フィリピンでの戦いに先立ち、海軍ではすでに特攻兵器の開発が始まっていたことは先に述べた通りである。特攻専門部隊の編成も進められ、特攻は海軍の既定方針だった。大西中将についても、はじめから特攻作戦の実行者としてフィリピンに送り込まれたという説もある。
だが、副官として特攻隊編成の一部始終に立ち会った門司親徳さんは、さまざまな説を考慮してもなお、大西中将がほんとうにフィリピンにおける特攻隊編成を決断したのは、10月18日夕、「捷一号作戦」が発動されたときだと信じている。
「というのはつまり、司令長官というのは天皇から任命される『親補職』ですから、『ダバオ水鳥事件』と『セブ事件』がなければ、前任の寺岡中将が在任わずか2ヵ月で更迭されることはありえない。このタイミングでフィリピンの一航艦長官が交代したのはいわば偶然の産物です」
だが、二〇一空の特攻隊編成が、事前に決められていたという重要な根拠とされる電文がある。
〈神風隊攻撃ノ発表ハ全軍ノ士気昂揚竝(ならび)ニ国民戰意ノ振作ニ至大ノ關係アル處 各隊攻撃實施ノ都度純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適當ノ時機ニ發表ノコトニ取計ヒ度處貴見至急承知致度〉
起案者は軍令部第一部の源田實中佐で、起案日は「昭和19年10月13日」となっている。だが、この電文が実際に打電されたのは、関大尉以下が突入に成功した翌日、10月26日午前7時17分(軍極秘・緊急電)のことで、緊急電なのに起案から打電までにじつに13日を要していることになる。
これについて門司さんは、
「13日起案は何かの間違い」
と断言する。
「10月13日といえば台湾沖航空戦2日目で、大戦果が続々と報じられていたときです。つまり、ここで敵機動部隊をほんとうに叩いたならば、敵のフィリピン進攻はなかったか、もっと時期が遅くなったでしょう。
そうすると、一航艦の特攻編成も違った形になったはずで、台湾沖航空戦の主力、T部隊を主唱した源田参謀が、この時点でこんな電文を起案するのはいささか不自然です。しかも、13日には、大西中将は赴任の途中でまだ台湾にいる。そんな時期に、いまだ編成もされておらず、成功するかどうかもわからない特攻隊について、『攻撃実施の都度、隊名も併せ発表してよいか』というのは手回しがよすぎる。第一、何機の零戦で何組の特攻隊が編成されるかわからないのに、軍令部があらかじめいくつかの隊名を決めておくなどあり得ないことです。
打電されたのが10月26日朝ということですが、25日午後には、すでに特攻隊の突入成功の報告は軍令部に届いていたわけで、源田参謀としては、この壮挙に一枚加わろうと、起案日をわざと改竄したのではないか、そうでなければ話の辻褄が合いません」
側近中の側近が、実際の時間の流れでそのように見ていたということは、信用するに足る。要はこの電文は源田のインチキだということである。
もちろんこれには異論もあるだろう。歴史は、いや、ものごとにはいくつもの筋があり、それが近づいたり遠ざかったり、複雑に絡み合ったりして、一つの出来事は起こる。特攻隊の編成に関しても、真相を一本の筋道だけで捉えるのは無理があるのかもしれない。
「中央で特攻が既定路線となっていたことを知ったのは戦後のことですが、いずれにしても、ずっと前線にいた目から見て、トラック空襲で司令部が見せた失態が尾を引いて、坂道を転げ落ちた果てに特攻に行きついた面があることは間違いない。
そして、その一連の流れにあった上層部の指揮官で、終戦の詔勅翌日(昭和20年8月16日)に自刃した大西中将をのぞき、部下を死地に追いやった責任を、自ら死をもって償った人は一人もいませんでした。『安全地帯にいる人の言うことは疑え』というのが、大東亜戦争(太平洋戦争)の大教訓だと思っています」
――第一線で、身をもって戦争を体験した人が次々に鬼籍に入りつつあるいまこそ、門司さんの述懐を噛みしめるべきときなのかもしれない。