昭和19年10月10日、米機動部隊が沖縄に来襲。11日、大西はフィリピンに向かう途中、台湾・高雄基地に降り立った。この日、索敵機が台湾東方海域に敵機動部隊を発見している。12日、台湾は艦上機による大規模な空襲を受け、同日、九州・台湾・沖縄を管轄する第二航空艦隊(二航艦)司令長官・福留繁中将は指揮下のT攻撃部隊に対し、敵機動部隊への総攻撃を下令した。
二航艦は、10月12日から16日にかけ、総力を挙げて敵機動部隊を攻撃。空母10隻撃沈、8隻撃破などの「大戦果」が報じられたが、16日になって索敵機が、撃滅したはずの敵機動部隊が無傷で航行しているのを発見した。日本側の戦果判定の多くは、薄暮から夜間にかけての攻撃で、味方機が被弾炎上するのを敵艦の火災と誤認したものであった。「台湾沖航空戦」と呼ばれるこの戦いで、日本側が失った飛行機は約400機。沈没した米軍艦艇は1隻もなかった。
昭和19年10月17日、米軍攻略部隊の先陣は、レイテ湾の東に浮かぶ小さな島、スルアン島に上陸を開始した。いよいよ、敵の本格的進攻が始まったのだ。
大西が、一航艦の司令部があるマニラに飛んだのは、10月17日午後のことである。その晩、寺岡中将と大西中将との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の一航艦長官就任は10月20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差支えない。
18日の夕刻、聯合艦隊司令部がフィリピン防衛のため、「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に下令した。作戦によると、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下、戦艦、巡洋艦を基幹とする第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ島に突入、大口径砲で敵上陸部隊を殲滅する。戦艦「扶桑」「山城」を主力とする別働隊と、重巡洋艦を主力とする第二遊撃部隊が、栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間、空母4隻を基幹とする機動部隊が、囮となって敵機動部隊を北方に誘い出す。基地航空部隊は全力をもって敵艦隊に痛撃を与える。……まさに日本海軍の残存兵力のほとんどを注ぎ込む大作戦だった。
だが、航空部隊が敵艦隊に痛撃を与えようにも、フィリピンの航空兵力は、10月18日現在の可動機数が、一航艦の35~40機、陸軍の第四航空軍約70機しかなく、台湾から二航艦の残存機230機を送りこんでも、あわせて約340機に過ぎなかった。
大西中将は、一航艦のわずか数十機の飛行機で、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援し、成功させなければならない。そこで、敵空母を撃沈できないまでも、せめて飛行甲板に損傷を与え、一週間程度使用不能にさせることを目的に採られた戦法が、250キロ爆弾を搭載した零戦もろとも体当り攻撃をかける「特攻」である。
一航艦で編成された最初の特攻隊は、関行男大尉を指揮官に、10月21日を皮切りに出撃を重ね、25日、初めて突入、敵護衛空母を撃沈するなどの戦果を挙げた。報告を受けた大西中将が、「これでどうにかなる」と呟いたのを、副官だった門司親徳さんは憶えている。だが、その思いと特攻隊の犠牲を裏切るかのように、栗田艦隊はレイテ湾突入を断念、敵上陸部隊を目前にしながら反転し、またしても作戦は失敗に終わった。だがここで、延べわずか10機の爆装零戦による体当たり攻撃が、栗田艦隊による砲撃戦を上回る戦果を挙げたこともあり、以後、特攻は恒常的な戦法として続けられるようになる。