御覧の通り、中央の建物の左右にふたつのお堂があり、その間がL字型の回廊で結ばれており、真上から見ると巨大なコの字型の建築群となっている。
| 正面から見て左手にあるのが弥勒堂。 手前にある小さな建物が拝観料を徴収しているところ。 ここで拝観券を購入し、羅漢堂に入る。 |
| 中央の釈迦堂。 弥勒堂から回廊を経由してこの釈迦堂に至る。 中には本尊の釈迦如来像が鎮座している。 |
| 釈迦堂を過ぎ、最後に辿り着くのが正面から見て右サイドの大師堂。 文字通り弘法大師が祀られているが詳細は追々ということで。 一見左右対称に見えるこの堂宇群、良く見ると左の弥勒堂と違い屋根のカタチが寄せ棟になっている。その辺の事も追々と言う事で。 |
| |
| |
| 釈迦堂を過ぎても羅漢の群れ。 さっきと同じ画像じゃないですからね。 |
| |
| さらに突き当たりの角を右に曲がると最後の羅漢行列。 その先には大師堂が見えてくる。 しつこいようだがさっきと同じ画像じゃないですから。 |
| 同じ場所から中央の釈迦堂を振り返ったところ。
|
| |
| |
左右対称を由とする五百羅漢堂において本来左の弥勒堂と右の大師堂は同じボリューム、同じカタチで配置されるはず。 しかしここの羅漢堂はあまりにも左右のお堂の構造が違い過ぎやしませんか?という事なのである。 もっとも、そんなアンバランスな感じも焼肉食べ放題の後にケーキバイキングに繰り出すような勢いが感じられて決して悪くはない。 むしろ現在の弥勒堂~釈迦堂~大師堂という参拝順路からいうと、最後にサプライズ!ってな感じで寺院アトラクション的には正解なのかも。 とにもかくにも何故そんな左右非対称な羅漢堂が出来上がったのか、その原因を探ってみたいと思う。
この拝観券は明治37(1904)年に刊行された大日本名所図録に収録された「四國第五番阿波國五百羅漢地蔵寺之略圖」の一部分を使用している。
そしてその「弥勒臺(壹?)座」の手前には「八十八カ○堂」(○は判読不明、一に四つ点、蔗の略字か)が別の独立したお堂として建っているではないか。
ここまでの条件から推測するに大正年間に再建された際に八十八カ所堂にあった写し本尊が現在の大師堂の部分に移転したのでは、と考えられる。 しかし、ここでもうひとつ重要な条件を加えてみる。 日本すきま漫遊記のへりおすさんによると何とこの大師堂だけが焼失を免れたそうだ(※)。 そうなると今度は180度逆の可能性も考えられる。 大師堂自体には最初から八十八カ所の写し本尊が祭られており、逆に弥勒堂の方が大師堂と同じようなダブル巡礼構造だったのかもしれない。 しかしそれでは辻褄の合わない事も発生する。 かつてあった八十八カ所堂の写し本尊はどこに行ったのか? また弥勒堂にはどんな仏像を並べたのか、ひょっとして百観音でも並んでいたのだろうか? 様々な疑問点が連続噴射して夜も眠れなくなっちゃいます・・・ まあ、やっぱり大正期に八十八カ所堂の写し本尊が大師堂に移転してきた、と考えるのが一番無難なラインですかね。 さらに謎なのが、上の3点の絵を見比べると真ん中の釈迦堂の屋根のカタチが全部違う点。 ついでに言うと再建された現在の釈迦堂の屋根も上記3点のものと全く違いますね。 まあ、何となくニュアンスは伝わるからいいんですけど。 そして最大の疑問、この羅漢堂は本所の羅漢堂と同じように土間と板張りの2系統の通路があったのか、という点だが、現在の建物を見る限りそのような痕跡は全然見つかりませんでした。 ただ、これだけ本所スタイルを踏襲した建物なので、何らかの建築的なギミックはあっていいような気がしてならないのだが(かなり希望的観測)・・・
そんな事をあれこれ考え、焼失以前の姿を想像しながら改めてここの羅漢堂の事を考えると、一見ミニマルなこの回廊もかなり奥深い迷宮に思えてくるから不思議だ。
珍寺大道場 HOME