よくわかる本尊模刻問題
学会より、本部に安置されている紙幅の学会常住御本尊の痛みを理由に、板御本尊にしたいと宗門に申し出。
本来、学会に下付された紙幅御本尊をお下げし、あらたに板御本尊を下付するものであるが、学会から正式な手続きが行われなかった。この数年後、学会独自で板御本尊を作ったことが発覚した事件。
- 学会の言い訳
席上で筆記された「藤本メモ」(宗門総監)に 「本部三階の御本尊の件ー板御本尊にしたい」翌日に大奥で行われた連絡会議の法主への報告で「7の件ーOK」とある通り、許可をとったと主張。
日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今迄の日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達 上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということでございます。日昇上人の御本尊そのものを板御本 尊に模刻することを許可せられたのではないということであり、このことは、先程も出ましたが、菅野慈雲師の『大日蓮』573号に発表されている手記のなか で、日達上人のお言葉として、 「板御本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板御本尊に直していたということを後から聞かされた」(同書78P)
【従来の手順】
御法主上人の御允可のもとになされてきたことは疑う余地のないことであります。 御本尊の謹刻はむろんのこと、紙幅の御本尊の表装やおきよめについても、御法主上人の直々の允可によるか、あるいは御法主の允可を受けた末寺住職の指導のもと行われている。 信徒が勝手に御本尊の模刻を仏師に依頼したり、紙幅本尊の表装を勝手に表具師に注文することは、従来許されていない。
(『創価学会の偽造本尊義を破す』より)
聖教新聞では、板御本尊謹刻について掲載せず。
昭和50年1月1日
池田会長による本部 模刻本尊入仏式
昭和53年
本尊模刻が他にも7体存在することが発覚
▼申請すらしていない本尊を勝手に模刻。この他にも複数存在するとの証言もある。
(1)学会本部安置昭和26年5月19日大法弘通慈折広宣流布大願成就
(2)関西本部安置昭和30年12月13日
(3)ヨーロッパ本部安置昭和39年12月13日
(4)創価学会文化会館安置昭和42年6月15日
(5)学会本部会長室安置昭和42年5月1日
(6)アメリカ本部安置昭和43年6月29日
(7)賞本門事戒壇正本堂建立昭和49年1月2日
(8)池田大作授与の御守本尊昭和26年5月3日
昭和53年9月28日
聖教新聞で本尊模刻認める 学会
▼模刻本尊を本山に納める 中西総務らによって深夜、模刻本尊7体を総本山奉安殿に納める
池田大作に下付された御守御本尊をこんな形に勝手に模刻し、東北研修所に安置。会員に拝むよう指導していた。
回収された模刻本尊には、自分の誕生日に日付を変造したものもあった!
昭和53年10月3日
「院達」により本尊模刻問題の終息
昭和53年11月7日
お詫び登山
本山において「創価学会創立48周年記念幹部会」を開催。幹部2000名によるお詫び登山が行われた。
破門後に創価学会が反論
平成5年9月30日
破門後、創価学会は彫刻を依頼された赤沢氏(台東区区最高幹部)の証言を聖教新聞に発表。 昭和49年秋ごろ、日達上人とのお目通りの際、確認をとったと証言した。
平成5年の検証により新事実が発覚!
申し出する5ヶ月前に、板本尊を製作していた!
学会の唯一の反論である赤沢証言は、本尊のほぞに刻まれた年月より後であり、完全に作り話であることを露呈した。