門司さんによると、トラックにいる隊員たちの間では、妙な噂が広がっていた。それは、2月16日晩、夏島にある「トラック・パイン」こと料亭「小松」で、痔疾のため内地への送還が決まったトラック島最高指揮官、第四艦隊司令長官・小林仁中将の歓送会があり、竹島その他の主要指揮官や司令部要員がそこに出席し、17日未明に奇襲を受けたときにはそれぞれが芸者と寝ていて、自分の島に帰れなかったというものである。しかも、せっかく出された第一警戒配備を解除したのは、この宴会のためであったという。
夏島での宴会については、南方視察に来ていた海軍軍令部次長・伊藤整一中将らの接待であったという説もある。
このことは、公刊戦史である「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編、朝雲新聞社)にも記述がなく、残された公文書も見当たらないが、もし隊員たちの信じた「噂」が事実なら、油断としてもいかにも間の抜けた話ではある。
「海軍辞令公報」によると、小林中将と、基地防衛の責任者である第四根拠地隊司令官・若林清作中将は、2月19日、揃ってその任を解かれ、「軍令部出仕」の名目で日本に帰ることになるが、これも、「すでに決まっていたこと」という説と、「空襲での損害の責任をとらされた」という両方の説があって、いまとなっては詳らかではない。ただ、2月17、18日に空襲を受け、内命もなく19日に更迭というのは、海軍のほかの人事の例からみると、責任をとらされたにしては手回しがよすぎる感はある。
造成されたばかりの楓島基地では、空襲が終わってから慌てて防空壕を掘り始めた。トラック島司令部の、空襲に対する危機感が欠けていたことは、料亭「小松」の女将だった山本直枝さんの回想(『錨とパイン』〈静山社〉外山三郎著)からもうかがえる。
「小松」は、明治18(1885)年、横須賀に開業した老舗の海軍料亭で、山本権兵衛、東郷平八郎、山本五十六らの大物から初級士官まで、横須賀に勤務した海軍士官全員が顧客だったと言っても過言ではない店である。
横須賀鎮守府からの要請を受け、開戦の翌昭和17(1942)年、トラック島の夏島に出店した。当初は芸者20~30人と髪結い2人でスタートしたのが、空襲を受けた頃には芸者50~60人の規模に膨れ上がっていたという。芸者は全員、横須賀の本店で芸事の稽古を積んで、膨大な数の着物とともに送り込まれていた。
ところが、直枝女将が視察に行ってみると、夏島では海軍の防空壕は立派に造られているのに、「小松」の防空壕は用意されていなかった。怒った女将は、根拠地隊司令官に直談判し、ようやく造られたのだという。
2月17日の空襲で、「小松」も爆撃を受け、6人の芸者が爆死した。前夜の宴会から店に残っていたものと思われ、警戒配備が敷かれたまま、防空壕に退避さえしていれば助かったはずの命だった。結局、トラックの「小松」は閉店、残った芸者たちは着の身着のままパラオに逃れ、そこから船に乗って台湾経由、3ヵ月がかりで横須賀に帰り着く。
ところで、トラック島大空襲から遡ること約1年、昭和18(1943)年6月末頃から、海軍部内では飛行機に爆弾を抱いて敵艦に突入するという、捨て身の作戦が議論に上るようになっていた。これは時期的に、ガダルカナル島上空の制空権を完全に失い、南太平洋での戦いが防戦一方になった頃である。
昭和18年6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦上攻撃機、艦上爆撃機に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当たり攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とするよう、航空本部総務部長・大西瀧治郎中将に意見具申した。大西中将は、
「意見は了承するが、搭乗員が100パーセント死亡するような攻撃方法は、いまだ採用すべき時期ではない」
としてその具申を却下した。同年末、特殊潜航艇「甲標的」の訓練を受けていた黒木博司中尉と仁科関夫少尉は、共同研究した「人間魚雷」の設計図と意見書を海軍省軍務局と軍令部に提出したが、これも却下されている。
しかし、マーシャル諸島の主要な島が次々と敵手に陥ち、昭和19(1944)年2月17日、トラック島が大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けたことで潮目が変わった。2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直されることになり、呉海軍工廠魚雷実験部で「マルロク(丸の中に漢数字の六と表記)金物」の秘匿名で極秘裏に試作が始められる。これはのちに「回天」と名づけられた水中特攻兵器で、魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当たりするものだった。さらに4月、軍令部は、第二部長・黒島亀人少将主導のもと、マルイチ(丸の中に漢数字の一と表記)からマルキュウ(丸の中に漢数字の九と表記)までの秘匿名のつけられた特攻兵器の開発を、海軍省に要望する。
昭和19年5月には、第一〇八一海軍航空隊の大田正一少尉が、大型爆弾に翼と操縦席を取りつけ、操縦可能にした「人間爆弾」の着想を、五五一空から転任した司令・菅原英雄少佐を通じて空技廠長・和田操中将に進言、航空本部の伊東祐満中佐と軍令部の源田實中佐とが協議して研究を重ねることになった。のちの「桜花」である。
各種特攻兵器の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬にかけ、第一線部隊をのぞく日本全国の航空隊で、「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集。9月13日、海軍省内に「海軍特攻部」が正式に発足し、トラック島空襲の戦訓調査にもあたった大森仙太郎中将(5月1日進級)が特攻部長に就任した。
つまり、時系列で見ると、「特攻」は、ガダルカナル戦以降、同時多発的に発案され、海軍省も軍令部も逡巡していたものが、トラック島空襲を契機として、一気に実行に向かうことになったのだ。
トラックを逃れた聯合艦隊が、新たな内南洋の拠点としていたパラオも、昭和19年3月30日、米機動部隊の艦上機のべ456機による大空襲を受けた。翌31日にも、敵はパラオ、ヤップ、ペリリューの日本海軍基地に猛攻をかけてきた。この時点で中部太平洋には、来るべき米機動部隊との決戦に備えて、第一航空艦隊(基地航空隊)の零戦109機をふくむ174機の精鋭部隊がマリアナ諸島に、零戦113機をふくむ189機がヤップ島やメレヨン島に、64機がペリリュー島に、それぞれ配備されていたが、これらの空襲でその半数を失ってしまう。
パラオに敵上陸の兆候があると判断した聯合艦隊は、こんどは司令部をフィリピン・ミンダナオ島のダバオに後退させることに決め、3月31日夜、古賀峯一長官、福留繁参謀長以下の司令部職員は、2機の二式大型飛行艇に分乗し、いち早くパラオを後にした。
だがこの日、フィリピン南方は天候が悪く、古賀長官の搭乗した1番機は消息を絶ち、行方不明になってしまう。福留参謀長の乗った2番機はセブ島沖で不時着し、福留以下司令部要員3名を含む9名がゲリラの捕虜になった。福留一行は、のちに日本の陸軍部隊に救出されたものの、作戦計画書、暗号書など最高度の機密書類を奪われた(「海軍乙事件」)。
本来ならば捕虜になった者は海軍の「俘虜査問会規定」により査問にふされ、軍法会議にかけられるなどの処分を受けなければならない。ましてや、軍の最高機密まで敵に奪われた罪は重い。しかし海軍上層部は、
「福留中将を捕えたのは敵の正規軍ではなくゲリラであるから、捕虜にはあたらない」
という妙な理屈をつけ、福留を軍法会議にかけることも、予備役に編入することもしなかった。それどころか、司令部の失態を糊塗するかのように、6月15日付で、新編された基地航空部隊・第二航空艦隊司令長官の要職に福留を栄転させたのである。