古賀大将の殉職後、聯合艦隊の指揮権は一時、南西方面艦隊司令長官・高須四郎大将が継承したが、5月3日、豊田副武大将が古賀の後任の聯合艦隊司令長官として親補された。
聯合艦隊は、空母9隻を基幹とする第一機動艦隊(司令長官・小澤治三郎中将)を編成し、これと基地航空部隊である第一航空艦隊とで敵機動部隊と決戦を行い、敵の進攻意図を破砕して退勢を一挙に挽回しようとした。「あ」号作戦である。
6月11日、12日と、米機動部隊はのべ1400機にのぼる艦上機を、サイパン、テニアン、グアム各島の攻撃に発進させた。2日間の空襲で、マリアナ諸島に展開していた日本側航空兵力は壊滅した。米艦隊はさらに、13日にはサイパン、テニアンを艦砲射撃し、6月15日、米軍がサイパンに上陸を開始する。
サイパン、テニアンを敵に奪われたら、東京をふくむ日本本土が、米軍が新たに開発している大型爆撃機・ボーイングB‐29の攻撃圏内に入る。いわば、将棋でいえば詰んだも同然になる。ところが、「あ」号作戦が発動され、6月19日から20日にかけて、日米の機動艦隊が激突した「マリアナ沖海戦」と呼ばれる戦いで、日本側は見るべき戦果を挙げられないまま、空母3隻と空母搭載機の殆どを失い、大敗を喫した。
マリアナ沖で日本機動部隊を撃滅した米機動部隊は、こんどは日本本土からサイパン、テニアンへの増援を阻止するため、小笠原諸島の硫黄島に向かった。硫黄島はまた、マリアナからの本土空襲の中継基地となりうる位置にあり、ここを取られたら、日本本土は米軍の大型爆撃機だけでなく、戦闘機の行動半径の中にも入ってしまう。
昭和19年6月24日、7月3日、4日と、3日にわたって硫黄島は激しい空襲を受け、硫黄島に進出していた航空兵力もまた、壊滅した。サイパンは7月8日、テニアンは8月3日、グアムは8月11日、それぞれ米軍に占領された。
特攻兵器の開発が進められ、体当たり攻撃隊の編成が開始されたのは、そんな流れのなかでのことだった。しかし、それと並行して、海軍軍令部は、なおも来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅することに望みをつなぎ、新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものである。だが、飛行機の性能、機数が敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状で、敵が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。この作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の源田實中佐であり、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。T攻撃部隊は、セブ島でゲリラの捕虜になった福留繁中将が司令長官を務める第二航空艦隊の指揮下に入ることになった。
トラックが無力化し、マリアナ諸島が陥落したいま、「絶対国防圏」はすでに崩壊している。米軍が次に攻めてくるのは、大方フィリピンにちがいなかった。
フィリピンは日本政府の支援のもと、昭和18年10月14日、独立宣言を発し、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国が誕生している。日本は占領以来の軍政を廃し、新たに結ばれた日比条約に基いて陸海軍部隊を引き続き駐留させていた。
昭和19年9月9日から10日にかけ、前線の基地航空部隊の主力・第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置くダバオは、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。トラック空襲を体験した門司親徳さんは、一航艦副官となっていて、その後の経緯もつぶさに見ていた。
10日朝、見張所からの「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告に、浮き足立った根拠地隊司令部は、「ダバオに敵上陸」を報じ、一航艦司令部もそれにつられる形で混乱を起こす。折あしく一航艦では、敵機の夜間空襲による損害を防ぐため飛行機をフィリピン各地に分散していて、ダバオにはこの日、飛べる飛行機は1機もなく、敵情については見張員の目視に頼るしかなかった。
司令部は玉砕を覚悟し、敵上陸に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却するが、10日の夕方になって、第一五三海軍航空隊飛行隊長・美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、海面の白波を水陸両用戦車が来たと見間違えたのだった。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
敵機動部隊は9月12日、こんどはセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報で、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集中配備された第二〇一海軍航空隊零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。「水鳥事件」で司令部が通信設備を破却してしまっていたので、その後の指示が出せなかったのだ。加えて、セブ基地指揮官が零戦隊に発進を命じるタイミングが遅すぎ、トラック空襲のときと同じように、離陸直後を襲われ撃墜される機が多かった。フィリピン決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして戦わずして戦力を失った。「セブ事件」と呼ばれる。
この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任わずか2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。
大西中将は、大正4(1915)年、中尉のとき日本初の水上機母艦「若宮」乗組兼航空術研究委員となり、飛行機乗りへの道を歩んだ、日本海軍航空の草分け的存在である。太平洋戦争開戦時には、台湾の第十一航空艦隊参謀長として、東南アジアにおける日本海軍航空隊の緒戦の快進撃を仕掛けた。「闘将」と言っていい。
ただし、大西は、日米開戦には反対、ないしは慎重な立場だった。軍需省航空兵器総局総務局長だった昭和19年、大西は、東京・有楽町の朝日講堂で行った講演で、
「非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのは決して戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものである。現在のように勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいって決して喜ぶべきことではない」
と、戦況を冷静に分析し、悲観的な見通しを率直に吐露している。この大西が第一航空艦隊司令長官として、フィリピンの基地航空部隊を指揮することになったのだ。