酷い目(アビス並感)で、欠損とか解体はないって感じ。
ここはイドフロントの中。
今日もボンドルドは、元気に人体実験をしています。
ガチャガチャと投薬やら解剖やらをして、じっくりと生命の神秘、延いてはアビスの神秘を解き明かしていきます。
やがて日も暮れた頃になると、漸く実験が一段落ついたようです。
後片付けを終えたボンドルドは、今度は、部屋の隅に置いてあった小さな肩掛けの黄色いカバンを手に取り、何かを取り出します。
「ほう、笛ですか」
それは、血小板がいつも使っているホイッスルでした。
そう、今ボンドルドが漁っているのは血小板のカバン。
イドフロントに入った時に預かっていたものです。
ボンドルドは、勝手に物色して取り出したホイッスルを、隅から隅まで眺めます。
「色は黄色、構造的にも探窟家のものではありませんね。
材質は合成樹脂、プラスチック。造りは稚拙で、恐らくは量産品。製造場所は不明」
あらかた調べ終わると、ボンドルドはホイッスルをデスクに置いて、また物色を始めました。
次に取り出したのは鉤縄です。
少し細めの縄の先に、4方向に反り返った鉄のトゲがついています。
これは、血小板が損傷した血管を治す時に、損傷箇所を登り降りする為に使っているものです。
「使用済み、縄の太さを見るに大人が使うものではない。血小板が使ったのでしょうか?
彼女にこれを使える程の身体能力があるとは到底思えませんが……健康診断に加えて、体力テストも行いましょうか」
ボンドルドは一瞥すると、鉤縄をデスクの脇に置きました。
実際、血小板の身体能力はそれなりに高いです。
彼女たちの作業場所は傷口付近、断崖絶壁のような場所です。
そんな場所で作業をするには、バランス感覚や、ある程度の力が必要となります。
その為血小板達は、師匠の巨核球から厳しい特訓を受けているのです
ボンドルドは更にカバンの中身を取り出していきます。
大事そうに包装紙に包まれた温泉まんじゅうや、工事中と書かれた張り紙、通行止めの旗などなど。
一体この小さなカバンのどこにそんなに収まるのだと言いたくなる程、沢山の品がポンポンと飛び出してきます。
そして、1番奥に埋まっていたものを、ボンドルドは取り出しました。
「これは……網?架橋構造の立体模型のように見えますが、いやしかし、これは……まさか……」
カバンの中で1番体積を取っていたそれは、一度掴むと手にくっついて離れなくなってしまいました。
しかしボンドルドは、構わずに引っ張り出します。
漁網のような大きな網がズルズルと引き出され、その全容を露わにしました。
「何と……少々形が違いますが、これは本物のフィブリンですね」
【フィブリン
血液の凝固に関わるタンパク質。】
ボンドルドは手にくっついたフィブリンを丁寧に引き剥がすと、端っこを切り取り、残りを透明なガラスケースの中に仕舞い込みました。
そして、フィブリンの切れ端を大型の機械の台座にセットすると、その上の覗き口に目を当てました。
どうやら、この大型の機械は顕微鏡のようです。
ボンドルドの視界には、何千、何万倍にも拡大されたフィブリンが映っていました。
そして、ポツリと呟きます。
「驚きました……原子のサイズが大きく膨張している」
それは、明らかな異常事態でした。
原子が、まるで風船のように膨れ上がりその形や性質を大きく変質させていたのです。
膨張した一つの原子が、同質量分の正常な原子と同じ働きをしていました。
それにより、構成する物質も通常の物質と同じような性質になっていたのです。
それからボンドルドは、カバンに入っていた物を顕微鏡でじっくり観察していきました。
そして、カバンも含めて全ての品を調べ終えると、紙にメモを書き込みました。
その後、棚から一つの資料を取り出し、メモと見比べます。
「血小板の持ち物は、全て原子が膨張しているようだ。そして、膨張した原子と正常な原子の大きさを比較すると、その倍率は……一律で凡そ50万倍といったところですか」
ボンドルドは血小板の持ち物や、実験に使った器具を丁寧に片付けると、研究室を出てある場所へと向かいました。
「50万倍となると、丁度、血球である血小板が、幼い子供の身長と同程度になる倍率ですね」
当然、目的地は子供部屋でした。
「よーし、しゅっぱーつ!」
一方血小板は、既にイドフロントから脱出していました。
巨核球から指令を受けた以上、一分一秒でも早くこの大穴、アビスを踏破しなければなりません。
昼夜問わず働き続けている血小板にとって、夜明けなんてものは待つ必要の無いものなのです。
「えーっと、うーんと、あっちに行こうかな?」
とはいえ、ここは右も左も分からないアビスの中。
逸る気持ちに相反して、血小板の足取りは不確かです。
少し進んで振り返って、また少し進んでは右往左往。
歩幅の小ささも相まって、全く前進していません。
「どこかに上に登れそうな場所ないかなぁ……」
『血小板ちゃーん!こっちこっちー!』
と、ここで、またもや誰かの声が聞こえてきました。
「えっ?赤血球のお姉ちゃん?」
紛うことなき赤血球の声です。
今度は、イドフロントの中で聞いた時よりも、かなりはっきりと聞こえました。
そう、とても幻聴とは思えない程にはっきりと聞こえたのです。
「赤血球のお姉ちゃん……いるの?」
『だいじょーぶ!私が付いてるから!』
血小板の呟きに応えるように、赤血球の声が聞こえます。
これは、思い出の中の声でも幻聴でもありません。
確実に、赤血球本人の声でした。
『一緒に行こう、血小板ちゃん!』
赤血球が手を指しのべてくる姿が脳裏に浮かびます。
「……うん!」
行くべき場所が定まりました。
声が聞こえてくる所、赤血球がいる所、暖かなあの場所へと帰るのです。
一緒に働いていた時のことを思い出すと、自然と歩くスピードが速まります。
(きっと、赤血球のお姉ちゃんが探しに来てくれたんだ!)
血小板は居ても立っても居られなくなり、駆け出しました。
こんなに全力疾走するのは初めての経験で、苦しく息が上がりました。
転んでしまっても、足を止めることはありません。
地面の窪みに足を取られながらも、荒野を全力で走り抜けます。
そんな血小板を応援するように、赤血球の声が続きました。
『頑張って!血小板ちゃん!』
「うん!今から行くね、赤血球のお姉ちゃん!」
血小板は力強く叫びましました。
どれ程走ったのか、血小板には分かりませんでしたが、兎に角、長い時間が経ったように感じました。
深界の広い空間は血小板の遠近感を狂わせ、これっぽっちも進んでいないかのような錯覚に陥らせます。
それでも休むことなく走り続けていると、やがて血小板の目に小さな洞窟が見えてきました。
小さいといっても、血小板が入るには十分な大きさがある洞窟です。
辺りを見渡すと、高い岩壁が聳えるばかりで他には何もありません。
『ほら、もう少しだよ!』
赤血球の声が、かなりはっきりと聞こえます。
もう直ぐ近くに迫っているようです。
(あそこだ!あの洞窟の中に赤血球のお姉ちゃんがいる!)
漸く赤血球と会える、そう思うと血小板の顔に笑みが浮かびました。
疲れ切った体に鞭を打って、必死に足を動かします。
滴る汗も拭わずに、無我夢中で腕を振ります。
あと50m
30m
10m
そして、
「着いたー!」
血小板はとうとう洞窟へと辿り着きました。
膝がガクガクと震え、心臓が弾けそうな程激しく脈打っていますが、そんなことを気にしている場合ではありません。
そのまま、脇目も振らず洞窟の中へと飛び込みます。
その先に、あの暖かな光景が待っていると信じて。
「赤血球のお姉ちゃん!」
ガランとした洞窟の中で、血小板の声が響きました。
しかし、返ってくるのは反射した自分の声だけで、追い求めた赤血球の声はありません。
声が小さくて聞こえなかったのだろう、と考えた血小板は、遠くまで聞こえるように大きく息を吸い込みました。
「お姉ちゃーん!私、来たよー!」
血小板の声が、洞窟の壁に乱反射します。
しかし、赤血球からの返事はありません。
血小板は、地の底まで続いていそうな暗い洞窟の中へ、一歩づつ足を進めていきました。
きっと直ぐに赤血球が迎えに来てくれる、そう思いながら黒い闇に目を凝らします。
ゴソッ
視界の隅で、何かが動きました。
血小板は、咄嗟にそちらへ顔を向けました。
見れば、岩陰に赤っぽい色の何かが蹲って、モゾモゾ動いています。
「お姉ちゃん、そこにいるの?」
返事はありません。
あれが本当に赤血球なら、直ぐに返事を返している筈です。
しかし、返事がないばかりか、声掛けに対して一切の反応がありません。
となると、今は返事も出来ないような状態にあるか、或いは、そもそも赤血球ではない可能性もあります。
(きっと……きっと、怪我をしてて声が出せなんだ……早く助けてあげなくちゃ)
血小板は、無意識に息を飲みました。
洞窟の冷たい風に冷やされた汗が、火照った体から急激に熱を奪います。
そして、恐る恐る足を動かし、岩の後ろへ回り込みました。
「グゲッ、ゲペッ」
そこにいたのは、余りにも悍ましい生き物でした。
肉はデロデロに溶けて垂れていて、眼球が眼孔に収まらずに飛び出てしまっています。
湾曲して開きっぱなしの口からは、不揃いの歯が並び、異常に肥大化した舌が垂れ下がり涎を撒き散らしています。
そして、その体の半分はグシャグシャに潰れていて、ダラダラと血が吹き出し全身を赤く染めていました。
「ひぃっ!?」
血小板は、余りの恐ろしさに腰を抜かして、後ろに倒れ込みました。
「グギャッ」
それと同時に、謎の生物は血小板の方へ顔を向けました。
その生物は耳も目もグチャグチャで機能していませんでしたが、振動は感じるようです。
血小板が倒れた振動を察知したらしく、ひしゃげた体を引きずってゆっくりと近付いて来ます。
べちゃべちゃと、溶けた肉と石が擦れ合う耳障りな音が洞窟に響きます。
「いや……来ないで……」
「ゲギッ、ギギッ」
逃げたいのに、足が言うことを聞きません。
恐怖と全力疾走の疲労により膝はガクガクと震えるばかりで、一切力が入らないのです。
それでも血小板は体を反転させて、匍匐前進のような体勢で必死に逃げようともがきました。
藁にもすがる思いで、地面に転がる石を掴みます。
「グゲベッ」
「きゃっ!いやっ、いやぁぁぁああああ!!」
謎の生物の4本の指が、血小板の足を掴み引っ張ります。
然程強い力ではありませんでしたが、体重の軽い血小板を引き寄せるには十分な力でした。
血小板は、岩陰の方へ引き摺り込まれてしまいます。
「グィイッ、ギギャッ、ギギャッ」
「ひっ、ひぐっ、い、いやぁ……」
謎の生物は、血小板に覆いかぶさりました。
先程、殴りつける為に石を拾った方の手は、ドロドロとした肉の下敷きにされて動かせなくなってしまいました。
ねちょねちょした生暖かさと、肉が腐ったかのような異臭が気色悪く、総毛立ちます。
唾液が顔に滴り、垂れ下がった眼球が血小板の瞳を覗き込みます。
血小板は、悍ましい視線から逃れる為に瞼をぎゅっと瞑ります。
(お姉ちゃん、助けてっ!)
そして、歪んだ口が大きく開かれ、生臭い吐息が血小板の顔を撫でました。
「見つけましたよ」
体の重みが急に無くなりました。
「いけませんね、勝手に抜け出すのは。危ないですよ」
叱責する声には、血小板の身を案じる優しさがありました。
その声は、赤血球のものではありませんでしたが、心が安らぐ暖かな声音でした。
血小板は、恐る恐る瞼を持ち上げます。
「安心してください。もう、怖くありませんよ」
真っ黒な面がこちらを覗き込んでいました。
逞しい腕が、血小板の細い体をしっかりと抱き上げます。
「ボンドルドの、お兄さん……」
緊張の糸が途切れた血小板は、疲労により意識を途切れさせました。
今日はここまで。