そして2月17日――。
「早朝、まだ仮設ベッドに寝ていたわれわれは、突然の『空襲警報!』という声に飛び起きた。空はもう明るくて、よく晴れていました。その空を見上げて肥田隊長が、『グラマンだ!』と叫んだ。指さす方向を見ると、敵の艦上機はすでにトラック上空に飛来している。完全に奇襲を食った形になりました」
午前4時20分、トラックの電探(レーダー)が敵機の大編隊を探知。空襲警報発令と同時に「第一警戒配備」が発令されたが、邀撃(ようげき)態勢をととのえる暇もなく、敵機の来襲を受けた。このとき、米機動部隊指揮官マーク・A・ミッチャー少将は、新戦法を採用している。第一次に発進させた72機を、すべてグラマンF6Fヘルキャット戦闘機で揃えたのだ。F6Fは、前年10月、マーシャル諸島上空で零戦と初対決したばかりの新鋭機で、優秀な運動性能と強靭な機体で零戦を圧倒するようになっていた。まずF6F戦闘機で、邀撃してくる日本側の戦闘機(零戦)を叩き、抵抗がなくなったところを艦上攻撃機、艦上爆撃機でゆっくり料理しようという作戦である。
警戒配備が解かれていたので、トラック島の零戦隊の大部分は機銃弾も積んでいなかった。航空隊も、進出してきたばかりの部隊の寄せ集めであるから、指揮系統がバラバラで、各飛行場は混乱に陥った。やがて燃料、機銃弾の準備のできた零戦から順に離陸し、敵機を迎え撃ったが、離陸直後の不利な態勢で襲われ、被弾して火を吹き墜ちるものも多かった。敵機の空襲は午後5時までに計9回、来襲した機数は450機にのぼったと記録されている。
零戦隊は弾丸を撃ち尽くすと基地に着陸し、機銃弾を補充してはふたたび離陸することを繰り返し、のべ56機(うち不確実6機)を撃墜したと報告したが、空戦で28機を失った。米側の実際の損失は25機だった。二〇四空のベテラン搭乗員・前田英夫飛曹長は、第一波の空戦の途中で機銃弾補給に着陸。F6Fを2機撃墜と報告ののち、ふたたび飛び立ち、そのまま還らなかった。
前田飛曹長は、最後に発進するとき、
「こんな奇襲を受けやがって、戦争にならん。司令部は何をボヤボヤしてるんだ!」
と、吐き捨てるように言い残して離陸していったと伝えられている。
わずかに生還した零戦も、敵が飛行場に投下していった時限爆弾の爆発で全機が破壊された。
五五一空の「天山」艦攻隊は索敵に、あるいは空中退避に、次々と発進していったが、離陸直後に敵戦闘機の攻撃を受け、その多くが撃墜された。せっかくインド洋から運んできたばかりの「天山」26機のうち20機が、撃墜されたり地上で燃やされたりした。
日本側の損害は、飛行機の未帰還67機、地上での大中破96機にのぼった。翌2月18日にも4次にわたる空襲を受け、地上施設や燃料タンク、糧食などに大きな被害を受けたが、もはや飛べる零戦は1機も残っていなかった。この両日の空襲で撃沈された日本側艦船は、艦艇10隻、船舶33隻にのぼり、そのほか12隻の艦船が損傷した。まさに真珠湾攻撃のお返しをされたかのような大損害で、失われた飛行機は、南方の戦線へ補充するため基地に保管されていた機体もふくめ、約300機にのぼる。
こうして、トラックは、海軍の拠点としての機能を事実上失った。壊滅したトラックの戦力をテコ入れするために、最前線ラバウルに展開していた航空部隊はすべてトラックに引き揚げさせることになり、2年間にわたり南太平洋の最前線基地として、ソロモン諸島やニューギニアからの米軍の侵攻を食い止めてきたラバウルも、ついにその戦力を失った。これは、海軍が、南太平洋での戦いを事実上放棄したということでもあった。
門司さんの瞼には、トラックの環礁内で、敵機の爆撃を受けて火焔を上げる油槽船や、みるみるうちに沈んでゆく貨物船の姿が焼きついた。晴れた空と青い海がひどく澄んでいて、そこで繰り広げられる一方的な殺戮が、ことさら凄惨な光景として胸にこたえた、と門司さんは筆者に語っている。
夜になって、緊張と不安のなか、空襲を敵上陸の前触れと早合点した菅原司令が玉砕命令をくだした。
「我が隊は最後の一兵まで楓島を死守し、玉砕する」
というのである。門司さんが司令に、
「玉砕は戦った結果だから、ここは、あくまで戦えと言うべきですよ」
と食ってかかる。司令もふと我に返って、もっともだと思ったらしく、
「帝大出は理屈を言う。こんどからはそうしよう」
と言い、一瞬、その場の緊張がほぐれたと、飛行隊長だった肥田真幸さんは回想するが、敵が上陸してくれば、いずれ全滅するのは間違いない。隊員たちは「えい、クソ!」と、簡単に玉砕の覚悟を決めた。門司さんは、防空壕で、同じ楓島基地にいた第二五一海軍航空隊司令の中佐が空襲の恐怖におののき、部下の下士官たちに蔑まれる姿をまのあたりにした。
ところが、米軍はトラックには上陸してこなかった。もはや戦力を失ったトラックは捨ておいて、次なる目標に向かおうとしていたのだ。
中部太平洋における最大の拠点であったトラックが奇襲を受け、大きな損害を出したことは、日本海軍にとって大きな痛手だった。海軍省はこれを「丁事件」と称し、責任問題にかかわる資料を収集するため、水雷学校長・大森仙太郎少将ほか2名の調査官をトラックに派遣する。だが結局、大森少将一行の判断は、
「この少ない兵力をもってあの攻撃に対処するには、誰が作戦指導しても大同小異」、「飛行機の指揮系統に若干不備の点あり。トラックの空襲はやむを得なかった」
というもので、結局、責任の所在は曖昧にされる。