怒ってる理由が違うんですが
https://twitter.com/keichang11/status/1097428504549875712
うーんなんでこうなってしまうんだろう。重大な認識違いがあるじゃないか。
DD論だとかネトウヨだとか反差別のあるべき何某とか全部関係ないですよ。今回のことは好き嫌いや過剰な仲間意識から生まれたインスタントな敵認定の問題であって、完全な内ゲバです。
これは知ってる人間からしたら現代の山岳ベース事件にしか見えない。
まずDD論とはWhataboutismのことだ。
議論とは別の論点を持ち出して「あちら側もこんな悪事を働いたのだから、どっちもどっち」と言い義論を撹乱しようとする詭弁の一種。
例えば「日本第一党(元在特会)は「朝鮮人を殺せ」等のシュプレヒコールを叫ぶが、カウンター(元しばき隊)も中指立てたりするのでどっちもどっち」などが典型的な言われ方だ。
カウンターに違和感を覚える理由は分かるけど、彼らが何指を立てたとしても日本第一党のヘイトスピーチが正当化されることはない。
もっともDD論者にそんな意図はないんだろうけど
、彼らは左派に対する嫌悪感が強く、つい「どっちもどっち」とどちらにも肩入れしない発言で議論から逃げようとしてしまうんだろう。
「どっちもどっち」の言葉には、本来どちらかを勝者、もう一方を敗者としてジャッジするべきだ、という意図が見え隠れする。
しかし日本第一党サイドとカウンターさんサイドはそれぞれ全く別の問題を抱えている。どちらかを選ぶ必要はないし、それぞれの問題のある点のみを批判すればいいだけ。それが是々非々でやるということであり、党派性に思考を支配された人達が叩かれるのは当たり前のことなのだ。
ところが最近、私の周辺では「DD論」の意味が変わり始めている。
ネトウヨや対立する相手に対し、過剰な攻撃をしてしまっている味方を「ちょっとやり過ぎだ」と諌めることまでも含まれようとしているのだ。
あるいは「トーンポリシング」でもいい。これも本来は反論に窮した者が相手の言い方にケチをつけることで論点をずらす詭弁なのだが、同じ意見を持つ仲間に対しても濫用されつつある言葉である。
本来共闘しているはずの仲間からの忠告を「DD論」「トーンポリシング」として切り捨てることは非常に危険なことだということは、冷静なときであれば誰でも分かることだろう。しかしひとたび集団心理に飲み込まれると、どうやらそうもいかないらしい。
私が見てきた事件の概観はこうだ。
とある反差別系のグループチャット(仮にXとする)でメンバー間の対立が起きてしまった。
私はそのチャットに入っていなかったから分からないけど、聞く限り私の知っているメンバーばかりだ。
その内の2名(仮にAとBとする)が他のメンバーとの考え方の違いで対立してしまったらしい。その対立というのが、グループチャット内にはいないけれどもTwitter上ではいままで仲良くしてきた人物(仮にCとする)をDD論者として糾弾するか否か、という内容だった。
C氏はたしかに問題発言も多いが、未勉強故と思われる部分もたくさんある。AとBは「集団で攻撃対象とするのではなく、対話で解決すべきだ」と主張したそうだ。
しかし2人の考えは受け入れられず、激しく攻撃された。事実上の排斥にあいそのグループチャットXを抜けたのだった。
実は私も別のグループチャット(仮にYとする)の名ばかりリーダーをやっている。こちらは差別全般ではなく、セクシズムをテーマにしたグループだ。
かなりデリケートな話題を扱うグループながら、これまで大きな対立もなく、まったりと進行する雰囲気のいい場所だったと思う。
件のAとBもこのグループYに入っていたのだが、少し前にAが前述のグループXの対立したメンバー(仮にDとEとする)をうちのグループに招待していた。
当初は私も心強い仲間が増えて嬉しいな~という程度にしか考えていなかった。
しかし前述のトラブルの後、ある日Aが「自分で招待しておいて申し訳ないが、出て行ってください」と発言、DとEを相手に言い争いを始めてしまった。
私は「ここのグループでそっちのグループの話をするのは趣旨が違うから、落ち着いて」と声を掛け、その場をなんとか収めた。
果たして対立してしまった人たちをどう扱えばいいのか、初めてのことで頭を痛めつつ、双方とも納得できる方法を考えていた。
その後、DとEの二人は腹を立てて、グループXの仲間に出来事を報告したらしい。
そこで彼らはなぜか、「じゃあみんなでグループYに勝手に押しかけて荒らしてやろう」という答えを導き出した。
グループYには何人ものメンバーがぞろぞろと入ってきて、挨拶もそこそこに、グループ趣旨とは全く関係のない話でチャットを埋め尽くし始めた。
私は同じタイミングで、とある人物から彼らが作戦会議をしているスクショを渡された。
そこでは大勢の見知った人達が、私や仲間を敵視した発言をしていた。
彼らは私の反セクシズムというグループの趣旨には興味がなく、無関係な迷惑行為を楽しんでいるだけだった。
この落胆が分かるだろうか。涙が出て動悸が激しくなり、胃が鋭く強く痛んだ。
私は意を決して、彼らに厳しく「貴方達の目的は分かっています、出て行ってください」と言った。
自分たちの作戦がバレた彼らだったが、当初シラを切り通したり、問題を有耶無耶にすることを望んできた。バレてるぞ、と言えばさっさと観念すると思っていたので、この態度には正直呆れた。
何度も何度も強く出ていくよう発言し、ようやく彼らも非礼を詫びて部屋から出て行ったのだが、そこに至るまで半日かかった。
残ったのは喪失感と虚しさだった。
その後何人かからは私宛に個別のDMで謝罪のメッセージをもらった。
彼らの言い分も簡単には信用できないが、彼らを憎み続けることも私にはできなかった。
私は彼らを赦した。
長くなったけども、これでもかなり掻い摘んでおり、私の恣意的な解釈も含まれる。また、これはあくまで私の周辺で起こった出来事のみを書き出したもので、実際には他にも被害者や事件が存在する。
明らかに彼らの行為は集団の正義の中で先鋭化したものだ。
それでも彼らが、意見の違う仲間を排斥したことや、彼らを攻撃するためなら無関係な場を破壊してもいいと考えたことを反省し、先鋭化について認識し改めるなら、私もこの事件について語るのはやめておこうと思った。
しかし、また先鋭化する者と止める者の間で対立が起き、冒頭のような認識の差異が埋まっていないことがよく分かってしまった。
先鋭化を止めればますます先鋭化していく構造。人が集団で危険な人に変化していく姿を現在進行形で見せられるというのには、絶望しか感じない。
こうやって反差別運動は解体されていくのか。
差別主義者にはどう逆立ちしても勝てない訳だ。
Taddie Yadge