は、決まって起こるような春夏秋冬のようなものがあります。それは、それぞれの季節に役目があるからで、陰と陽の役目を行うのです。春夏は盛んに伸びていく陽ですが、秋と冬は蔵に納める陰です。それが呼応しあって、お互いが生かしあって、植物が子孫を後世に残していくのです。人生においても、陰と陽は繰り返し現れます。勢いが盛んで、前進しているときはようで、何事にもうまくいかず、挫折する時には陰です。しかし、これはどちらも、人生においては必要なことであり、両方とも持つことで次に変化が生まれるのです。陰陽は入れ替わり変化します。陰と陽は循環しながら助け合い、補い合いながら新しいものに変化し成長発展していくのです。
人は、陰陽の微妙な変化を察知して対応していかなければなりません。孔子が易を深く学んだと言われているのには、この理由からです。人間が正しく自己の運命の道すなわち天命を歩んでいくには陰陽の道の微妙なところを察知することだからです。

『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に依拠すると、「道」は、世界万物の本質、根源であり、形のないもの。その形のないものがいざ実体のあるものに変遷した場合、『易経』はその状態を「形而下」とし、その状態にある物質を「器」と呼ぶ。「道」は「器」の根源であるに対して、「器」は「道」の発展形。




posted by まる at 09:28| 東京 ☀| 色々 | 更新情報をチェックする
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