元寇長門襲来説

いつのまにか(2010/05/12)

■ 他地域の伝説 ■

□ 藤森神社の蒙古塚

地域:京都府京都市伏見区深草鳥居崎町(藤森神社境内)

出典:京都市役所公式サイト「京都市情報館」行財政局所管京都市フィールド・ミュージアム京都いしぶみデータベース蒙古塚


◆内容

『拾遺都名所図会』巻五によれば,天応元(781)年に「異国の蒙古」が日本へ攻め寄せ,早良親王率いる軍勢がこれを退けた。その時の蒙古軍の大将の首を藤森神社に埋めた塚が蒙古塚と呼ばれて残っていると記す。鎌倉時代の蒙古襲来(文永・弘安の役)のことが,武功祈願の神社である藤森神社の祭神早良親王の事蹟として伝えられたものかもしれない。この石標は蒙古塚を示すものである。なお寄附者西村伊三郎は伏見(深草?)の人。砂子川のしこ名で相撲をとり,また相撲の興行にも携わった。
所在地伏見区深草鳥居崎町(藤森神社内)
位置座標北緯34度56分48.0秒/東経135度46分27.8秒(日本測地系)
建立年大正8年
建立者西村伊三郎(寄附)
寸 法高195×幅33×奥行33cm
碑 文
[東]
蒙古塚
[西]
            砂子川事
寄附者      西村伊三郎
[北]
大正八年六月五日建之
調 査2008年5月6日
備 考

※上記データは出典元のフィールド・ミュージアム京都「いしぶみデータベース」を作成した京都市歴史資料館の調査による。

藤森神社の蒙古塚(2009年1月探訪)
藤森神社藤森神社。京都府京都市伏見区深草に所在。神功皇后によって創建されたと伝わる、平安遷都以前からの古社という。2009年1月撮影。
蒙古塚境内に入ってすぐ左手にある蒙古塚。

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◆史料:『都名所図会』巻之五

出典:国際日本文化研究センターDB「平安京都名所図会」内『都名所図会』巻之五「前朱雀再刻」より。

藤杜の社は墨染の北にあり。本殿の中央は舎人親王、ひがしは早良親王、西は伊予親王を祭る。〔又本朝武功の神を配祀し奉る、神武天皇、神功皇后、日本武尊、武内宿祢等なり。故に弓兵政所と号す〕
舎人親王は天武天皇の皇子にして、天平宝字三年に追尊あり、崇道尽敬皇帝と号す。〔養老年中に勅をうけて日本記を撰し給へり〕例祭は五月五日にして、産子は武具を着して走馬する事は、光仁帝の御宇天応元年に、異国の蒙古日本へ攻来るよし聞えければ、天皇第二の皇子早良親王を大将軍として、退治あるべきよし宣旨を賜る。親王当社に祈誓して五月五日に出陣し給ふ。神威いちじるしく忽暴風大に吹来り、蒙古の軍船浪にたゞよひ悉亡びうせけり。此吉例によりて毎歳軍陣の行粧をなし、天下平安の祷とし給ふ。当社を弓兵政所といふは此所謂によるともいふ。
旗塚〔本社のひがしにあり、神功皇后三韓退治の後、旗をこゝに埋め給ふとなり〕
蒙古塚〔当社森の中に七ツありとぞ、今詳ならず、夷賊退治の後、軍将の首をこゝに埋て神威を現し給ふなり〕
力石〔祭日には産沙の人集りて此石を打かへし、ちからをためしけるなり〕
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◆コメント

京都市伏見区にある藤森神社の境内にある蒙古塚。かつて7つあったという藤森神社の「蒙古塚」は、「軍将の首」を埋めたと伝わるが、江戸時代18世紀後半の時点で所在がわからなくなっているようだ。現在の藤森神社には、1919(大正8)年の年号のある「蒙古塚」と刻まれた石碑が境内に建つ。

『都名所図会』は秋里籬島著、竹原春朝斎図で京都の吉野屋から1780(安永9)年刊行、墨摺六冊本。後編に1787年(天明7)年に刊行された『拾遺都名所図会』がある。底本は国際日本文化研究センター蔵、1786(天明6)年再板本。国際日本文化研究センターデータベース「平安京都名所図会」内より。翻刻も同じ。

室町時代末期に成立という「藤森神社縁起」の流れをくむ。蒙古との戦いを奈良時代末の781年(天応)元年、早良親王を将軍に任じて打ち破ったとして、五月五日の「走馬」の行事の由来が語られ、関連して蒙古塚が登場する。

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◆参考


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