近世史私説

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zoom RSS 白石晩年の書簡 180

<<   作成日時 : 2009/12/27 20:50   >>

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 *○印の部分には雲のくずし字に似た形が書かれているが、ブログでは表せないので○にした。
 多賀城碑は、古代の陸奥国庁が置かれた多賀城の跡地に、今は覆屋に覆われて存在する。現在の高さ一九六センチ、最大幅九二センチ、最大の厚さ七〇センチの砂岩製の碑石である。碑文の主な内容は多賀城の蝦夷・常陸・下野・靺鞨からの距離(里程)と、多賀城の築造と修復の簡潔な記録となっている。
 長くその存在が知られていなかったのが、江戸時代の多分寛文頃(1660年代)に発見され、歌枕の「つぼのいしぶみ」だとして喧伝されたと思われる。元禄二(1689)年に『奥の細道』の旅の途次ここを訪れた松尾芭蕉は「壺碑」として「石川村多賀城にあり」と記した。彼はこの碑を見て、「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。」とその感動を『奥の細道』に記している。
 ところが、明治以後になるとこの碑に対する疑問や批判が次々に出され、田中義成、喜田貞吉、中村不折などによる偽建説が多くの支持者を得て、1970年代に宮城県多賀城跡調査研究所による発掘調査とそれに基づく詳細な研究がこの碑の真正なものであることをほぼ実証するまで、不当な無視と忘却のままに打ち捨てられていた。
 *多賀城碑の詳細な研究報告書である『多賀城碑 その謎を解く(増補版)』【雄山閣出版  1999年】を参照
 なお、伊達綱村の命によってはじめて正確な拓本を作った佐久間洞巌父子が、事もあろうに碑の偽作者に擬せられたこともあったことを付け加えておこう。白石は洞巌らより前に拓本を作ったものの写しをを綱村→近衛家煕→白石という経路で入手していたが、洞巌父子の新しい技術で鮮明な写しを得て大いに喜んだようだ。
 次の一山一寧の撰になる「松島碑」というのは、弘安四(1285)年に松島の雄島にある妙覚庵に入って以来22年間島を出ることなく、ひたすら法華経を読誦した頼賢(らいけん)という僧ををたたえる碑のことで、頼賢の弟子たちの頼みに応じてそれを撰したのが一山一寧だった。彼は元の使者として渡来し、元の野望に敵意を持った鎌倉幕府によって斬られるはずのところ、高僧故に一命を助けられて鎌倉の建長寺や円覚寺の住職となり、後に上洛して南禅寺3世となった人物で、墨跡の名品を残したことによっても知られている。雄島にあるこの碑の碑文はおそらく洞巌によって拓本に取られていたと思われ、白石はその写しを所望したのであろう。
 見雲真人を淡海三船とする考証の部分は、『陸奥風土記残編』の記述についての一つの見方を示したものだが、ここではそれを含む『日本国総風土記』が偽書である可能性については言及しておらず、「時代はひしと合ひ候名高き善書勿論に候」としている。

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